憧れを追う光【2】
「次はベタにイルカショーとか行っとく?」
彼の声にはっとする……マイワシのトルネードは既に終わっていて、フロアは再びほんのりとした明るさを取り戻していた。
「蒲焼き丼にしたら何人前ぐらいあるんだろな、あのマイワシ」
「……君は一生彼女できないな、断言する」
立ち上がった彼が、私に向かって手を差し出した。膝の上にかけたままのジャケットのことを思い出し、私は彼にジャケットを返した。
ジャケットに袖を通すと、彼は再び手を差し出した。……あ、そうか。人混みの中は危ないからと、かごバッグを預かってもらっていたんだっけ。迷わずかごバッグを渡そうとした私に、彼はぶっと吹き出した。
「……何か間違えましたかね」
「いや、いい……警戒しろって言ったのは俺だし。何より、オネーサンが馬鹿正直だというのを忘れてたわ」
「……さっきから馬鹿って言い過ぎ」
「ごめん。怒った?」
苦笑いする彼に手を引かれて、私は階段から立ち上がった。そのまま彼にかごバッグを預けると、私は黙ったまま歩き始めた。
馬鹿だと言われたことには、別に腹を立てていなかった。実際、私が馬鹿だったんだから。
雰囲気に流されるままに関係を深めたところで、相手のことなんて分かるはずもない。そんな関係に必死に縋って、自分をボロボロにしていた私は、馬鹿以外の何者でもない。
ただ、その事実を彼の口から指摘されたことが、私はどうにも苦しかった。そして、彼が自分自身を「ダメ男」と言ったことも、悲しくて仕方なかった。
……口を閉ざす私の後ろを、微妙な距離を置いたまま着いてくる彼の気配。私は背中で必死にそれを感じ取ろうとした。
「やっぱり暗いとダメだな」
「何が?」
「顔がよく見えないから。外だと大丈夫だったんだけどな、俺」
「君、鳥目なの?」
「……いや、やっぱりいいや」
館内の照明は、相変わらず薄暗い。おまけに私の後ろを歩いているから、彼がどんな表情をしているのか、私には全く分からない。ただ、その声が少し沈んでいるように聞こえたのは、私の気のせいだろうか。
「オネーサン、イルカショーは見たことある?」
「あるよ……前に、ここへ従妹を遊びに連れてきた時に。君は?」
「ない」
通路の先が明るくなってきた。この先にある出口から、屋外にあるイルカショーの観覧席に出られる。ふと、私の中の悪戯心が疼き始めた。
「……もうちょい後ろの方がよくない? 全体見れるし」
「ここオススメなんだよ。イルカがジャンプする瞬間が間近で見られるんだから」
ふーんという顔で観客席の最前列に陣取ると、彼はジャケットのポケットからスマホを取り出した。じっと画面を見つめたままの彼に話しかけるのも、何だか気が引ける。目の前のまだ何もいないプールをぼんやり眺めていると、ふとどこかから視線を感じた。
……少し離れた席に座る若い女性が、ちらちらとこちらを見ては、隣にいる友達らしき人物に何か話しかけている。彼女の視線の先にいるのは私じゃない、彼だ。
「……お知り合い?」
「何が」
「さっきから、君を見てる人がいるから」
「ああ、芸能人ほどじゃないにしろ、俺、一応少しは顔が知れてるからじゃない?」
まるで他人事のようなひどくあっさりとした口調に、かえって私の方が焦ってくる。私なんかと一緒にいる所を見つかってもいいのか……そう言おうとした途端、彼がぽつりと呟いた。
「あの人たちは、雑誌やらテレビやらで見かける小説家の『中村ショータ』に興味があるだけだよ」
「……君が『中村ショータ』でしょ」
「まあ、そうなるか」
彼は平然とした様子で、相変わらずスマホを眺めていた。名前を教えてくれた時とも、マイワシを見ていた時とも違う、何とも冷めた彼の顔がそこにあった。
「ファンは大事にしないと」
「書いたものを読んでもらえりゃいいよ。俺の顔見たってしょうがない」
「……ほんと、誰に対しても関心ないんだねぇ、君」
彼がちらりと横目で私を見た……が、すぐにスマホへと視線を戻す。ひょっとして、自分の言葉で機嫌を悪くしたのかと一瞬不安になった私に、彼はうっすらと微笑みを浮かべながら言った。
「だから、『中村ショータの書く人物は嘘くさい』って言われてる。前に話したでしょ、俺」
「そうだけど……」
「でも、最近はそうでもないらしいよ」
彼が私の目の前にスマホを突き出した。画面に表示されたメールの差出人が誰なのかは分からないが、どうやら彼の仕事に関係している人物らしいというのだけは、文面から何となく分かった。
「……今回の連載は、主人公の心情がリアルで非常によかったと思います……?」
「前の編集さんからの感想。俺に『人物が嘘くさい』って、最初に指摘した人。今でも俺の本が出ると、こうやって感想送ってくれる」
「……よかったじゃない。褒められてるよ、これ」
「うん。人物のこと褒められたの、これが初めてかも。『何があったんですか?』とまで言われるとは思わなかったけどさ」
まあ、確かに酷い言い方ではある。でも、逆に言うとそれぐらい彼の描写が劇的に変わったということだ……彼を古くから知っているはずの人物ですら、彼に一体何があったのかと驚くほどに。
笑いながらスマホをしまおうとする彼の手を、私はやんわりと止めた。
「ちょっとそれ貸して」
「……何で?」
「さっきのメール、もう一回よく読ませてよ。何か嬉しいから」
「……他人宛てのメール見て、何が嬉しいの」
わけが分からないという顔をしながらも、彼は再びメールを表示させると、私にスマホを手渡した。
さっきは不意のことでよく見えていなかったが、メールの文面は私の予想以上にずいぶんと長いものだった。どうやら、先月から連載が始まった彼の新作が、今までとは違う異色の作品だったことにかなり驚いているらしい。何度も出てくる『何があったんですか』という一言が、その驚きぶりを何よりも雄弁に伝えてきて、私は思わず吹き出しそうになった。
私の考えていたことが分かったのか、彼が苦笑いしながら呟いた。
「……何もそこまでしつこく言わなくてもいいと思わない?」
「それぐらい、君の文章に変化があったってことなんでしょ」
その変化の原因は前の編集さんでも分からないようだった。「個人的な意見だけど」という前置きをしながら、メールの最後はこう締めくくられていた。
『中村さんが心というものに対してきちんと向き合えるようになった結果なのだとしたら、この作品はきっともっといいものになると、僕はそう確信しています』
「……心」
「うん?」
私の呟きは、場内に流れたアナウンスでかき消された。高い女性の声で、プールに移動してきたイルカたちを順番に紹介していく……間もなくショーが始まる合図だ。
アクリル製のプールの壁越しに、水の中でイルカが踊るように動き回っているのが見えた。宙を飛んでいるかのように最前列に座る私たちの目の前を一瞬で横切っては、再びプールの底深くまで潜って、また浮かんでいく。
「……すげえな、これ」
「だからオススメだって言ったでしょ」
目を輝かせる彼を横目に、私は彼のスマホをバッグの中に忍ばせたナイロン製のポーチに入れた。