それはあまりに残酷な
週末の浮ついた雰囲気が、店内を満たしている。魚がうまいと評判の居酒屋チェーン。価格も良心的で、給料日前でもそれなりのものが食べられる気安さからか、店は満席に近い。すでにできあがっているサラリーマン集団の間を縫うように移動しながら、天堂浩介は空いているテーブルを探して周囲を見渡した。
「あ、こっち、空いてるっすよ」
浩介の後ろをついて歩いていた後輩、半井晶が声を上げる。晶が指さす方向を見ると、二人掛けの小さなテーブル席があった。ついさっきまで他の客がいたのだろう、汚れた皿が置かれたままになっている。忙しくて手が回っていないのだろうか。そんなことを考えながら浩介は席に座った。
「繁盛してるっすね。いいことっす」
浩介の向かいに座り、晶が安心したようにうなずく。
「何目線だよ」
苦笑して、浩介はテーブルの端に汚れた皿を重ねた。前の客が残していったおしぼりを手に取り、机を拭こうとしてふと、動きを止める。おしぼりで机を拭くのはマナー違反だろうか?
「すみません! すぐ片づけますんで」
テーブルの惨状に気付いた店員が、慌てた様子で近づいて来る。浩介は余計なことをすまいとおしぼりを皿の横に置いた。まだ若い店員が、きびきびとした動きで机を片づけていく様は見ていて気持ちが良い。
「ついでに、注文いいですか?」
テーブルを拭き終わったタイミングを見計らって、浩介は店員に声を掛ける。店員は「ありがとうございます!」と返事をして端末を取り出した。
「生ビールと枝豆」
「自分も生と、揚げ豆腐ください」
店員は注文を復唱すると、ちょっとした曲芸のように器用に皿を抱えて、店の奥へと姿を消した。よく落とさないもんだな、と、浩介は心の中で感心する。
「魚が自慢の店に来て注文するのが枝豆と揚げ豆腐って、どうなんすかね?」
晶が軽く眉間にシワを寄せた。確かに、美味しい魚を仕入れ、準備万端整えて迎えた客が魚を見向きもしなければ、店としてもがっかりな話だろう。『魚河岸直送』の看板も、心なしか寂しげに見える。
「後で頼むさ。魚は日本酒だろ?」
「イカフライとかエビフライとかカキフライならビールじゃないっすかね」
「欲しけりゃ頼めよ」
「わあ、ありがとうございまっす」
「いや、おごらねぇよ?」
浩介の言葉を意図的に無視して、晶はメニューに目を落とした。給料日前はお互い様だ。浩介がおごる流れをいかに作ることができるかが、晶の今日の運命の分かれ道だろう。
『見逃し三振! 三回の裏、ジャイアンツの攻撃は三者凡退に終わりました!』
カウンターの向こうに置かれたテレビが、野球のナイター中継を映している。客のためというより、店主が見たいために置かれているのではないかと邪推してしまうのは、店主が料理の合間合間にチラチラと試合の様子を気にしているからだろう。幸い、他の客は気にしていないようだ。野球好きが客に多いのかもしれない。
「プロ野球って、もう始まってるんだっけ?」
何の気なしに言った浩介の言葉に、晶は弾かれたように顔を上げ、未知の生物を見るような目で浩介を見つめた。
「何言ってるっすか? とっくに始まってるっす。今何月だと思ってるっすか?」
「ご、ごめんなさい」
思わぬ強い晶の反応に、浩介は思わず謝った。基本的に野球に興味が無い浩介にとって、プロ野球はいつの間にか始まっていて、気付いたら終っているような存在であり、具体的に何月に始まるのかも、いつ終わるのかも知らないし、そもそもそれは重要な関心事でもない。しかしどうやら晶にとってはそうではないようだ。
「野球、好きなんだっけ?」
「好きっす。愛してると言っていいっす。ノー野球ノーライフっす」
即答する晶の目には何の迷いもない。気圧されたことを隠すように、浩介は軽口を返した。
「ノーベースボールノーライフ、じゃないのね」
「野球とベースボールは別物っす。自分が好きなのは野球であってベースボールではないっす」
「そ、そうですか」
野球をベースボールの和訳だと思っていた浩介にはその違いが分からず、そう答えるのが精いっぱいだった。野球というのは浩介が思うよりずっと奥が深いのかもしれない。よくは分からないが。
会話が途切れ、晶は再びメニューに目を落とした。高すぎるものは頼めない。安いものはもったいない。おごってもらえるギリギリのラインを見極めようとしているのだろう。浩介は晶の態度に違和感を覚えた。野球好き、という割には、晶は店に入ってから一度もテレビに興味を示していない。
「見ないの? 中継」
晶は顔を上げ、複雑そうな表情を浩介に向けた。
「野球は好きっすけど、ジャイアンツはあんまり好きじゃないっす。ジャイアンツが負けると、ちょっとよっしゃとか思うっすけど、意地悪な気持ちで見る試合はやっぱりあんまりおもしろくないっす。好きなチームを応援するのが一番っす」
やや俯き、晶が沈んだ声で言った。野球そのものに対する愛と、特定のチームに対して抱く悪感情の間に葛藤があるのだろう。野球を愛しているというのなら、野球に携わるすべてを愛するべきではないのか。そんな潔癖さは、この真面目な後輩らしいと思う。少し重くなった空気を変えようと、浩介は晶に尋ねた。
「どこが好きなの?」
「カープっす!」
晶の顔が嬉しそうな笑みを形作った。頬がかすかに紅潮し、目はきらきらと輝いている。若々しい生気に満ちた笑顔に浩介は目を細めた。若さはそれだけでまぶしいものだ。もっとも、十年前の自分にこんなまばゆさがあった覚えはないが。
「ええっと、赤い悪魔だっけ?」
話題を広げようと乏しいスポーツ知識を搾りだして放った浩介の言葉は、しかし晶のお気には召さなかったようだ。晶は果てしなく冷たい乾いた目で浩介を見た。
「それ、サッカーのベルギー代表っす。カープは赤ヘル軍団っす」
「だから悪魔なんだろ?」
「赤ヘルのヘルは地獄のことじゃないっす。ヘルメットのヘルっす。飲み屋での私的な話だからいいっすけど、もし公の発言だったらもう夜道を歩けないっすよ」
「え、そこまで?」
ひきつった笑みを浮かべる浩介に、晶は重々しく頷いた。浩介は慌てて両手を机に突くと、勢い良く頭を下げた。
「不適切な発言がありましたことを、謹んでお詫び申し上げます」
「うむ」
晶はいかめしい顔を作って腕を組み、しばらく浩介の頭を見つめていたが、やがて我慢できなくなったように吹き出した。顔を上げた浩介に、晶はあきれ顔で言った。
「バカっすねー」
晶の言葉に、浩介はほっとしたように笑った。場の雰囲気は悪くない。なにせまだ本題に入ってもいない。枕の段階で躓けば、本題に入ることも難しい。
「お待たせしました、生二つでーす」
ちょうどいいタイミングで店員がビールを持ってくる。ふたりは店員から中ジョッキを受け取り、互いに向けて掲げた。
「じゃ、とりあえず乾杯!」
ぐいっとジョッキをあおり、のどを通過する液体の感覚を楽しむ。酒に一家言ある人には異論もあろうが、通でも何でもない浩介にとって、やはり最初の一杯はビールがいい。
「ビールのいい季節になってきたっすね」
くぅ、と奇妙な声を上げて、晶が笑った。ジョッキの半分ほどがすでに消えている。晶に笑顔を返しながら、浩介はどう本題を切り出そうか思案していた。いきなり切り出すのも気が引けるが、あまり後回しにすると晶ができあがってしまうかもしれない。
週末の会社帰りに浩介が晶を居酒屋に誘ったのは、個人的に仲を深めるためではない。プライベートに踏み込むのは浩介の流儀ではないし、仕事を介さない関係性の構築は、どちらかというと彼の苦手とする分野だった。それを踏み越えたのは、最近の晶の仕事ぶりに問題が生じていたからだった。生真面目で努力家、少々こだわりが強く柔軟性に欠けるが、手を抜くようなことは絶対にしない。それが浩介の晶に対する人物評だった。ところがここしばらく、晶の仕事ぶりが集中力を欠いている。単純ミスが多く、作業の進み具合も遅い。ため息を吐くことが増え、どこか心ここにあらず、といった風情だった。何か悩みでもあるのだろうかと思いながら、時間が解決することを期待していたのだが、改善の兆しが見えることはなく、遂に今日、覚悟を決めて晶に声を掛けたのだ。飲みニケーションとは何とも前時代的な響きだが、コミュニケーションの引き出しを多く持たない浩介にとって、それは効果の期待できそうな唯一の選択肢だった。
枝豆を食べながら晶の顔を観察する。晶は結構なペースでビールを飲み干しているが、酔いが回った様子もなく、ケロッとしている。対する浩介はまだ一杯目。晶のこのペースが通常運転なのか、何らかのストレスを抱えているが故の異常なハイペースなのか、浩介には分らなかった。もう少しコミュニケーションスキルを身につけておくべきだったと、今になって後悔している。そういうものは結局のところ、経験の蓄積だ。経験の数と種類だけが未来の予測を可能にする。もっともそれは、他のどんなことにでも当てはまるのだろうが。
「揚げ豆腐、うまいっすよ」
そう言って半分になった揚げ豆腐を差し出す晶から皿を受け取り、ジョッキに残ったビールを一気に飲み干して、浩介は意を決したように切り出した。
「最近、どうよ」
揚げ豆腐の代わりに枝豆の皿を晶に差し出す。枝豆を受け取りながら、晶は怪訝そうな顔を返した。
「仕事だよ、仕事。うまくいってる?」
「うーん。まあ、ぼちぼちっす」
スッと晶が視線を逸らした。自覚はあるということだろう。枝豆を口に運び、もぐもぐと口を動かしている。しゃべらない理由を作ろうとしている。浩介はじっと晶を見つめた。
「もしかして、心配されてます?」
居心地の悪そうに、晶は上目遣いに浩介を見る。
「まあ、それなりに」
「申し訳ないっす」
しゅんとした顔をして、晶は浩介に頭を下げた。
「謝らんでいいよ。ただ、話なら聞くよって話」
落ち込ませるために話しているのではない。浩介は少し茶化すように笑って言った。
「色恋と金のこと以外なら、なんでも聞いてやる」
晶は顔を上げ、脱力した苦笑いを浮かべた。
「それ、ほぼほぼ役立たずっすね」
「確かに」
晶は胸に手を当て、大きく息を吸い込むと、心の澱を吐き出すように長く息を吐いた。浩介は黙って晶の言葉を待つ。晶は幾度かの深呼吸の後、ためらいがちに口を開いた。
「先輩。登竜門ってご存知っすか?」
「? えっと、なんていうか、新人賞的なアレ?」
登竜門という言葉の意味は、ぼんやりとだが浩介も知っていた。ただ、この場で唐突にその言葉が出てきたことに、浩介は戸惑っていた。もしかして、今の会社を辞めて新しいことにチャレンジしたい、ということだろうか? 晶は真剣そのものの顔をしている。
「そうだけど、そうじゃないっす。自分が言ってるのは、その言葉の元になった中国の伝説のことっす」
曰く――
中国は黄河に『竜門』と呼ばれる急流があるという。そこには無数の鯉が集まり、みな上流を目指すが、そのほとんどは『竜門』を遡ること叶わず、諦め、あるいは屍を晒すという。しかし、『竜門』を越え、上流に辿り着いたとき、鯉は竜になるのだという。
「へぇ。そんな話だったのか、登竜門って」
素直に感心しながら、話の方向がまったく見えないことに戸惑うばかりの浩介に、晶は頷きながら話を続ける。
「自分もつい半年前くらいに知ったっす。知った時は、へぇ、くらいにしか思ってなかったっす。でも……」
晶はテーブルに両肘をつき、神に祈るように手を組んだ。顔からは血の気が引き、その肩はかすかに震えている。晶は怯えた声で、絞り出すように言葉を紡いだ。
「自分、気付いてしまったっす。考えるだけでも恐ろしい可能性に。鯉は試練を経て竜になる。もしそれが本当なら……」
晶の放つ深刻な雰囲気に、浩介はごくりとつばを飲み込んだ。晶は続きを口にするのが恐ろしいとでも言うように口を閉ざした。周囲の客たちの、他愛ない会話が混ざり、折り重なってできた雑音だけが二人の耳に響く。やがて晶は、勇気を振り絞るようにして顔を上げ、悲壮な決意をにじませて浩介を見つめた。
「日本シリーズで優勝したらカープは、ドラゴンズになってしまうんじゃないかって!」
「は?」
自分の意志を越えたところで、浩介は甲高い、間の抜けた声を上げた。聞き間違い、だろうか? いや、むしろ聞き間違いであってほしい。目を見開き、口をぽかんと開けたまま、浩介は生まれて初めて、人知を超えた何かに祈った。晶は堰を切ったように早口でまくし立てる。
「自分、カープが好きっす。心から勝ってほしいって思ってるっす。リーグ優勝して、でも日本一にはなれなくて、今年こそはって思ってたっす。自分ができることは応援だけっすけど、だからこそ全力で応援しようって決めてたっす。それなのに、カープは優勝するとドラゴンズになってしまうっす! 人々の記憶は改変され、カープは最初からドラゴンズだったことになってしまうっす! 自分、そんなの絶対耐えられないっす!」
晶は縋るような目で浩介を見る。間違いない。こいつは、本気だ。
「先輩、自分はどうすればいいっすか? このままカープを応援していいっすか? それとも、カープがカープのままでいるために、自分はカープの敗北を願わなければいけないっすか? でも、チームの敗北を願うような人間はファンとは呼べないっす。自分は……」
晶の目から、一粒の涙がこぼれた。涙は頬を伝い、枝豆の上にぽたりと落ちた。
「自分はもう、カープのファンではいられないっすか?」
晶の声が涙で掠れる。浩介は重い身体を引きずるようにゆっくりと晶に身を寄せ、その肩に手を置くと、優しく、優しく微笑んで言った。
「今日は、おごるよ」
「え? い、いいっすか? でもなんで?」
晶は急に恥ずかしくなったように涙を拭った。顔には幾つもの疑問符が浮かんでいる。どうして浩介が急におごると言いだしたのか、話がつながらないのだろう。浩介は心の中で、必死に一つの言葉を繰り返していた。受け入れなければならない。現実を、受け入れなければ。
「人生ってのは、ままならないもんだよな」
「? そ、そうっすね?」
戸惑いが深まるばかりの晶の視線を避けて、浩介は通り過ぎようとする店員を呼び止めた。
「すいません。生、おかわり」
今日は飲もう。とことん飲もう。明日は土曜だ。出勤の予定もない。二日酔いで動けなくても大丈夫。明日はいい日だ。今日よりはきっと、間違いなく。
「好きなもん頼め。なんでもおごる。遠慮はなしだ」
「先輩。さすがっす。自分、一生ついて行くっす」
本当に遠慮する様子なく、晶が店員に追加の注文を伝える。だが、それでいい。もはや金など些細な問題なのだ。この、心に生じた大きすぎる空隙に比べれば。
「今日はおごりたい気分なんだ」
どこか遠く、ここではない場所を見つめて、浩介は独り言のようにそう呟いた。