5/来訪者
――安形タミコ――
夕食を食べて、茶碗を洗い、風呂に入り。あとは寝るだけになった静かな暗い部屋で、老婆は天井を見つめていた。
思い出すのは、少年の言葉。雑誌に映った、柊木館。
目に映るのは、これと言って模様のない、天井。何かが広がる波紋のような、木目。
木目の中央、楕円とも呼べぬ奇怪な形状が、どこか、操り手のない吊るされただけの人形のようだった。
白い、人形。動かないモノ。その暗い瞳に映るものは、何にもありはしない。
そう、あの時。あの時に、波紋の中央にいた彼女は、まるで――。
老婆は、嫌でも昔のことを思い出す。捨てたくても捨てられない、忘れたくても忘れられない、七〇年も昔のことを。
――あの館、柊木館がこの柊木集落に建って、しばらくした頃だ。
一人の女が、集落へやっててくるようになった。
女の名は、恵果。館に住んでいた柊木夫妻と、柊木の息子が突然病死してしまったものだから、女中などもいなかったあの館で、一人生活していた彼女は食料に困って、集落へやってくるようになったのだ。
柊木館が建つ時は、集落の誰もが心の内で反対した。この集落は俺たちの集落だあ、御先祖様の文化を継いだ誇りある場所なんだあ、東京のように外国にかぶれちゃいけねえ、と。
しかし柊木家は、この集落を支える経営の家だった。集落で出来た食物や道具などを、柊木が外に売って、稼いでいた。他の者では、柊木ほど上手く売り込むことはできない。
集落において柊木の権力が現れ出したのは、一次大戦後だったか。徴兵のために若者たちが引き抜かれ、厳しい状況にあった集落の状況を助けたのは、薩摩の芋という非常に育てやすい芋を持ってきた者だ。それが、柊木の家の者だった。
そういうことがあって、祖父母の時代――もしくはそれよりも前から引き継いできた、柊木に対する『恩』という名の引け目が、やがてはあの家に逆らってはいけないという本能的な『命令』となって、そして七〇年前の時点ではいつしか、この集落では深く根付く『信仰』となっていたのだ。
柊木館の設立について、不満に思うものは多かった。けれど、その不満を口にできる者はいなかった。かつて自分の祖先を助けたという神にたてつき、恩を仇で返すような者はいないだろう。この集落にとって、柊木という名はそういうものになっていたのだ。
そうして、柊木館が建った。
あそこには、村の資料や、住民票などを置く役場のような役割も担う。だからこそ、集落唯一の出入り口である柵の前に建てられた。そこならば、人の出入りを容易に把握できるからだ。
柊木館は、上手く機能していた。最初は柊木館に大きな不満を抱いていた者たちも、柊木館があると便利だということに、薄々感づいていった。しかし、柊木館が皆に受け入れられる前に、集落にとって大きな事件が起きる。
柊木夫妻が、突然病死した。
そしてその息子も、今は病に伏せているという。
なんの病で死んだのかはわからない。しかし人々は口を揃えていった。
――祟りだ、と。
――呪いだ、と。
柊木館を建てる前の話だ。柊木の名とはすなわち集落を支配する者の名であったから、集落の中の若い娘たちは、こぞって柊木の嫁になるのだと意気込んでいた。
集落の中では一番大きな畑を持っている麻木の娘も、その一人だった。
誰が柊木の嫁になる。麻木の娘か。いいや、宿屋の安形だ。違え、楠葉だ。烏野だ。
そんな集落の人々の予想を大きく裏切って、柊木の息子は、どこの馬の骨とも知れない女に惚れ込み、その女を嫁にすると言った。
これまでの集落の歴史の中で、柊木が集落の外から嫁を貰ったことはなかった。誰も口には出さなかったけれど、それが暗黙の了解となっていたものだから、これに反発する人間は多かった。柊木の嫁になると意気込んでいた娘たちはもちろんのこと、娘たちの親、終いには結婚に関して何の関係もない老人たちまでもが、声を揃えていった。
「あんた、ご先祖様に呪われるぞ」と。
しかし周囲の反発を押し切った柊木の息子は、その女と結婚した。女には、たくさんの噂があった。孤児だとか、遊女だとか、村を滅ぼしに来た悪魔だとか。誰もその女と話をしたことがないのに、誰もが口を揃えてそう言った。
そんな中で、柊木の家は柊木館を造ると言ったのだ。柊木館設立に集落の者たちの不満が大きかったのは、結婚の影響も少なからずあったことだろう。
――呪いだ。
誰かが言った。
柊木夫妻に続いて、柊木の息子も死んだ。柊木の妻が呼んだ医者が言うには病死だということだが、集落の誰も、そのことを信じなかった。
そうして、一人の女が、集落へやってくるようになった。
名は、恵果。館に住んでいた柊木夫妻と、柊木の息子が突然病死してしまったものだから、女中などもいなかったあの館で、一人生活していた彼女は食料に困って、村へやってくるようになったのだ。
初めは外の者だからと、閉鎖的であった集落は迎え入れようとはしなかった。当然であろう。――けれど。一体、いつからだったか。いつしかその女は、恵果は、集落の男たちと仲良くするようになっていた。
初めは確か、大きな畑を持つ大原の息子だった。
次は、水田を持っていた稲木の爺さん。
その次は、ニワトリを育てていた伊崎の旦那だったか。
次は、そしてその次は――。
集落の男たちは、次々と彼女に心を開いていったのだ。