薄闇の向こう【2】
夕闇に包まれた駅前の大通りは、仕事終わりの企業戦士やコンパに向かう大学生でごった返していた。その人波の中を、私と友人は足早にすり抜けていく。
「付き合えって言うから、てっきりいつものバーかと思ったら……本屋ねぇ……」
「まだ飲みに行くには早いから、いいでしょ」
とはいえ、深夜近くまで営業しているバーと違って、駅ビルの中にある本屋は閉店時間が早い。少し呆れた様子の友人を急かして、私は大通り沿いの駅ビルへと飛び込んだ。
「で、お目当てはこれ?」
友人が指さしたのは、ミステリーの単行本が並ぶ一角だ。棚にずらりと並ぶ『中村ショータ』の本に、私は思わず絶句していた。
……実は、私は彼の書いた本はまだ一度も読んだことがない。『中村ショータ』という名前と、彼が何冊も本を書いている若手のベストセラー作家だということだけは、ネットや雑誌からかろうじて知っていた。
「……こんなにたくさんあるの」
「筆が早くて多作なことでも有名らしいよ、中村ショータって」
「……本当に人気作家なんだ、あの人」
「あれだけ会ってるのにそれすら知らないあんたの方に、私は驚いてるわよ……」
あの水族館の日から、かれこれ二週間近く経つ。その間、私のメッセージアプリに彼からの連絡が入ることはなかった。
シーフードレストランで食事をしながら、今は幾つか同時進行で作品を書いているんだと、彼は私に話して聞かせた。……きっと、話を聞きに出かける暇もないほどに忙しいのだろうと、それぐらいの予想はつく。
だから、彼からの連絡がないことについては、別に何の心配もしていなかった。だが、彼との時間は、私の生活の中にあまりにも馴染みすぎていて……この突然ぽっかりと空いた時間を、私はどうにも持て余すようになっていた。
「それで、あの人の本を読んでみる気になったわけ?」
「うん。そしたら、少しは彼のこと、理解できるかなって」
そうは言うものの、棚にずらりと並んだたくさんの彼の本の前で、一体どれから手を出せばいいのかと、私はすっかり途方にくれていた。友人はバッグからスマホを取り出すと、ネット書店のレビューを検索し始めた。
「最初はやっぱり、デビュー作から読んでみたらどう? レビューの評価も高いし」
「……すごく分厚いよ、これ」
「中村ショータって、もともと長編ミステリーで有名な作家らしいからねぇ」
棚に並んだたくさんの背表紙の中から、友人に聞いたタイトルを探し出して、私はそれを棚から抜き取った。……分厚い。私は決して読書嫌いではないけれど、それでもこの厚さには少し躊躇してしまう。
そんな私の心の声が聞こえたのだろうか、スマホの画面とにらめっこしていた友人が声を上げた。
「あ、短編集もあるって。これも人気らしいよ」
「……そういうこと、もっと早く言って」
「えーとね、そこの段にあるやつ……『宝石シリーズ』って言うんだって」
友人が指さした先には、私が手にしている本よりも若干薄めの本が並んでいた。
ミステリーというジャンルのせいなのか、彼の本の装丁は全体的に暗めの色味が多い。だが、『宝石シリーズ』というその短編集の一群だけは、どれも鮮やかな色合いのデザインで揃えられていた。
「タイトルに宝石の名前が入ってるから、『宝石シリーズ』なんだ」
「うん。最近始まった雑誌の連載も、『宝石シリーズ』の新作なんだって。最新号は即完売したってさ」
そういえば、水族館で彼に見せてもらったメールの中に、小説のタイトルらしきものが書いてあった気がする。あれにも確か宝石の名前が入っていたような……なるほど、このシリーズの続きにあたるのか。
棚からごっそりと『宝石シリーズ』を全巻取り出した私を見て、友人が目を丸くした。
「……ずいぶん豪快に大人買いするのね」
「まあ、利益還元というか。本が売れれば、それが次の作品に繋がるじゃない?」
本を抱えてレジに向かおうとした私の後ろを、友人がくすくすと笑いながら着いてくる。彼女の言いたいことは分かる……彼のファンだったわけでもないのに、いきなり山のように彼の本を買い込むなんて、確かに不可解な行動だと自分でも思う。
「……ひょっとして、好きになった?」
「何が」
「あの人のこと。ずいぶん仲よさそうにしてたしさ」
大学の頃からの付き合いだから、彼女は私のことをよく分かっている……もちろん、私の恋愛のことも、だ。今までの私だったら、ここまで時間をともにするような相手なら、とっくの昔に「彼を好きになったかもしれない」と大騒ぎしているはずだ。
……じゃあ、もう半年以上も顔を合わせている彼のことを、私はどう思っているのか。
少し考え込んで、私はようやく口を開いた。
「……分かんない。でも、彼のことを知りたいとは思う」
私の後ろを着いてきたはずの気配が、ふと消えた。慌てて振り返ると、友人は立ち止まったまま私をじっと見つめている。
「……あんた、半年以上経つのにまだそんな状況なの?」
「何か酷い言われようなんだけど」
「いやいやいや、そういうことじゃなくてさ」
友人は苦笑いしながら、私の方へと足早に近づいてきた。周囲を気にしながら、そっと私の耳元に囁きかけてくる。
「相手は有名人なんでしょ? あれだけしょっちゅう顔合わせてて、何の感情も湧かなかったっていうの?」
「……湧きようがない」
私は友人を人気の少ない棚の陰へと引っ張っていった。そこで……かなり手短にではあったけど、私と彼の奇妙な関係を初めて彼女に明かした。……私と彼は、話をお金でやり取りしていただけなんだ、と。
友人はしばらく何も言わずに、私の顔をじっと見つめていたが、やがて呆れたように口を開いた。
「……道理で、彼の本のこと何も知らないわけだわ」
「だって、本に興味を持つとか持たない以前の問題だったし……」
「最近まで相手の年齢すら知らないままだったって、あんたねぇ」
「向こうが何も話さないから、聞きようが、なくて……」
友人の視線に、私の声はどんどん小さくなっていった。……まあ、これがおそらく普通の人の反応なんだろう。黙ってこの歪な関係を受け入れていた私の方が、むしろどこかおかしかったんだと、今なら分かる。
友人が小さくため息をついた。
「そんなおかしな関係を止められなかったってことは、さ」
「……はい」
「結局のところ、お互いに嫌いじゃないってことだと私は思うんだけどね?」
「そう……なのかな」
今は、何だか自分の感情に自信が持てない。これまでは、ほんの少しでも相手のことが気になったら、それが全てだと信じられた。何も考えずに、相手の胸に飛び込んでいった。
……だけど、彼は薄闇の中で「これが自分の防衛線なんだ」と、封筒を手にして寂しげに笑っていた。
「……彼には、近づけない。だから、何でもいいから彼のことが分かったら……少しでも彼に近づけるのかな、って」
「そういうのを、『好き』って言わない?」
「……分かんない」
「まあ、あんたのこれまでの恋愛見てたら、そうなっちゃうのも分からなくもないけどね。でも、あんたの口からそんな言葉が出るなんてねぇ」
何故か友人は、心から嬉しそうに微笑んでいた。