陽光を泳ぐ魚
いつもは、ぼんやりと薄暗い間接照明の中でしか、彼を見たことがなかった。それに、黒のライダースジャケットに黒のデニムとか、いつも暗い色の服ばかり着ていたし。
だから、明るい陽光の下でまじまじと見た彼が、自分が思っていたよりもかなり見目のいい男だと気づいてしまった私は、何だか変な緊張感を漂わせていた。
「この何とも言えない微妙な距離感は何」
「君も小説家なら、雰囲気で感じ取ってみなさいよ」
「……襲いかかるタイミングを狙っているとか?」
ああ、そうだった……彼はバリバリの本格派ミステリー作家だということを、私はすっかり忘れていた。そして、彼がこの手の話題には全くと言っていいほど、鋭い勘を持ち合わせていないことも。
そう話したきり、私たちは押し黙ってしまった。無言のまま歩き続けているのがどうにも気まずくなって、私はおもむろに前を歩く彼に話しかける。
「そういう格好していると、普通の男の子に見えるよね」
「……オネーサン、俺を一体何だと思ってたの」
「だって、いつも怪しげな黒ずくめなんだもの。まさか、こんなカジュアルな格好で来るとは思わなかった」
「さすがに水族館にまでライダースは着てこないって」
苦笑いしながら、彼が不意に振り返った。
黒縁の伊達眼鏡の向こうで、見慣れた人懐っこい目が緩やかな孤を描いている。彼のこんな細かな表情まではっきり見たのは、これが初めてだ。
「君、童顔だったんだ」
「……それ言われるの嫌だったから、今までずっと夜にしか『買い取り』しなかったんだよ」
何だか不服そうな彼の口ぶりに、私は思わず吹き出した。
明るいところで話を聞きたいと言ったのは自分のくせに、何て言い草なのか。いつもは何だか余裕綽々のくせに、何故か今日はえらく子供っぽく見える。
「童顔って言われるの、気にしてたんだ」
「三十路を目の前にして、さすがにそれは、なぁ」
「うぉ?」
「……は?」
三十路という意外な言葉に、私は思わず変な声が出た。数年前にデビューした若手小説家というから、てっきり自分と同い年ぐらいかと思っていたのに。
「まさかの歳上……」
「え、ちょっと待って、オネーサン何歳?」
「来月で二十五だけど……」
うわぁという悲鳴とも何ともつかない声を上げて、彼はその場にしゃがみ込んだ。俺の四つ下かよ……という呟きが、風に乗って私の耳に届いた。
「あれ、言ってなかった?」
「……ない。オネーサンの会社のお局様が今年でアラフォーに突入したのと、セクハラ上司に高校生の娘がいるのは、聞いた」
「それ、私の歳と何の関係があるのよ」
彼はしゃがみ込んだまま、ふと顔を上げた。……ちらっと横目で私の様子を伺ってくる彼と、思わず視線が合う。
彼は私からつっと視線を逸らすと、小さくため息をついた。
「……さすがに、四つ下相手に『オネーサン』はないよなぁ」
「別に? もう慣れちゃったし」
「俺がイヤだ」
そう言うと、彼は何だか困った顔で口の中でブツブツと呟いた。眉間に皺を寄せながら、真剣に何か考え込んでいる……自分よりも歳下だと分かった私を『オネーサン』と呼ぶのが、そんなに気に入らないんだろうか。
やがて、彼はふと何かを思い出したように口を開いた。
「……名前」
「はい?」
「オネーサンの名前。そういえば、俺、オネーサンの名前知らない」
……彼の予想外の言葉に、私たちはお互いにはたと顔を見合わせた。
思い返してみれば、私が彼と出会ってからもう半年以上になる。あれほど頻繁に顔を合わせては、さんざんくだらない身の上話をしてきたというのに。
私は、彼に自分の年齢はおろか名前すら教えていなかったことに、今さらながら思い当たった。
「リコ。理科の理に、子供の子」
私は人差し指で、空中に自分の名前を書いてみせた。彼は噛み締めるように、初めて聞いた私の名前を何度も復唱する。
「……リコさん」
「そう」
「リコさん」
「はい」
「リコさーん」
「……やっぱりオネーサンのままでいいわ」
……彼がぶっと吹き出した。私はそんなに変な顔をしていただろうか。
大体、今まで彼は、私の年齢どころか名前すら全く気にしていなかったというのに。突然改まって慣れない呼び方をされたところで、私は何だかくすぐったい思いをするだけだ。そもそもこの関係自体が奇妙なんだから、呼び方なんてもうどうでもいいじゃないか。
……何より、彼が『オネーサン』と呼ぶ声は、何だか人懐っこくて柔らかい。その響きを、実は案外気に入っていたのかもしれないと、私はようやく気がついた。
「……ハルノブ」
「は?」
彼はゆっくりと立ち上がると、おもむろに私の右手を取って、掌に指で文字を書きつけた。
「俺の名前。中村晴信……晴れるに信じるで、晴信」
「……何で本名教えてくれたの?」
「俺だけペンネームじゃ不公平でしょ」
笑いながらそう言うと、彼は水族館へと続く海沿いの遊歩道へと足を向けた。
休日の遊歩道は、同じ目的地へと向かう家族連れやカップルで溢れかえっていた。そんな中に、話をお金でやり取りするという奇妙な関係の私たちが混じっている。もちろん、そんなことを知る人は私たちの他に誰もいない。……だけど、傍目には私たちは一体どう見えているのだろうか。
先を行く彼の背中をぼんやり見つめながら、私は何故かそんなことを考えていた。
「潮の香りがするね」
「俺、この匂いあんまり好きじゃない。何か鼻につくというか……なじみがないんだよねぇ」
「海になじみがないってこと?」
「そ。俺、海無し県の出身だから。海よりも川の匂いの方が安心する」
何となくぶっきらぼうな口調とは裏腹に、肩越しに見える彼の口元は緩やかに上がっていた。
「川の匂いってどんなの?」
「んー……何となく青臭いというか。例えるならキュウリみたいな匂い」
「……もう少し小説家らしさを感じさせる表現でよろしく」
「俺、編集さんからダメ出し食らってるみたいな気分になるわ、オネーサンといると」
少し考え込んだ後、彼は静かに笑いながらこう答えた。
「……夏の匂い。花火大会の会場で空が暗くなるのを待っている時に、いつもこの匂いがしてた」
……今日の彼は、やたらと饒舌だ。
水族館のチケット売り場に並ぶ間にも、彼はいろんなことを話し続けた。内容のほとんどは、日常の中であった他愛もないことで……たまに、彼自身に関することや昔の思い出話が混じることもあった。
「水族館なんて十年ぶりぐらいか……大学生の時以来だ」
「……彼女さんと来たとか?」
「マグロとイワシ見ながら『腹減った』って言ったら、翌日からぱったり連絡なくなったって話、聞きたい?」
確かに最近は、彼の方から話すことも多かった。だが今日の彼は、それに輪をかけてよく喋る。
明るい陽の光がそうさせているのか。それとも、周りの浮き立つような雰囲気にあてられているのか。チケット売り場を抜けて水族館の入場ゲートを目の前にしても、彼の言葉は途切れることがない。それらをひとつも聞き逃すまいと、私はとにかく必死に耳を傾けていた。
……海から吹き抜ける風で髪が乱れるのも、今日はあまり気にならなかった。