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憧れを追う光

「オネーサン、ちょっと聞いてもいい?」


少し焦ったような彼の声が後ろから聞こえた。振り返る余裕もなくいきなり掴まれた腕に、思わず力が入る。


「あ、ごめん……すごい人だからさ、さっきからオネーサンとはぐれそうで」


慌てて私の腕から手を離しながら、どこでもいいから掴まっててくれる? と、彼は何だか申し訳なさそうに言った。さすがにこの状況では、お互いの関係がどうのという妙な気遣いなんてしていられない。

手を繋ごうとして……一瞬躊躇ってから、私は彼の腕にしがみつくようにして自分の腕を絡ませた。……今度は彼の身体が固くなるのが分かる。彼の顔をちらっと伺うと、何だか戸惑ったような彼の視線とぶつかった。


「……オネーサンさ」

「何でしょう」

「いいの? これ」

「いきなり手を繋ぐよりはマシかと思って。まずかった?」

「……いや。なるほどねぇ、って」


納得したような顔で、彼は再び大水槽へ向かう通路を進み始めた。ひとりで何を納得したのかは分からない……だが、先ほどまでのあの饒舌さが嘘のように、彼はそれっきり何も言わなくなった。


大水槽の前に大きく取られたフロアには、既に席取りを始めている人たちがいた。係員の案内に従って、観客たちは狙いのポジションを順に確保していく。

……この調子だと、水槽を正面から見られる特等席はすぐに埋まってしまいそうだ。

周りに倣って、どこに座ろうかと辺りを見回す私に、声量を抑えた彼の声が降ってくる。


「そっち。階段がある」

「でも、あそこだと正面から見られないよ?」

「……そのスカートで床に座る気?」


返事も聞かずに、彼は私をフロアの脇にある階段へと引きずっていった。

一番下の段に私を押し込めるようにして座らせると、彼は脱いだジャケットを私の膝の上目がけて放り投げる。……何も言わないが、どうやらこれを膝にかけておけということらしい。

私がジャケットを広げて膝にかけるのを見届けると、彼は不機嫌そうに私の隣に腰を下ろした。抱えていたかごバッグを私に押しつけ、何だか呆れた顔でため息をつく。


「……あのさ」

「はい」

「チョロすぎる。……もう少し警戒しなよ。そんなんじゃ、またダメ男に捕まるよ?」


確かに私は男を見る目がないし、自覚もしている。だが、そんなことを君に言われる筋合いはない。……そう反論しようとして、私はすぐに口を噤んだ。

彼は私を横目でちらっと見ると、少し困ったように微笑んでいる。……その笑顔に、私は何だか毒気を抜かれてしまった。


「オネーサン、全然覚えてないでしょ」

「……何を」

「初めてオネーサンの話を売ってもらった時のこと。自分が何を話したか、覚えてる?」


……覚えてない。

あの日は確か、偶然同じバーにいた彼にみっともない愚痴を聞かれて……その後で、彼にその愚痴を「売ってくれ」と言われて……そこから、タクシーの車窓に映る夜景を見ていたところまで、一気に記憶が飛んでいる。

私は一体、彼に何を話したんだろう。すっかり頭を抱えてしまった私を見て、彼は我慢できなくなったように吹き出した。


「そんな悩まなくてもいいって」

「だって、一体どんな恥ずかしい話をしたのかと……」

「まあ、ほとんど過去の恋愛関係の愚痴だねぇ。オネーサンの男性遍歴は、ほぼ把握したんじゃない?」

「……買い戻しさせていただきます」

「クーリングオフ期間は過ぎてるよ」


じとっとした目で彼を睨みつけても、そんなことはお構いなしという顔で彼はニッと笑い返してくる。心底楽しそうな……でも、決して私をからかったり馬鹿にしたりしているわけではないのが分かる、混じりっけのないその笑顔に、私はため息をつくことしかできなかった。

視線を目の前の大水槽へと戻した彼は、おもむろに口を開いた。


「水族館行きたい、って言ってたんだよ」

「はい?」

「水族館とか、映画とか、テーマパークとか。そういう普通のデートがしたかったんです! って。オネーサン、ずっとそう言ってた」

「……マジですか」


そんな子供じみたことを言っていたのかと、私は一瞬我が耳を疑った。だが、マイワシが泳ぎ回る水槽を見つめながら話す彼の顔は、いたって真面目だ。……おそらく、彼の言葉に嘘はないんだろう。

私自身、その発言に心当たりがないわけでもなかった……私の過去の恋愛は、そのどれもが始まり方からしてひどいものばかりだったから。

大学のサークルだったり、合コンだったり、出会ったきっかけは様々だった。だが、辿り着く先はいつも決まって同じ……雰囲気に流されて、振り回されて、都合よく利用されて、自分が大事にされているとはとても思えなかった。


「……別に、特別な何かが欲しかったんじゃないの」

「うん」

「普通に、好きになってほしかっただけなんだけどな」


私の声は、震えていたかもしれない。昔の彼氏にはもちろん、古い友人にだってこんなことを言ったことはない。 私は俯いたまま、膝の上に乗せたかごバッグをぎゅっと抱きしめた。


「俺さ、オネーサンに怒られたでしょ。そんなに面白かったですかって、すごく恨めしそうな目で睨まれてさ」

「……睨んでたつもりはなかったんだけど」

「あれね、実際面白かったんだよね。何でこの人、こんなにひどい男とばっかり付き合ってたんだろうって」

「やっぱり面白がってたんじゃない、君」


ケラケラと声を上げて笑う姿は、いつもの彼だった……だが、すぐに笑い声は止んだ。顔を上げると、彼は大水槽をじっと睨みつけるように見ている。


「最初はね、本当にネタ集めのつもりで声かけたんだ。オネーサンの話聞いて、こいつら本当に馬鹿だなって笑ってさ。……だけどね」

「うん」

「不思議だった……何でダメ男ばっかり選ぶんだろうって。それが、やっと分かった」


ほんの一瞬だけ、彼は横目でちらっと私を見ると、すぐに視線を水槽に戻した。少し考え込むように口を閉ざした後、彼は静かな声で呟いた。


「……そんな馬鹿に自分を大安売りしてたオネーサンは、もっと馬鹿だって」


フロアにショーの開始を告げるアナウンスが流れた。

照明が落ちて、水槽がライトアップされる。魚の身体にライトが反射して、水の中にきらきらと無数の光が散った。


「だから、見てみたくなった。希望が叶ったら、オネーサンどんな顔するんだろうな、って」

「……それで、水族館?」

「まあね」


私の目の前の水槽で、小さな魚が群れを成して大きな渦を巻いた。大きな渦が、小さな欠片となって飛び散って、再び集まってはまた新たな渦を作る。

渦はやがて、それ自体がまるで意思を持つ別の生き物かのように、身体を煌めかせながら水槽の中を目まぐるしく蠢き始めた。


「……で、どうだったの。私は」

「ん?」

「やっぱり、馬鹿だった?」

「俺みたいなダメ男といきなり腕組んじゃうぐらいにはね」


フロアから歓声とどよめきが上がる。誰もがこの幻想的な光景に、心を奪われていた。……自らの意思で曲に合わせて踊っているように見えて、実際はマイワシの習性を上手く利用しているだけだというのに。それでもこんなに心動かされるのは、一体どうしてなんだろう。

ショーに見入る彼の隣で、私はそんなことを考えていた。

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