4/田舎の夜
十蔵の家でいろいろ話し込んでいたら、もう日が暮れてしまった。
そろそろ帰らなければならないと、鈴と飛鳥は彼の家を後にして、葵荘に戻る。
時刻は一九時頃。ちょうど夕食時なので、帰宅して受付で鍵を受け取ると同時、老婆――タミコに、夕飯は何時頃になるかと鈴が問いかけると。
「は、夕飯だって? 在るワケないだろ、そんなモン」
そんなことを言われた。
「え」
「え」
鈴と飛鳥の声が重なった。
ついでに、お腹の音も重なった。思えば、昼から口に入れたのは、十蔵からお茶請けとして出された漬物ぐらいだ。
「おばあちゃんは、何処で食べたんですか?」
「あたしゃ、知り合いがやってるソバ屋で食べたよ」
「そこ、何時まで営業してるの?」
「二一時だったかね」
鈴と飛鳥は顔を見合わせる。
あと二時間もあれば、この集落の中なら何処へでも行けるだろう。十分間に合う。
「おーけー。俺たち、そこに行ってくるよ」
財布を取ろうと部屋に向かおうとしたとき、「待ちな」とタミコが引き留めた。
「多分、もう閉まってるよ」
「……はい?」
「……おばあちゃん、どうして?」
「こんな田舎じゃ客なんか来ないからね、予約もないなら、そりゃあ閉めるさ」
鈴と飛鳥は顔を見合わせる。
どちらも絶望的な表情だった。
「なんだい、あんたら、飯も準備してないのかい」
波姫からは、困るのはお手洗いが遠いこと、春なのに肌寒いことだ――としか聞いていないので、まさか食事がついていないとは思いもしなかった。
「……はい」
二人が頷くと、タミコは大げさな溜め息をついた後、ニッカリと笑った。
「今からこしらえてやるよ。少し待ってな」
その日の夕飯は、ご飯と卵焼き、それと野菜炒めだった。
☆
「しかし腹減った……。成長期にあの量は、正直ちょっと物足りないよな」
食事をご馳走になり、風呂から出た浴衣姿の鈴は、五分目ほどの空腹を、枕を抱きしめて誤魔化すように、ゴロゴロと布団の上を転がった。
季節はもう春だというのに、まだ少し肌寒い。夜は、毛布があって丁度いい気温だった。
「わたしたち、ご馳走になったんだもん。それ以上文句を言ったら、バチが当たりますからね」
めっ。飛鳥がたしなめるように言う。
本当にその通りだし、わざわざ食事を作ってくれたのだから、老婆には感謝しなくてはならないと鈴は思う。
しかし許せないのが一人。
「先生絶対許さねえ」
「それには同意ですね……」
流石の飛鳥も、食事についての説明すらなかったことは不服らしかった。
不意に、飛鳥が立ち上がる。
「どうした」
鈴が問うと、飛鳥は少し顔を赤らめて、「お花摘み」と言った。
「おう。たくさん摘んできな」
鈴の前を通って飛鳥が部屋を出ると、一分程度で戻ってきた。
「早かったな」
鈴が声をかけると、飛鳥が自分の布団に戻ることはなく、ドアの前でスリッパも脱がず、じっと鈴を見つめるばかりである。
「どうした」
「お手洗い、遠くにあるんだって」
「そうか」
肌寒いために布団から出たくない鈴は、「そろそろ寝ようかなー」とわざとらしく言ってみると、やはり飛鳥がじっと見つめてくる。
「なに」
「そと、暗いよ」
「暗いね」
会話が途切れても、飛鳥の視線が鈴から離れることはなかった。
「……なに」
「お願いですから付いてきてください……」
そんなわけで、トイレ向かおうと宿の外に出たのだが。
「寒ッ! 暗ッ!」
浴衣だけでは寒かった。しかも電灯が周囲に一つもないため、非常に暗い。
昔の言葉に「一寸先は闇」というものがあるが、まさにそれだ。目の前にあるものも、本当に目前にこなければ目に見えない。そんな調子だから、足元なんて、とても見えたものではない。
「これぞ真の闇って感じですね、がくぶる」
飛鳥は冗談ぽく言ったつもりのようだが、どう見ても本気で怖がっていた。
仕方ないと、鈴は飛鳥に手を差し出す。
飛鳥はその意図がわからないようで、きょとんとしていた。
「……手、繋いどこうぜ。流石にこれだけ暗いと、本当に危ない」
お前、怖いだろう。そんなことを言ったら、飛鳥のことだ、少し意地になるに決まっている。だから鈴は、敢えてそういう言い方をした。もっとも、ここまで暗いと危ない、そう思ったのは本心であったが。
「ありがと」
飛鳥は鈴の手を取った。
暗いためによくわからないが、きっと彼女ははにかんでいると思った。
「しっかし、普段の生活がいかに灯りに溢れているかがわかるなあ、これは」
「本当。なんだか、視力失ったのかと錯覚しそうだよね」
☆
そんなこんな歩いて数十分。本来なら五分もかからないハズの距離であるが、道が暗いために何倍もの時間をかけて、ようやく到着したトイレ。
飛鳥が入っていったところを外で待っていると、悲鳴と共に飛鳥が現れた。
思わず飛鳥を庇うように抱きしめて、鈴は飛鳥を背後に回し、トイレを睨んで拳を握る。
「どうした!? 何があった!」
タタリでも現れたのか。
鈴が周囲を睨むが、それらしきものは一向に見当たらない。姿の見えない敵か、もしくは痴漢の類か――。鈴が高速で思考する中で、飛鳥が言った。
「これぼっとんトイレだよ!」
「そんなんどうでもいいだろぉがよぉおおお!!」
鈴の握った拳は、ツッコミのため空を切るのだった。
「大問題でしょ! ついでに紙もない!」
「……ちなみに聞くけど、大きい方なの?」
デリカシーがない。と、グーで殴られた。
確かにデリカシーがないと言われても仕方がないが、しかし紙がないと叫ぶ女の子の方もどうなのだろう。
「ま、いいや。取ってきてやるから少し待ってろ」
「待って、こんなところにわたし一人を置いてく気!?」
「ならどうすんの……」
「えっと……そうだ、二人でランニングをしましょう!」
「この暗い夜道を!?」
「ランニングしましょう!!」
――ということになった。
そのあとも、トイレの音を聞くなとか、自分が用を足した後ですぐにトイレに入るなとか、いろいろ言われてしまった。
女の子は注文の多いことである。
☆
翌日。柊木集落、二日目。
鈴と飛鳥は朝食についての準備もないということで、またタミコが料理を振るってくれた。朝ごはんは、鮭と味噌汁だった。
しかし恩を受けてばかりでは申し訳が立たないと、飛鳥はタミコの手伝いを申し出た。鈴としても、恩を受けてばかりでは気持ちが悪いので、何かやることはないかと聞いてみると、ちょうど男手が欲しかったということらしい。
飛鳥はタミコに代わって野菜の買い出しに向かい、鈴はタミコに連れられて、葵荘の裏側にやってきていた。
「んで、何やればいいの?」
「そこにたくさんの木材があるだろ。それを割ってくれ。鉈はそこ」
タミコが指差した倉庫には確かに、鉈がある。また木材も、倉庫の隣に山のように積まれていた。どうやら、この付近の木々を拝借したもののようだ。
薪割りは、二十分程度で終わってしまった。
「ばあちゃん、薪割り終わったぞ」
「おや、早いじゃないか。あんた細そうに見えて、結構肉があるんだねえ。人は見かけによらなぬもの、ってやつだ」
「多少は鍛えてるからな」
ふふん、と胸を張って鼻を鳴らすと、「なら、その薪も運べるね」と言われた。
鈴は、上手いこと乗せられたような気がした。
割った薪を運ぶため、タミコの後を付いてく途中。これまでは全く気付かなかったが、葵荘の側面には、丸く大きな石があることに気付いた。
どう見ても人為的な丸みに見えるし、また石の前には幾つか花が添えられていた。
「ばあちゃん、これは何だ?」
何かの宗教的な儀礼なのだろうか。今でも地方では石を神――或いは神の依代として奉っているところもあるし、これもその類なのかもしれない。
けれど、違ったようだ。
「見ての通りだよ、墓さ」
それだけ言って、タミコはさっさと歩いて行ってしまう。
「そっか」
ここに居るのは、ばあちゃんの旦那さんなのかな。
しかし、それなら墓だとか、別の場所にあると思うのだが――と考えても詮無きことだ。タミコは戦争前後に生まれたような世代のようだし、年の離れた旦那が戦争で亡くなって遺体がないのならば、墓がないことも、わからないでもない。それとも、もしかしたら、タミコが体力的に墓へ行くことが辛くなったために、ここに墓を配置したとか?
考え付く理由なんて、いくらでもある。この場所は鈴たちの住むのと同じ愛知、同じ高天原とはいえ、なかなか辺鄙なところだし、地方特有の習慣かもしれない。
☆
午前はタミコの手伝いに時間を費やして、昼飯の時間となった。
その日は、鈴と飛鳥、そしてタミコの三人で食卓を囲むこととなった。場所はタミコの部屋だ。コタツとストーブがあって、暖かかった。
「しかし、ちゃんと電気通ってんだな、ここも」
コタツの暖かさに幸せを覚えながら鈴が言うと、当たり前だろうとタミコは言う。
「だいたい、アンタらの部屋だって電気がついただろうに」
言われてみれば、と飛鳥が頷いた。
「昨日も思ったけど、もう電気がないと当たり前っていう世界に生きてるんだね、わたしたち」
「ああ、そうだよ。あたしたちの時代じゃ考えられなかったからね、こんな生活は。ちゃんとご飯を食べられることだって、ホントに、贅沢なことなんだ。……ああ、贅沢なことなんだよ」
タミコは、口に含んだ米をしっかりと噛みしめた。
☆
そうして食事を食べ終えた。
これと言って話すことはなにもなかったので、話題づくりのついでの情報集めとして、鈴は食後に質問をしてみることにする。質問のために取り出したのは、やはりあの心霊雑誌だった。
「ばあちゃん、この鏡の館って知ってるか?」
鏡の館のページを開いて、鈴はタミコに見せた。
「あン?」
タミコは老眼鏡を目にかけて、鈴から雑誌を受け取る。その小さな文字を指でなぞりながら、読み進めるうちにどんどんと眉間に皺を寄せていった。
「……書いてあることは、デタラメばっかだね。アンタたちもしかして、こんなくだらないことを調べに来たのかい」
「くだらないかどうかは、俺たちが決めることだろ。それよりさ、ばあちゃんはこの館のこと、何か知ってるのか?」
その問いに、タミコは何も答えることはなかった。
答えの代わり、雑誌を鈴に付き返した。
「悪いことは言わないよ。此処へ近寄るのはやめときな」
「ん、なんでだよ」
「世の中にはな、行かんほうがいい場所ってモンがある。パワースポット、とかいうだろ、あれの逆だよ。触らぬ神に祟りなし、ってやつだ。……人が殺されたようなところには、人の負の念が詰まっとる」
「――この館の中で、人が殺されたのか?」
病死ではなく、他殺? 館の外で殺されていた被害者たちとは別に、何者かが館の中で殺されていた?
確かに、タミコは殺されたと言った。
十蔵から聞いたように、あの館付近では殺人事件が起きているが、それはあくまでも館の周囲の話である。館の内側で人が死んだとは、聞いていない。
そういえば、噂では、『恵果』という女は知らぬ間に行方をくらましたというが――。
「……さあね」
はぐらかしたタミコは、食器を片付けて台所へ行ってしまった。
飛鳥は彼女を追うようについていく。彼女のことだからおそらく、老婆の片づけを手伝うのだろう。
しかし、いくら話を引き出すことが得意な彼女でも、今日の内に館について聞き出すのは無理に違いない。聞き出すには、もう少し時間が必要そうだった。
とりあえず鈴は、確認を込めて波姫に状況報告をしようとしてスマートフォンを手に取った。電話帳にある波姫の番号を見つけて、番号を押す。
その番号はどの契約会社にも存在しない番号の形式だった。これは“天神”の特別回線を使用した特殊な番号で、ここで行われた会話は、“天神”以外に情報が漏れることはない。
鈴は確かに番号を押したはずだったが、どうしても繋がらない。どころか、呼び出し音すら聞こえてこない。
不審に思いつつ何度か電話をかけてみるが、一向に繋がらない。ふと、電話の隅にある電波の柱が目に映った。
「……どんな田舎だよ」
柱は、一本も立ってはいなかった。