薄闇の向こう
「……わざとだろ」
「オススメですって、ちゃんと言ったじゃない」
「これがオススメなのかよ……」
濡れた前髪を掻き上げながら、彼が忌々しそうに呟いた。その横で、私も濡れた顔をハンカチで拭っているのだけど。
このイルカショーには、水族館の目玉のシャチも登場する。堂々たる体躯のシャチが、尾ビレで客席に向かって豪快に水しぶきをかける……それが、このイルカショーの人気のイベントだった。もちろん最前列はびしょ濡れ必至だが、夏にはそれを目当てにわざわざここに座る人もいるほどの、隠れた人気イベントでもある。
「化粧落ちた……」
「当たり前だろが。俺を騙した天罰だ」
ケラケラ笑いながら、濡れた眼鏡のレンズをハンカチで拭う彼に、私はポーチから取り出したスマホを差し出した。一瞬目を丸くした後、彼はニッと笑いながらスマホを受け取った。
「スマホだけはちゃんと避難させといた」
「……なるほどね、それで急にあんなことを言い出したのか」
「メール読んでみたかったのは、本当だよ」
「……悪趣味だな、オネーサン。あんなもの読んでどうするの」
スマホとハンカチをジャケットのポケットにしまいながら、彼は苦笑いした。
私は一瞬、言葉に詰まった……確かに、他人宛てのメールを見せてほしいなんて、趣味が悪いにも程がある。たとえスマホを確保するための口実だとしても、だ。
ただ、あの時はどうしても気になったのだ。「あんなもの」なんて言ってはいるが、メールを読んでいた時の彼の表情は、真剣そのものだったから。あの顔は、バーで私の話を聞きながらメモを取っている時の……小説家『中村ショータ』の顔だ。
彼はあのメールを見て、あの時一体何を思っていたんだろうか。私はそれが気になったんだと、今さらながら気づいた。
思えば、私は彼のことをほとんど何も知らない。彼が自分のことを話すこと自体あまりなかったし、私の方も今まで何の興味もなかったから、あえて尋ねたりもしなかった。
……じゃあ、今はどうなんだろうか。
「……子供の通知表を見る親の心境?」
「オネーサン、いつから俺の母さんになったんだよ」
「まだ結婚すらしてないってのにねぇ……」
彼は肩を震わせて笑っている。いくらなんでもウケすぎだろう……私はとりあえず、彼の脇腹を軽く一発小突いておいた。無邪気に笑う『中村晴信』の顔が、そこにはあった。
今日は人が多いせいもあって、広い館内を一通り見て回るだけでも、かなり時間がかかる。お土産を手に水族館を出る頃には、もう空がほんのりとオレンジ色を帯び始めていた。
「オネーサン、どうする? 晩飯食ってから帰る?」
「いいよ、何食べる?」
「寿司」
「……さっきまで魚見て喜んでたよね、君」
彼はスマホを取り出して、近くにある寿司屋を検索し始めた。しばらく画面を見つめていたが、やがて少し困ったような顔でスマホから視線を上げる。
「……手頃なお店が、この辺で見つからないんだけど。移動する?」
「別にお寿司じゃなくてもいいんじゃない? この辺で他のお店探すとか」
「んー……」
彼が、再びスマホへと視線を落とした。ぶつぶつと何かを呟きながら、彼が指先を忙しなく動かすのを、私はぼんやりと眺めていた。
ふと顔を上げた彼が、水族館の近くにある建物を指さした。
「じゃあ、そこのシーフードレストランで妥協する」
「……魚食べるのは譲れないのね」
海沿いの遊歩道は、朝とは打って変わって人影もまばらだった。……親子連れはもうとっくに家路に着いている頃なんだろう。周囲に見えるのは、まだ離れがたいまま近づく別れの時を惜しむ恋人たちの姿ばかりだ。
そんな中で、相変わらず微妙な距離を保ちながら、私たちは無言で歩いていた。海へと吹き抜ける風の音だけが、私と彼の間に流れているような、そんな気がする……何となくいたたまれなくなって、私は先を行く彼の背中に声をかけた。
「……ごめんね」
「何が?」
「お寿司。食べたかったでしょ」
「いいよ、今日はオネーサンのお願いを全部聞くつもりでいたから」
そう言って、彼は穏やかに微笑みながら振り返った。一瞬、そのまま手を差し出してくれるんじゃないかと、そんな錯覚を起こしてしまいそうになる。でも、そんなことは起こらない……だって、私たちは。
「……今日は、『買い取り』しなくていいの?」
「うん?」
「明るいところで話が聞きたいんじゃなかったの? 」
「今日はいいよ、もう明るくないし」
「だけど」
さりげなく話を終わらせようとする彼に、私は思わず食い下がった……何故こんなことを言い出したのか、自分でも分からない。
すると、彼は突然足を止めて私の方へと向き直った。じっと私を見つめる彼の瞳は、先ほどとは違って何だか悲しげにも見える。
「……何も話さないで帰るのは、何だか申し訳ない気がするから」
咄嗟に、そう言ってしまったのは、それ以外にもっともらしく聞こえる言い訳が見つからなかったからだ。本当は、そんなことを言いたいんじゃない。だけど、今はそれを言ってはいけない気がした。
すると、彼はふと小さく微笑みながらこう切り出した。
「……じゃあ、今日はオネーサンの『時間』を買い取らせて」
「……え?」
「どうしてもオネーサンの気が済まないって言うのなら、俺は今日、オネーサンの『時間』を買い取った……そういうことにすればいい」
そういうと、ジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。私に向かって差し出されたそれを、私はかぶりを振って拒んだ。
……だって、もうはっきり分かっている。私の望んだ答えは、こんなものじゃない。
「いらない」
「ダメ。受け取って」
「お金はもういらない。話なら、いくらだってするし」
「……受け取ってくれないと、俺が困る」
だんだんと暗くなっていく空の色は、いつものバーの間接照明を思わせた。その中で、彼は何ともいえない苦しそうな表情で、私に笑いかけている。
「けじめっていうか……防衛線、なんだよ。俺にとっての。だから、受け取って……お願いだから」
私は、差し出された封筒に手を伸ばした。中には数枚の紙幣しか入っていないはずなのに、どうしてこんなに重く感じるのか。まるで重さに耐えかねたかのように、私はその封筒を両手でしっかりと握りしめた。
「……これで、君は一体何を守ってるの」
「さあ、何だろね。オネーサン、かな? ……いや、本当は違うのかもしれないけど、俺にもよく分からないや」
少し安心したように、彼がため息をついた。封筒を握りしめたまま動かない私に、彼は気遣わしげな視線を一瞬寄越して……すぐに海へと視線を移した。
「……さ、晩飯食いに行こうか。今日は俺が奢る」
「いつも君が奢ってくれてるけど?」
「そうだっけ?」
そう言って彼は、いつもの間接照明の下で見ていたのと同じ顔で笑った。
結局、その日は夕食を終えるとすぐに、私は頑なに電車で帰ると言い張ってそのまま駅で彼と別れた。改札口で手を振って、そのまま振り返ることもなくホームへ向かう。ここから家の最寄り駅までは、さほど離れていない……それなのに、これまでで一番長い帰り道のように私には思えた。