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青色を飛ぶイルカ

淡いブルーの水槽の中を、アザラシが飛ぶように泳いでいく。一度は素っ気なく通り過ぎていくものの、ガラス越しに自分へと熱い視線を送る観客に、アザラシの方も興味を惹かれたのだろうか。つと引き返してきては、あの真ん丸な黒い目でじっと見つめ返してくる。

……その視線の先で無邪気に笑っているのは、子供を連れた夫婦でも仲睦まじいカップルでもない。熱心にアザラシとアイコンタクトを試みる三十路手前の男の姿に、私は小さく肩を震わせていた。


「……アザラシ、好き?」

「可愛いものを可愛いと思って何がおかしい」


彼は手にしたパンフレットを捲ると、さっそく次の目的地を決めたらしい。アザラシにひらりと手を振って、順路の先へと向かって歩き出した。

休日の水族館は、人で溢れかえっていた。人波を軽やかに抜けながら進んでいく彼の後ろを、私は遅れないようにと必死に着いていく。はぐれないようにと手を繋ぐカップルの姿が、視界の隅にちらっと映った。


「はぐれないでよ? オネーサン、小さいから。ここで見失ったら見つける自信ない、俺」


突然、前を行く背中の向こうから声が聞こえた。てっきり、パンダイルカのことしか気にしていないかと思っていたのに……一応、私の存在も忘れてはいなかったようだ。

それでも、先を急ぐ足を止めることはしない。私が着いてきているか、振り返って確かめるわけでもない。……いや、そもそもそんなことをどうこう言う権利自体、私にはない。

ここが陽光の下じゃなく、薄暗い館内でよかったと私は思った。


「そういう時は、黙ってさっと手を繋ぐとかさ……」

「そういうスパダリ要素は持ち合わせてません」

「だから、女の子と付き合えないんじゃ……」


いつの間にか立ち止まっていた彼の背中に、私は思いっきりぶつかった。こんな人混みの中でいきなり足を止めたら、危ないじゃないか……文句のひとつも言ってやろうと見上げた私の背中に、すいと手が回された。


「先、行って。これなら見失わなくて済む」


彼に肩を押されて、私は促されるまま歩き出した。……こうしてすぐそばまで近づくと、彼との身長の差がはっきり分かる。いつもはカウンターに並んで座っていたから、全く気づかなかった。


「後ろ、気をつけて。さっきから、ずっとオネーサンに着いてきてた」


私よりも頭ひとつ分高いところから、小さい声が降ってくる。


「え、何……」

「バッグ、貸して。俺が持つ」


返事も待たずに私の腕からかごバッグを抜き取ると、彼はそれを身体の前に抱え込んだ。


「財布狙いなのか、オネーサンのお尻狙いなのかは知らないけどさ。用心するに越したことはないでしょ」


そう言って、ちらっと横目で睨みつける……彼のこんな冷たい表情は、今までお目にかかったことがない。普段は笑っているから気づかなかったが、無言だと意外に凄みがある。


「……君、十分スパダリ要素あるよ?」

「そう? でも彼女いないよ」

「前はいたっぽいこと、さっき言ってたじゃない」

「水族館のマグロ見て『美味そう』と言うような奴だからねぇ、俺。推して知るべしだろ」


頭上から、ケラケラと楽しそうな彼の笑い声が聞こえると同時に、肩をとんとんと軽く叩かれた……早く行け、ということらしい。



人の流れに合わせて、普段よりもゆっくりと歩いていく。

かごバッグを抱えた彼が後ろから着いてくるのを、少し緊張した背中に感じた。恋人のようにぴったり寄り添うでもなく。かといって、二人の間に割り込めるほどの余裕があるわけでもなく。

その微妙な間隔が、『話を買う男』と『話を売る女』という不思議な関係を表しているようで、私はふと小さくため息をついた。


「……何で水族館?」

「んー?」

「明るいところって言うほど明るくないよ、ここ」

「俺も今気づいたわ……さすがに、ここで会社の愚痴はないな。浮くなんてレベルじゃないだろ、これ」


苦笑いしながらも、彼の目は既にパンダイルカに釘付けだった。水槽の中を目まぐるしく泳ぎ回るイルカの影が、ぼんやりと青い光に浮かび上がる彼の身体の上を一瞬掠めて消えていく。

私の視線に気づいたのか、彼が不思議そうな顔をしながら水槽を指さした。


「見ないの?」

「……見るけど。『買い取り』はいいの?」


明るいところで話を聞きたい……そういう約束だった。

確かに、この状況で愚痴をぶちまけるをのは気が引ける。だが、その前提がなかったら、私と彼がここにいることはなかったはずだ。


「少しはこの雰囲気を楽しんでもいいと思うけどな、俺。愚痴ばかりだと、オネーサンの顔が険しくなる」

「そんな険しい顔してましたかね、私」


……再びパンダイルカがこちらに近づいてくる。視線を水槽へと戻した彼は、誰に聞かせる風でもなく呟いた。


「明るいところの方がいい顔してるよ」


それはこっちのセリフだと、私は彼に見えないように口を尖らせる。……バーの薄暗い間接照明の下で私の話を売ってほしいと言った『中村ショータ』と、水槽から漏れてくる陽の光の中でイルカを見つめている『中村晴信』。間違いなく同じ人物なのに、明らかに違う二人が私の前に存在していた。


「……頭、空っぽになるよね。こういうのって」

「分かる。たまにはこういう時間が必要なのかもしれない。じゃないと、押しつぶされちゃいそうになる」

「だよな。俺なんて、どうやってこいつ殺そうかとか、毎日そんなことばっかり考えてるしなぁ」

「……誤解されそうな言い方はやめなさい」


くすくす笑いながらイルカを目で追いかける彼の顔は、何だかとても幸せそうに見えた。


固くなっていた心が、だんだん解れていく。自分の中に渦巻いていたどす黒いものが、少しずつ洗い流されていく。……それは、目の前で可愛らしい仕草を披露しているイルカのおかげなのか。それとも、イルカを眺めながら彼と交わしている「ごく普通の会話」のせいなのか。私には分からなかった。

ただ、彼に『買い取り』してもらうはずの愚痴まで、このままでは綺麗に消えてなくなってしまいそうだと……私は何故かそんな心配をしていた。



「マイワシのトルネードショーだって。ご覧になります? お嬢さん」


彼の言葉にふと顔を上げると、目の前にスマホが突きつけられた。いつの間にか、水族館のおすすめ情報を検索していたらしい。

私の目に、マイワシが群れになって煌めく画像が飛び込んできた。


「なります、なります。ここに来るなら絶対見ないと損だって教えてもらったんだ、それ」

「じゃ、場所取りに行きますか。すごい人気らしいからさ」


ジャケットのポケットにスマホを滑り込ませると、彼はちょいちょいと私を手招きした。これが恋人同士なら、ここで相手の手を引いて……というところなんだろうけど。私の愚痴を買い取っているだけの間柄の彼には、そんな期待はするだけ無駄だろう。

私は苦笑いしながら、彼を従えてマイワシの大水槽へと向かった。


考えることは、どうやらみんな同じらしい。大水槽へと向かう通路は、進むほどにその混雑ぶりを増していた。

微妙な間隔を保って歩くなんて、そんな悠長なことをしていたらはぐれてしまいそうだ……私は何度も振り向いては、後ろにいるはずの彼の姿を確かめた。


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