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薄闇の向こう【3】

会計を済ませた私の手には、ずっしりと重い紙袋が下げられていた。とりあえず、彼のデビュー作の長編と『宝石シリーズ』を全巻。一度にこんなにたくさんの本を買ったのは、生まれて初めてかもしれない。


「長編は平日に読まない方がいい、だって」

「何それ」

「レビューにそう書いてあったんだってば。長いんだけど、一度読み始めたら途中で止められなくなるらしいよ」

「……そんなに面白いんだ」


スマホの画面を指さしながら、友人が少し興奮したように言った。友人の手にも、本屋のロゴが入った紙袋が抱えられている……自分も彼の本が読んでみたいと言い出した友人に、ならばとその場でプレゼントしたものだ。


「でも、いいの? 私の分まで買ってもらっちゃって。……本って結構高いしさ、やっぱり自分の分は払うよ」

「いいよ、こうすれば少しはあの人のところに戻せるかと思って」


私は手にした封筒をひらりと振ってみせた……水族館の帰りに彼から受け取ったものだ。

今まで彼から受け取った封筒は、全て手つかずのままで私のバッグの底に眠らせていた。受け取ったのはいいものの、結局この奇妙な『対価』をどうしたらいいのか分からなかったからだ。このお金を、自分のために使う気には到底なれない。でも、こういう形でなら……何となく罪悪感が軽くなるような、そんな気がした。


「さて、じゃあ今日はこれを肴に飲みますか!」

「女二人がお酒を飲みながら黙って本をめくってるって、なかなか異様な光景だと思うんだけど……」

「それなら、一緒に推理しながら飲むとか」

「……酔っ払った頭で推理するのは、さすがにちょっとキツくない?」

「それぐらい頭柔らかくして読んだ方が、逆にいいかもよ」


えらく上機嫌な友人に苦笑いした私のバッグの中で、何かが震えた。メッセージアプリの着信を知らせる通知音だ。隣にいる友人からメッセージが届くはずはない、だとしたら。

慌ててバッグからスマホを取り出した私は、画面を見つめたまま固まった。……久しぶりに見る名前と、いつもと変わらないたった一言だけのメッセージ。

何も言わなくなった私を見て、友人は笑いながらひらひらと手を振った。


「久しぶりなんでしょ? いいから早く行きなさいよ」

「……相手が誰か、まだ言ってませんが」

「その顔を見れば、わざわざ聞かなくても分かる。……本だけじゃ、全ては分からないでしょ」


文字通り友人に背中を押されて……というか、よろけそうになるほどの勢いで背中を叩かれたというのが正しいが……私は繁華街へと向かう地下鉄に揺られていた。

彼に指定されたのは、いつものバーではなかった。そこから少し歩いたところにある、地下鉄の最寄り駅の改札口前……柱にもたれて文庫本を読んでいる彼がいた。


改札口を出てきた私に気づいた彼は、一瞬不思議そうな顔をしながら、手にしていた文庫本を肩にかけたメッセンジャーバッグに放り込んだ。

思わず見間違えそうになった……シンプルなTシャツに黒のデニム、スニーカーに黒のキャップ。黒縁の伊達メガネは、この前水族館に行った時にかけていたものと同じだ。


「……その格好」

「ん? ……ああ、暑くなってきたから、さすがにライダースってのも変かと」

「いや、バイト帰りの大学生……」

「……自覚はしてるから、それ以上言わなくていい」


そういえば、この二週間あまりで、季節は一足飛びに夏らしい雰囲気に変わっていた。……ただ、私の記憶がそこで止まったままになっていただけで。


「オネーサン、腹減ってない?」


彼の言葉に、はっと意識が戻ってきた。じっと私を見下ろしていた彼に気づいて、その予想外の近さに思わずどぎまぎしてしまう。


「あ、うん。まだ夕飯食べてない」

「じゃ、食いに行こっか……俺もまだ食ってない。というか、昼飯も食い損ねたからマジで死にそう」

「ちゃんと食べなさいよ」

「……オネーサン改め、オカーサンでもいいかもな」


無言で彼の脇腹を一発小突くと、ケラケラと声を上げて彼が笑った……今日は何だか機嫌がよさそうだ。


「書き下ろしの原稿からようやく解放されたんでね。だから、ちょっと息抜き」

「……まだ他にも原稿あるんでしょ?」

「それはまた別の話」


ニヤッと笑った彼の視線が、私の手の辺りでふと止まったことに私は気づいた。本屋のロゴが入った大きな紙袋を見て、彼は何だか訝しげな顔をしている。


「ここ来る前に、駅前の本屋さんに行ってたの」

「何買ったの?」

「気になる?」

「まあ、一応、商売柄ね」


私は無言で、手にした紙袋を彼の目の前に突き出した。袋の中をひょいと覗き込んだ彼は、そのまま固まった……私の顔と袋の中身を、何度も確かめるように交互に見つめている。


「……オネーサン」

「はい」

「それ、俺の本」

「そうだけど」


彼は目を丸くしたまま、金魚みたいに口をぱくぱくさせている。本を出すたび、何十万部と売り上げているはずなのに……自分の書いた本を見て、今さら何に動揺しているのかと、私は何だかおかしくなった。


「私が君の本を買ったのが、そんなにおかしい?」

「いや、だって……オネーサン、ミステリーにはあんまり興味ないって」

「何だか読んでみたくなって。自分の読まないジャンルの本が気になることだって、たまにはあるでしょ」

「いや、そうなんだけど……」


自ら小説家だと名乗ったのだから、私が彼の本に興味を持つ可能性なんて、十分予想できただろうに。……私の行動がそんなに意外だったんだろうか。彼がこんなに困った顔をしているのは珍しかった。

彼は口の中でぶつぶつと何か呟いた後、覚悟を決めたように私に尋ねた。


「……もう読んだ?」

「まさか。本屋で君から連絡もらって、そのままここへ直行したからさ。短編ひとつ読むのが精一杯だった」

「いや、十分読んでるだろ、それ」


何だか諦めたように小さくため息をつくと、彼は私の手から紙袋を取り上げ、そのまますたすたと駅の出口へと歩き出した。

私は慌てて、彼のあとを追いかけた。足早に階段を上がっていく彼は、後ろを必死に着いていく私の様子を気に留めるつもりもないのか、全く振り返ろうとしない。その背中に、私は思わず声をかけた。


「それ、そのまま持って帰らないでよ?」

「出版社からもらったやつが家に全巻揃ってるってのに、んなことするか。……つか、欲しいのなら言ってくれりゃいいのに」

「本屋で買うことに意義があるの。売り上げは大事よ?」

「……お気遣い、どーも」


階段を上がりきって、地上に出る。いつの間にか、街はもうすっかり夜の帳の中だった。看板の電飾と、窓から漏れる照明と、絶えることなく流れる車のヘッドライトが、闇の中に大小色とりどりの光の球を作る。


「……さすがに夜になると冷えるな」


ぽつりと呟いて、彼がようやく振り向いた。街の灯りに照らし出されたその顔は、無邪気に笑っているように見える。

私は、この顔に見覚えがあった。……ぶくぶくと水中で泡を吐き出しては、それと戯れていたアザラシ。その姿を幸せそうに見つめていた時の、あの顔と同じだった。


「オネーサン、ラーメン好き?」

「あ、うん」

「美味い店知ってる。どう?」


私はコクリと頷いた。

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