双子の片割れ
「ラーメンとは、また庶民的な……」
「オネーサンさ、俺の食生活をかなり誤解してない?」
「いや、だって水族館行った時も、いきなりお寿司食べたいって言い出したし」
「あれは、魚見てたら食いたくなっただけ」
いつものバーとは反対方向……華やかな表通りから一本裏に入った小さな通りを、私たちは歩いていた。光が満ちた表通りからほんの少し離れただけなのに、何だか闇の濃さが増したような気がする。ぽつりぽつりと並ぶ看板の灯りにぼんやりと照らし出された彼が、不意に口を開いた。
「俺ね、身近な奴には、俺が小説家だってことほとんど知らせてない」
「……へ?」
「逆に、小説家になってから知り合った奴は、俺の本名を知らない」
彼が何故、いきなりそんなことを言い出したのか、私は分からなかった。だけど、彼の言葉が意味するところは、私にも何となく理解できた。つまり、彼が『中村晴信』であり『中村ショータ』でもあることを知る人は、ほとんどいないということだ。
「……何で」
「長くなるけど、聞く?」
「前フリだけして、そういうこと言う?」
「それもそうか」
薄暗がりの向こうから聞こえてくる笑い声は、どこか少し寂しそうにも思える。少し長めのの沈黙の後で、彼はぽつぽつと話し始めた。
「俺、すごく好きなミステリーがあってさ。俺もこんなの書いてみたい! って、大学入った頃から本格的に小説書き始めてさ。……最初は、誰にも見せる気なかったんだよ」
「え、何で」
「いや、普通に恥ずかしくない? 素人が趣味で書いたものだよ?」
私は思わず吹き出した。……彼の主張自体は、何も間違ってはいない。だけど、その言葉が現役の人気ミステリー作家の口から出てきたものだと思うと、何だか妙な気分になってくる。
「でも、やっぱり誰かに読んでほしくてさ……で、大学二年の時に、これが最初で最後の挑戦だ! ってつもりで、夏休みまるまる潰して長編ミステリー書いた」
「ひょっとして、それが……」
「そ。大賞取った、俺のデビュー作。夏休みの課題もバイトも、付き合いも全部放ったらかして、ひたすら書いてた。……そしたらさ」
「うん」
「見事に振られた。まあ、もともと俺の小説には全然興味示さなかったし。そんなもんでしょ」
別に相手を責めるわけでもなく……彼の語り口はひどく淡々としていた。私は、何と返せばいいのか分からなかった。
「んで、コンテスト出したら、運よくそれが大賞取って。家族も友達も、自分のことみたいにすごく喜んでくれた」
「そっか、じゃあ頑張った甲斐はあったんだ」
「まあ、ね。でも、余計なオマケまでついてきてさ……どこで聞いたのか知らないけど、『やり直して』って連絡よこしてきた」
あえて『誰が』とは言わなかったが、そんなもの簡単に想像がつく。どうして彼がそこを濁すのかは分からない……でも、今はそうしてくれた方が気が楽だ。少なくとも、胸の奥に重たく広がり始めたどうしようもない『モヤモヤ』を、彼に気づかれずに済む。
「あー、それは……」
「分かりやすいだろ? 俺の書いたものなんて、今まで見向きもしなかったのにさ。ろくに読みもしないで、ベタ褒めして。アホかと」
「はあ……」
「で、俺のことあちこち広めないでくれ、って周りに頼んだ。まあ、知ってる人に読まれるのが恥ずかしかったってのもあるけど……だから、今も俺が小説書いてるの知らない奴、結構いるよ」
彼の言葉に全く棘はなかった……それでも、私の心はさっきからチリチリと痛み始めている。今まで全然興味もなかった彼の本を、突然読もうと思った私。彼が賞を取った途端に、手の平を返した過去の『誰か』。そんな二人のどこに差があるというのか。
「小説家になったらなったで、また似たようなこといっぱいあってさ。人って、そんなもんだよなぁと。飽き飽きしてさ」
「……君、モテてたんじゃん」
「小説書いてる方は、ね。俺にはもうずっと彼女いないよ」
「どっちの君も君じゃないの?」
前にもそう聞いた気がする……イルカショーの観覧席で。あの時は、何だか他人事のような気の抜けた返事しか返ってこなかった。
暗がりの中から、彼の言葉が飛んでくる。
「……割り切るようにした。小説書いてる『中村ショータ』は別物なんだって。だから何となく、『中村ショータ』ってのは俺であって俺じゃないって感じ」
「何で、そんなこと?」
「……書けなくなった。俺って一体何? って不貞腐れてたらさ。何も思いつかなくなった。……まあ、ただ単に俺がどうしようもなくガキだったってだけなんだけど」
ふふっと小さな彼の笑い声が聞こえてきた……でも、決して楽しそうには聞こえない。でも、このいつもより密度の濃い闇の中では、彼がどんな顔で笑っているのかすら見えない。私はどうにも落ち着かなかった。
今でこそ笑って話しているが、その頃の彼はまだ、小説家になったばかりの二十歳そこそこの青年だ。そんな彼にとって、「書けなくなった」ということがどれほど重かったのかは、創作とは縁のない私にも何となく想像できた。
「『宝石シリーズ』ってさ、その頃に書き始めたやつ」
「……書けなくなってたのに、書いたの?」
「仕事だから。駆け出しの若造ごときが、書けないから書きません! ってわけにはいかないだろ」
「まあ、そうだけど……」
「この短編書き上げたら、筆折ろうって。そう思って書いてた。完成したら、今度はまた次の短編書いたら、筆折ろうって。……それ繰り返してたら、本が一冊できた」
仕事だからと言うけど、実際はきっとそんな簡単なものじゃなかったはずだ。「書けなくなった」という苦しみの中、筆を折るつもりで書き続けていたという本……でも、さっき地下鉄に揺られながら読んだあの話からは、そんな空気はどこにも感じられなかった。
……むしろ、ただ「書くのが嬉しくて仕方ない」と叫んでいるようにしか思えなかった。
「書いてて分かったんだよね。俺、やっぱり書くのやめらんないわ、って。でも、若造が引き当てるには、デカすぎる当たりだったんだ、って」
「……賞を取って小説家になったことが?」
「うん。『中村ショータ』が勝手にデカくなって、実際の俺とはほど遠くなった。でも、無理して『中村ショータ』になることもできなかった。……だから、割り切ることにした。あれは看板だ、って」
「看板?」
「俺が書いたものを、小説家として世に出すのが『中村ショータ』。だから、『中村ショータ』がどう思われても、俺自身には何も関係ない。……まあ、ただの『逃げ』なんだけどさ」
彼の言葉が、何となく引っかかった。私は、これと同じようなことを、つい最近どこかで見かけた気がする…… そう、あの本の中で。
「だから、主人公が双子?」
「……はい?」
「『宝石シリーズ』の主人公。みんなの前で推理を披露するのは双子の弟の方だけど、実際に謎解きしてたのは兄だったでしょ」
地下鉄の中で読んだ、『宝石シリーズ』の第一作目。その中で、主人公の一人である双子の兄は、自分が解いたトリックの謎を全て双子の弟に託して、自分は一切表に出てこようとしなかった。……推理を披露して、みんなから拍手喝采を受ける弟。だが、兄はそれを気にもしない。