時神鈴の夜
高天原第八地区。
開発途上の山林地帯。
「なぁ、飛鳥。常識ってのは一体、どんなものを指すんだろうな」
あまりに自然な口調で、鈴は言った。
隣に立つ飛鳥は、いまそれを聞くのかという驚きの表情を見せつつも、可愛らしく首をかしげ、唇に指をを当てながら考えた。
「わたしにそんな回答を求められても困るんだけど……。っていうかそれ、前にも聞いて来たよね。最近流行ってるの?」
「マイブームなんだ」
そう言って、鈴は肩をすくめる。
「なんにしてもね」
「ん、どうした」
鈴は、飛鳥に目を向けることなく、目の前を見据えたまま問いかけた。対する飛鳥もまた、鈴ではなく、自身の正面から目を離すことなく告げる。
「わたしたちのコレは、少なくとも、人の言う常識とは大きくかけ離れていると思うよ」
「……だろうなぁ」
時神鈴と、水無月飛鳥。
彼らの前に現れたのは、おおよそ人とは似ても似つかない異形である。
異形は、乾いた土粘土のようにボロボロで剥がれ落ちた肌を持ち、全身からは紫色の煙を噴き出している。おそらく、人を殺す呪いの類だろう。またその全体像は、数多の顔と腕を持った奇怪なものである。阿修羅は三面六臂で有名であるが、これは阿修羅とは似ても似つかぬ醜悪な、十面二十臂とでも言うべき姿であった。
ここを去れ。ここを去れ。
ここは我らの土地、犯すことは許さぬ。
去れ、去れ、去れ。
口々にそれらは言いながら、鈴と飛鳥に詰め寄った。
高天原市の第八地区のとある山林地帯にて、工場開発の計画が再び始まった。
第八地区の山林地帯では奇怪な事故が多く起こり、幾度も工事が中止されそうになったらしい。しかし開発計画ではその場所がどうしても必要らしく、再び工事が再開された先日、また奇怪な事故が起きたという。
調べてみれば、そこは二次大戦時、とある小さな村であったらしい。しかし時は世界大戦の真っ最中である。弱肉強食の言葉の通り、力を持たぬ村は、強者の無差別な空襲によって喰われて消えた。
その時の来訪者に対する怨念が、そしてただ殺されるだけであった憎しみが、この場に残留し、こうして異常な現象を振りまいているようであった。
――タタリ、というものがある。
この世界に未練を残した者の魂は、稀に異常な災害を引き起こすことがある。
それが、タタリ。かつて日本において信仰され、そしていつからか人々の記憶から忘れ去られていった、『まつろわぬもの』。
それを前に、鈴は問いかけた。
「なあ、あんたたちは常識ってなんだと思う」
しかし、目の前のそれは答えない。
変わらず、『去れ』と訴えるのみである。
きっと彼は――否、彼らの集合体は、何十年も前から変わらず此処にいたのだろう。
去れ、去れ、そう言って外敵を排除し、既に荒廃し無くなってしまった村を守るためだけに、此処に居る。
「……そうか。話ができないってんなら、仕方ない」
この世に、変わらないものはない。永遠というものは、存在しない。流れる時はそれこそ、吹き抜けていく風のようなものだから。いつまでも過去を見ていては、未来に進めない。
だから、時神鈴は。
「いつまでも過去に縋るというのなら、歯を食いしばれ」
そんな未練は、俺がこの拳で打ち砕く――と。
過去の呪縛に縛られた彼らを助けるために、拳を握る。
それと、同時。
――夜が、訪れた。
黒い世界。輝く月光。
その中央に立つ時神鈴の姿が、白銀に染まる。
銀、銀、銀。その服も、その髪も、その瞳も。
「さあ、始めようか――」
グッ、と突き出された右拳。
「――時神鈴の夜を」
そうして、彼の夜は始まった。
☆
――あんたは、常識ってなんだと思う?
ある時、常識の枠から外れた体験をして、それを語る者がいるとする。その者に多くの人々が投げかける言葉は、大方決まっている。
『お前は常識がない』
『そんなことは常識ではあり得ない』
『常識的に考えろ』
そういった批判の言葉ばかりであろう。
ならばこそ、此処に問おう。
その常識は、一体誰が決めたのか。
人間の有する知識など、所詮は世界の一部――世界という大きなイラストの一面に過ぎない。人の有する世界の欠片など、途方もなく大きなもののほんの一部に過ぎないというのに、あたかも総てを知っているように物事をいう人の、なんと無知なことか。なんと蒙昧なことか。
大きな赤い一枚のイラストがあるとする。ではそれは、一体、何を描いたイラストであろうか。
――大きな林檎である、と人は言う。
――秋の夕暮れである、と人は言う。
――世界を照らす太陽である、と人は言う。
――世界を破滅にもたらす核の爆発である、と人は言う。
人間の見る世界は、ほんの一部、それこそ、大きな赤い一枚のイラストのようなものだ。欠片でしか世界を視ることができないし、また、他の欠片の世界を知ることもない。
しかしある時、他の欠片が見えてしまったら。或いは、他の欠片に足を踏み入れてしまったとしたら。
あなたの世界は、変わるかもしれない。
この物語は、他の欠片に足を踏み入れてしまったとある少年と、とある少女の物語。
正義の味方に憧れた少年、時神鈴と。
誰より心優しき少女、水無月飛鳥と。
そんな二人を取り巻く人々の、物語。
さあ、彼らの物語を始めよう。
なに、安心するといい。明けない夜は、ないのだから――。