話を買う男
……酔っ払いの繰り言って厄介だ。
飲み会の席で、終わることなく繰り返される上司や彼氏の愚痴に、ひたすら相槌を打つ。内心閉口しながらも、そんな素振りは一切見せずに愛想笑いを浮かべ続けるとか……これは一体どんな苦行なんだ、と。
私も以前はそう思っていた。
「ねえねえ、ちゃんと聞いてる? マスター」
「はい、もちろん聞いてますとも」
カウンターの向こうでワイングラスを磨きながら、初老のマスターが苦笑する。もう何杯目かも分からなくなったカクテルを、私は一気に口の中へと流し込んだ。
……美味しい。もはや何て名前のカクテルだったのかも思い出せないけど。マスターの作るお酒は、こんな時ですら美味しい。
隣で私の愚痴を聞いてくれていたはずの友人は、いつの間にか姿を消していた。それでもまだ話し足りない私は、行きつけのバーのマスターを相手に、別れたばかりの彼の愚痴を延々と零し続けていた。
「でね、あいつってばさ……」
マスターにカクテルのお代わりをねだりながら、私は再び……いや、ひょっとしたら五回目ぐらいだろうか……別れ際の彼の手酷いやり口を語ろうとした。……ふと気づくと、くつくつと噛み殺すような笑い声が、私の耳に飛び込んでくる。
声の主の正体を探して、私は視線を彷徨わせた。
……いた。
少し離れたカウンターの一番奥の席で、肩を震わせている若い男。男は頬杖をつきながら、手元の小さなノートに何かを熱心に書き付けていた。
やがて、私の視線に気づいたのか……男は書き物をする手を止めて、ふと顔を上げた。
「いや、ごめん。別に、盗み聞きしていたわけじゃないんだ。偶然、耳に入ってきたもんだから、つい」
「……私の話、そんなに面白かったですか?」
「いや、本当にごめんってば……だから、そんな顔しないでくれる?」
男は苦笑いしながらノートを閉じると、突然席を立った。つかつかと私の方へと歩いてくると、一時間前までは確かに友人が座っていたはずの、空いた席を指さした。
「ここ、いい?」
「……構いませんが」
何だ、この男は……彼氏にこっぴどくフラれて、酔ってクダを巻いている女を口説こうとでもいうのか。ジロっと睨みつける私の冷たい視線を気にも留めず、俺はニッと人懐っこそうに笑うと、こう切り出した。
「よかったら、オネーサンの話、俺に売ってくれない?」
「……で、終電の時間を過ぎるまで、その男の人相手にひたすら別れ話をリピートしたと」
「そんな楽しそうな顔で言わないでよね……」
翌日、私は薄情者の友人を捕まえると、いつものカフェでランチを取りながら、昨夜の出来事を話して聞かせた。二日酔いの頭に、友人の無邪気な笑い声がガンガン響く。
そんなに笑っているけれど、そもそも貴女が私を置いて先に帰りさえしなければ、こんなことにはならなかったんだけど? ……私はグレープフルーツジュースのストローを噛みながら、あれやこれやの思いを込めて友人を睨みつけた。
「でも、変わった人ねぇ、その人。ひたすら愚痴を聞いた上に、バーの会計も全額持ってくれたんでしょ?」
「帰りのタクシー代まで出してくれたわよ……」
「それで、本当に何もなかったっていうのがねぇ」
……そう、何もなかった。
男はただ私の愚痴を聞いて、それをひたすらノートに書き留めていただけだった。
話に夢中になりすぎて私が終電を逃したと知ると、すぐさまタクシーを呼んでくれた。ひょっとして、やっぱりそっち狙いだったのかと一瞬警戒したが……へべれけになった私一人をタクシーに放り込むと、運転手にタクシー代を渡して、男はそのまま消えてしまったのだ。
「ナンパでも送り狼でもなく、ただ愚痴を聞いただけって……何者なの、その人」
「……さあ」
友人の疑問はもっともだ。わざわざお金を払ってまで、酔っ払いの繰り言を聞いてくれる奇特な人物。しかも、この手の話にありがちな下心もないなんて、普通ならありえない。
そう、普通なら、だ。
……だって、それが昨夜私に起こった不思議な出来事の『全て』ではなかったのだから。
話を「売ってほしい」という男の言葉を、私は全く本気にしていなかった。ただ、愚痴を零す相手になってくれればそれでいいと、本当にそれだけのつもりだった。
さんざん話して、すっかり酔っ払って……目が覚めた時には、私は既にタクシーの中にいた。ぼんやり眺める車窓の向こうには、見慣れた風景が流れている。自宅のマンションまであともう少しだと思った瞬間、私の顔から血の気が引いた。
そうだ、私はカクテル片手にさんざん愚痴って……それからどうしたんだっけ。
バーの会計を済ませた記憶もない。それどころか、給料日前の私の財布の中に、深夜の割増料金のタクシー代を払えるだけの余裕なんてない。
タクシーのメーターの数字は、あと少しで五桁の大台に乗ろうとしていた。マンションの前で停められた車中で、財布とメーターを交互に見てはおろおろする私に、運転手はニカッと笑いながら振り向いた。
「もういただいてますんで、大丈夫ですよ」
目眩がしそうな私とは対照的に、運転手はすこぶる上機嫌だった。今時、お釣りはいらないなんて気前のいい彼氏さんだねぇ……と言われても、訂正する気力もなかった。
ふらふらと自宅に戻ってきた私に、さらに追い打ちがかかった……鍵を探して手を突っ込んだバッグの中で、私の手にカサリとした感触が伝わる。
恐る恐る取り出してみると、それは見覚えのない封筒だった。
そっと中を覗く……諭吉さん。
しかもおひとり様じゃない。慌てて中身を取り出すと、重なる諭吉さんの隙間から何かが滑り落ちた。
「……中村ショータ、って」
シンプルながらもセンスのいい名刺に書かれていた名前は、雑誌やネットでよく見かけたことのある名前だった。
数年前、初投稿でいきなり有名なミステリーの大賞を受賞して以来、ベストセラーを連発している若手小説家。ここ最近の作品は、ドラマや映画の原作にもなっていたはずだ。
……もしかして、あの男が?
いやいや、そんな有名人があんなことをするはずがない。きっとニセモノに違いないと、封筒の中へ名刺を戻そうとした私の目に、名刺の裏側に書かれた文字が飛び込んできた。
『オネーサンの話、確かに買い取らせていただきました。よろしければ、他の話もぜひお聞かせいただきたく存じます』
少し癖のある字で綴られた文章と、そこに書き添えられた電話番号とメッセージアプリのIDに、私の酔いは完全に覚めていた。
ぼんやりと遠く霞んでいた記憶が、ふつりふつりと形を取り戻していく。そう、彼は確かに言っていた……「話を売ってくれないか」と。
つまり、この諭吉さんも……支払った覚えのないバーの会計も、運転手が上機嫌になるほどお釣りが出たタクシー代も。全て彼が私の話を買い取った対価だったと?
あまりにも現実離れした現実に、鍵を取り出すのも忘れたまま、私は手の中の封筒を呆然と見つめていた。
突然、バッグの中のスマホが震えた……メッセージアプリの受信を報せる通知音に、慌ててスマホを取り出す。
てっきり友人からだと思っていた私の顔は、一瞬にして固まった。
『今夜八時、お待ちしてます』