Story017 研修開始
『もう、限界だよ』
暗闇の中で、イオはその声を聞いて目が覚めた。
と同時に、彼女は『まだ寝ていたい』と思った。
それくらい、イオはまだ眠たかった。
いや、それ以前に……まだ外は暗い。
いつも起きる時間帯も確かに暗いのだが、それでも日が昇り始める時間帯だったので、家から見える山の稜線が分かるくらいの明るさはあった。
だとするなら、今は夜中なのか。
そしてその夜中に、いったい誰が起きて何を話しているのか。
眠気を覚えつつも、それが妙に気になった彼女は、とりあえず上半身だけ起こすと……部屋の片隅に、四角い輪郭の光があるのを見つけた。
自分の部屋と、広間を区切る扉からこぼれ出る光だ。
彼女は寝台から降りると、そろりそろりと、足音を立てないよう気を付けながら光を目指す。
『イオが帰ってきてくれたのは嬉しいけどさ、母さん……今までは、イオがいない状態が普通だったじゃん。それで今までなんとかやってきたじゃん』
そして、再び声が聞こえてきた時……イオは、自分の心臓が掴まれたかのような衝撃を覚えた。
その声を、彼女は知っている。
自分の誕生を祝福してくれたハズの、自分の無事の帰りを待ち望んでいたハズのイオの兄の一人の声だ。
『なのに、今さら無事に帰ってきて……イオがいなくなってから……父さんが死んだりして、人手が、収入が減って……ただでさえ今は生活が困窮してるってのに、イオまで養うなんて――』
※
「――ッッッッ」
次にイオが目覚めたのは、赤茶色の土の上だった。
過去の出来事を刹那の夢で見て、それから目覚めたばかりで、今まで何をしてたのか、一瞬思い出せなかった。だがすぐに彼女は、なぜうつ伏せで寝そべっているのかを思い出し、すぐに立ち上がろうとして……口の中にその土が少しだけ入ってしまった。
途端に口の中に、苦味と塩味が広がる。
不快感を覚え、思わずイオは唾と共にそれを吐き出した。
「大丈夫、イオさん!?」
すると、一人の青年が慌てた様子で声をかけてきた。
イオは反射的に、唾を吐くのを中断し、すぐに立ち上がると、声がした方に体を向けた。少々ふらつくが、それでも全身に力を入れ、なんとか踏みとどまる。口の中には、土のザラザラした感触がまだ残っているが、それも無視して、声の主の方へと視線を向ける。
視線の先にいたのは、副ギルド長のレオンだった。
彼はイオがいる地下運動場――ギルド『清浄戦団』の地下に存在する訓練施設の一つの、楕円形の外周部に立っている。
「体は確かに、特訓をすれば鍛えられるけど……適度な休憩も入れないと、その体が壊れちゃうよ?」
苦笑しつつレオンは言った。
「ウチのギルドに入って、すぐに現場に出たい気持ちは、イオさんの志望動機からして理解はできるけど……だからと言ってそこまで無理する必要はないよ。ウチはブラック・ギルドじゃないからね」
「い、いえ……まだいけます!」
自分の身を心配してくれた上司に、イオは心の中で感謝した。
だがそもそも、彼女は……冒険者ギルドで働くために王都までやってきたのだ。
なんやかんやあって、ダンジョンやステージを攻略せんとする冒険者ギルドではなく、その一種である、清掃に特化した清掃ギルドに所属する事になったが、それでも清掃ギルドも冒険者ギルドである以上、すぐに彼女は現場に出たかったのだ。
だからこそ、彼女は自分自身を叱咤する。
そもそもイオは、副ギルド長レオンの従姉であるレナ=アーリオン曰く、冒険者ギルド向けの能力を持っていないのだ。
そしてその事を従姉から知らされたレオンは、イオを現場に出しても生き残れるように、必要最低限の能力を身に付けさせるために、こうして地下運動場にイオを連れてきてくれた。
全ては、イオのためなのだ。
そしてその思いに応えるためにも。自分という存在を採用してくれた恩に報いるためにも。採用して良かったと思ってくれるためにも。
そして現場に出られるようになって……故郷の家族を救うためにも。
彼女はまず、レオンから運動用にと渡されて、地下運動場に移動する前に更衣室で着替えた白い半袖の襯衣と、膝丈の、赤い細袴に付いた土埃を叩いて落とすと、再び運動場に敷かれた白線の外側を走り出した。
※
再び走り出すイオを見ていて、レオンは複雑な感情を抱いた。
ダンジョンに挑む冒険者に必要な、最低限の能力がイオに無いのは、彼女を紹介した従姉から聞いている。
そして面接の時、イオから告げられた志望動機を前に……レオンは試しに、彼女を採用してみようと決断した。
同情した、と言われればそうだ。
それだけ彼女の志望動機は重めな内容だったのである。
しかしだからと言って、すぐに現場に出すワケにはいかない。
今のままのイオを……従姉曰く、冒険者としての能力が無い彼女を現場に出してしまえば、確実に、ダンジョンの魔獣に殺されてしまうからだ。
だからこそ、イオに……『清掃着』に付与された認識阻害効果が一切通用しないような魔獣が現れる場合もあるため、逃げ足のための体力をしっかりとつけさせるべく……まずは、運動場に敷かれた白線の外側を、自分の体と相談しつつ十周走るようレオンは指示を出した。
だが、イオは……冒険者としてすぐに現場に出られない事への焦りからか、最初から全力で走り……途中でバテて気絶した。
まさか最初から本気で走っているとは思わず、途中で倒れたイオを見て、レオンは慌てて声をかけた。
すると、幸いにもイオはすぐに起き上がってくれた。そして問題はないと言わんばかりに、また走り込みを再開したが……彼女が無理をしているのはどう見ても、誰が見ても明らかだった。
(これは、もう……無理やり止めるしかないかな)
そう判断したレオンは「イオさん、いったん止まろうか」と指示を出す。すると彼女は素直に、すぐに止まってくれた。
(確かに素直だね)
従姉から聞いていた通りのイオの素直さに、レオンは心の中で苦笑した。
と同時に、走り込みの際もこれくらい素直なら、無理をしなかったんじゃないかとも思ったりしたが、彼女の家庭環境的に、意識しているのか無意識かはともかく無理をしてしまうモノだと思い直し……新たに指示を出す。
「イオさんは頑張り屋さんですね。でも、倒れるまで頑張ると……さすがにウチがブラック・ギルドに認定されちゃうから……一度一緒に、ダンジョンかステージに行こう」
現場に出られる事になり、イオは心の中で笑みを浮かべた。
疲れて貧血気味なのか、少々青ざめた状態であったため笑みを見せるのは厳しく……残念ながら心の中で。
するとそんな彼女に、レオンはさらに言った。
「無理しないで、慎重に自分の能力を高めてもらうためにも……ダンジョンとステージ、そして冒険者の恐ろしさを……今の内に知ってもらわなきゃ、ね」