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時神鈴の夜 『坦々片編』  作者: 九尾
殺人鏡館
13/14

9/恵果

 タミコは一人、天井を見つめていた。

 天井には、木目。何かが広がる波紋のような、木目。

 木目の中央、楕円とも呼べぬ奇怪な形状が、どこか、人形(ひとがた)のようだった。

 白い、人形。動かないモノ。その暗い瞳に映るものは、何にもありはしない。

 無視を決め込んでいた。自分は悪くないと。自分だけは悪くないと。けどそれはきっと、ただの逃避だった。自分の中の正義から目をそらして、自分は悪くないと言い聞かせて、殻の中で自分を守っているだけだった。

 けれど、心の奥底には、どうしようもない罪悪感が渦巻いている。だからこそ、睡眠薬瓶(こんなもの)を、いつまでも手に持っていたのだ。

 忘れてしまわないように。あの時の痛みを、苦しみを。そして、己の罪を。


「……しかしまさか、こんなとこでもう一度これを使うことになるとはねえ。けど、許しておくれ。あんたの代わりに、あたしがあの子を止めてやるからさ」


 タミコの前には、睡眠薬で眠らされた時神鈴が倒れている。

 あの会話の後、「お茶を入れてやる」と言って、この睡眠薬を入れた茶を飲ませた。あの少年は、何の疑いもなく、その茶を口にした。

 七〇年も前の睡眠薬だからよく効かないかもしれないけれど、一時間くらいは効き目があるだろう。また、朝食の片付けを終えた水無月飛鳥には、買い物を頼んである。この時間には十蔵と遭遇する可能性が高いだろう。あれは口の減らない男だから、あれに絡まれるだけでも、一時間は動けなくなる。

 鈴の背中に布団をかけて、タミコは部屋を出た。

 これ以上人が死ぬのを見たくない――そう言った少年の笑顔から、ほんの少しだけ、勇気をもらえた気がしたから。


        ☆


 かつて、一人の女がこの集落に現れた。

 その女は、柊木の息子に大層気に入られ、嫁に貰われることになった女だった。

 柊木家は、集落では実質の頂点である。そんな男の嫁の座を狙っていた女たちは、集落には多くいた。しかしそんな女たちを退けて集落最高の地位を奪ったのは、どこの生まれとも知れない、みすぼらしい女だったのだ。

 女の名は、恵果といった。

 集落の者たちは、恵果をよく思うことはなかった。

 

 それから数年が経ったある時、柊木夫妻が亡くなった。病死だった。

 それから一年も経たないうちに、柊木の息子も病気で亡くなった。

 恵果は、一人になった。村の男たちは、恵果を憐れんだ。そして、恵果を助けるようになった。

 当然、それを集落の女たちがよく思うわけもない。恵果は、裏では根も葉もない噂を流されていた。

 身体を売っているのだとか。

 この集落の男たちを操ろうとしているのだとか。

 男とその両親を殺したのだとか。

 集落の侵略者なのだとか。

 本当に、根も葉もない噂である。だからこそ男たちは、揃って「あんないい子に限って、そんなことはないよ」と恵果の味方をする。

 それが、集落の女たちには余計に気に入らなかった。

 そんなある時に――確か、麻木の娘だったか――誰かが言った。

 あの女は、魔女であると。この集落を破滅に導く、魔女なのだと。柊木を滅ぼしたのは、あの魔女なのだと。――だから、始末するべきだと。


 とある、夜である。

 嵐の、夜である。

 集落の女たちは、麻木の指示でこぞって集まり、恵果を捕えた。中には嫌々参加させられている女もいた。タミコも、その1人だった。

 けれど、麻木を止める勇気はなかった。もし止めようとしたなら、自分にも怒りの矛先が向くことがわかっていた。だから、止められなかった。我が身可愛さに、悪に手を染めた。

 睡眠薬で眠らせて、柊木館の二階で恵果を取り囲んだ。

 鏡、鏡、鏡。部屋の中央に恵果をぶら下げて、恵果がどこを向いても、鏡で自分の姿が見えるように鏡を配置した。

 まずは、服を剥いた。綺麗な肌だった。同じ女ながら、見とれるような肌だった。

 しかし麻木を中心とした集落の女たちは、それが無性に気に入らない。

 だから、ナイフを突き立てた。大きな傷をつけた。

 恵果の柔肌に、吸い込まれるように、麻木のナイフが入っていって。とろりと、樹木から溢れる蜜のように、赤い液体が零れだした。つうと、赤が垂れる。

 痛いと、止めてと、恵果は言った。

 しかし弱者の懇願は、強者の支配欲を掻き立てるだけに終わる。

 傷をつけられた。無数の傷をつけられた。

 顔に。腕に。乳房に足に背中に頸部に首に。ありとあらゆる場所を切りつけられて、特に美しかった顔などは、誰かも判別できないほどに切り刻まれた。切り刻まれるうちに、出血のためか、ショックのためか、恵果は死んだ。それでも、女たちは死体となった肢体を切り刻み続けた。

 女たちに、殺された。しかし男たちはその事実を知ることもなく。

 恵果は、失踪したことになった。


 そうして、数年が過ぎたある日の事だった。

 ――一人の女が、死んだ。

 その女は、恵果が来る前の、柊木の息子の花嫁の第一候補。集落で二番目に権力を持っていた、麻木の娘だった。

 見るも無残に顔を破壊されて、体中に無数の斬り傷をつけられて、死んでいた。

 クマにでも遭遇したのだろうか。誰もがそう思った。

 そして数日後、麻木の使用人だった女が、死んだ。

 彼女は麻木の娘によく使えた使用人で、麻木の言うことはなんでも正しいと信じ込むような女であった。

 見るも無残に顔を破壊されて、体中に無数の斬り傷をつけられて、死んでいた。

 おそらく、麻木を殺したクマに遭遇したのだろう。男たちはそう思った。

 クマ駆除のため、専門家を呼んだ。しかし専門家は、クマの仕業ではないと言った。クマならば、女の乳房や太ももなど、肉を食うだろうと言った。殺人事件ということで、警察がやって来た。しかし、殺しの犯人が見つかることもなかった。結局事故ということになり、多くの警察は去った。

 その一週間ほど後。

 女が、死んだ。

 彼女は麻木と大層仲良くしていた女である。麻木、その使用人と共に、恵果に難癖をつけることも、しばしばあった。

 見るも無残に顔を破壊されて、体中に無数の斬り傷をつけられて、死んでいた。

 三つの死体は、まるで同じ傷だった。そして、同じ場所――家主の居なくなってしまった柊木館の近くで死んでいた。

 男たちは言った。人切りが出た。あの館には近づくな。

 女たちは言った。これは崇りだ。あの女が、化けて出た。

 多くの女たちは、別の村へ嫁に行こうとした。そして、とにかく柊木館から離れようとした。

 警察が再び呼ばれ、同一人物による犯行として調査が開始されたため、女たちのほとんどは集落から出られなくなった。

 しかし警察の調査も空しく、数週間後、女の一人が死んだ。

 これによって、余計に女たちは村から離れるようになった。ある者は、外に稼ぎに行くと言って出た。ある者は、夫と子を置いて家を出た。ある者は、自殺した。ある者は、そしてまたある者は――。

 警察は捜査をした。しかし犯人が見つかることはなかった。

 しばらく、事件は起きなかった。

 しかし年末。しばらく帰省していなかった一部の女たちが帰省した時だ。

 ――また、何人かが死んだ。

 そうして、死んでいく。一人。また一人。確実に。

 犠牲者は増えるばかり。それでも警察は、犯人を見つけられなかった。

 そうこうしているうちに時効となって、犯人を捕まえても手柄にならないからと、警察は引き上げていった。また、祟りが起きた。その都度に、警察がやって来た。けれど、警察に犯人を捕まえることはできなかった。

 崇りは終わらなかった。

 何も知らず、年末年始に帰省した者たちが死んでいくことが多かった。また、死んだ女の血を引く娘が死ぬこともあった。かつて女殺しに加担した女たちは、おそらく、もう一人も生きてはいないだろう。

 それでも、止まらない。

 崇りは、止まらない。

 殺すべき女がいないのならば、その娘を。その娘がいないのならば、そのまた娘を。

 代を変えて、祟りは続く。

 いつしか、呪いの館と呼ばれるようになった。いつしか、誰も寄り付かなくなった。そうして、いつしか――心霊スポットと呼ばれるように、なったのだ。


        ☆


「やっぱり、悪いことなんざ、するもんじゃないね」


 ぽつりとつぶやいて、老婆はあの館の前に立った。

 洋風の館で、所々に苔が生え、木々に囲まれたその館。

 タミコがこの館を見たのは、かれこれ七〇年ぶりと言ったところか。最後に見たのは確か、恵果を他の女たちと共に殺した時だった。それ以来、罪の意識を感じてしまうから、この場に訪れることに抵抗があった。

 おそらく、タミコがこれまで生きてこれたのも、この館に近づかなかったからだろう。他の女たちは、この館に近づいたがために、恵果と全く同じ死に方をしていた。年末年始に死者が多く出たのは、そういう理由からだ。この館は、集落の出入り口にある。

 タミコの目に映る柊木館に、昔のような新しさは既にない。今あるのは、古臭さと、そして、異様な雰囲気だけだった。

 意を決して、タミコは館へ足を踏み入れる。

 おそらくこの祟りは、恵果が死んだあの場にいた全員が死ななければ、終わることはないだろう。あの時、鏡の間にいた女はもう、タミコ以外は死んでしまった。だからきっと、タミコを殺しさえすれば、彼女の復讐は終わるはずなのだ。

 祟りは、終わるはずなのだ。

 これまで、死の恐怖に怯えていた。自分がしてしまったことが恐ろしかった。なにより、自分があんな目に合うのが、どうしようもなく恐ろしかった。

 けれど、若い少年少女を見て思った。もう、若い命を殺させちゃいけない。

 自分が死ねばこの女の復讐は完成する。そして完成させてあげれば、きっと――。

 ギチギチと、階段が軋む。それでも、タミコの足は、まっすぐにあの部屋へ向かっていた。あの部屋――鏡の間。そこで見た情景が、脳裏に焼き付いている。

 ――木目のように広がる血液。人形(ひとがた)のものが奇怪な恰好で、天井からぶら下がっている。まるで、マリオネット。

 白い、人形(シタイ)。動かないモノ。その暗い瞳に映るものは、何にもありはしない。

 そう、あの時。七〇年前に、波紋の中央にいた彼女は、まるで人形だった。人形の肌ように綺麗で、人形の瞳のように濁った、魂の抜けた肉の容器だった。

 ガチャリと音を立てて、老婆はその部屋に足を踏み入れた。

 あの日のままだった。部屋の中心に向けられた、無数の鏡。自分の肉体が傷つく様を見せつけるためだけに配置された、悪意のある鏡たち。

 そして部屋の中心。何もなかったハズの場所から、ボウと姿が浮かぶ。

 糸のようなもので天井からぶら下がっている、肉の人形(マリオネット)。全身を切り刻まれ、美しかった顔を破壊された、悲劇の女。


「どうしテ、殺シたノ。」


 恵果が、コキキという関節が軋む音を立てて、首を傾げた。

 その首の傾斜は人のものではない。九〇度を超え、一二〇度近くまで回転して、キリキリと、その伽藍の瞳でタミコを見る。

「幸セニ、なりたかっタだケ」「あの人ヲ愛シただケ」「生キていたかっただケ、なのニ。」

 キリキリと音を立てて、恵果は。


「――どうしテ、殺シたノ。」


 もう一度、言った。

 タミコは、目を逸らしたかった。

 彼女の悲惨な姿はまるで、醜い自分の心、そのもののようだったから。

 それでも目を逸らすことはせず、恵果の汚れた瞳を見ていった。


「……あんたは、何にも悪くなかったよ」


 悪いのは、嫉妬に狂った女たちだった。そして、


「みんな、ただ、あんたのことが、羨ましかったんだ」


 そして悪いのは、嫉妬に狂った女たちを止められなかった、己自身。協力という形ではあったけれど、嫉妬に狂ってしまった彼女たちの心を止められなかった、己自身。


「謝って済むことじゃない。あたしは殺しに参加しなかったから許してくれ、なんて言うつもりもない。分かってるよ。だからあんたは、あたしを祟りな。そうしたら――」


 そうしたら、アンタは――。

 恵果の人形のような瞳が、タミコを見る。

 そしてその顔に、恵果が伸ばした赤く鋭い爪を、当てた時だった。


「そうしたらソイツは、成仏できるだろう――ってか」


 声が、聞えた。

 それと同時。『夜』が、訪れた。

 時刻は昼のはずだ。太陽が雲に隠されたとしても、ここまでは暗くならない。

 だというのに、この場には、漆黒の闇が訪れた。しかし完全な闇には成り得ない。窓の外から太陽の如く世界を照らす月光が、嫌に印象的だった。

 ――瞬間。

 タミコの眼前にいたはずの白い人形は、鏡を、そして館の壁すらもを突き破って、館の外へと吹き飛んでいった。

 代わりに、腰を抜かしてへたり込んだタミコの前に現れたのは、白銀の少年、その背中だった。

 銀、銀、銀。その髪も。その瞳も。その姿も。


「違うね。一度タタリと成ったモノは、もう戻れない。生の理から外されて、自らの意志で消えることすら許されなくなる。そして存在する限り、醜悪な崇りを振りまき続ける。タタリってのは、そういうもんだ」


 白銀の少年は、タミコに振り返らないままに言う。

 この少年を、タミコは知っている。

 時神鈴という名の少年。しかしおかしい。あの少年はこんな銀色に輝く服など持っていないようだったし、何より、その髪、その瞳までもが白銀になっていることの説明ができない。


「アンタは、一体誰なんだ?」


 震える声で、タミコは正面の少年を睨み付ける。


「さてな。だが強いていうなら、そうだな――正義の味方ってヤツだ」


 正義の味方。その言葉を聞いて、タミコは唇を噛みしめた。


「なんであたしを助けるんだい」


「それはもう言ったはずだけどな。俺はもう、死なせたくない。目の前にいる人ぐらいは、助けたい。それじゃ不満か?」


 白銀の少年――時神鈴が肩を竦めてそう言うと、タミコは鈴の胸倉に掴みかかった。


「ああ、不満だよ! あたしゃ悪人だ! 正義の敵だ! あんたが本当に殺さなきゃいけないのは、あたしみたいなヤツのはずだろう!」


 怒りを、或いは殺意を込めて、タミコは叫んだ。

 その胸にはきっと、自分にはどうしようもない感情が混沌としているのだろう。

 鈴は冷静に、タミコの手を振りほどく。バランスを崩したタミコは、その場に崩れ落ちた。そんな彼女に、鈴は手を伸ばすこともない。


「アンタがどう思うかは知らない。俺は、俺の信じる正義を貫くだけだ」


「でも、あの子は違うんだ……あの子は、なにも悪くない……」


 悪いのは、その娘を殺したかつての自分たちだ。殺すなら、自分を殺してくれ。 

 今にもそんなことを言いそうなタミコに、鈴は問いかけた。


「あいつは今まで、何人の人間を殺してきた」


 タミコは、硬直した。七〇年の時をかけて、恵果は十人以上の人間を殺していたからだ。

 鈴は、再度問う。


「なあ、答えてくれ。あいつは一体、罪のない人間を、何人殺したんだ」


 タミコは、なにも答えられなかった。

 タタリの被害者は確かに、かつて殺人に手を貸した罪を背負う者が多かったのかもしれない。だが、その親の元に生まれた罪のない子供を孫を殺しているのも、確かなことだったから。

 自分を害したもの、害さなかったもの、それら例外なく殺す。それは、殺戮機械と呼ばれるべきものだ。

 罪の有無に関係なく、特定の条件を満たすだけで相手を殺すのだから。

 そして、罪の有無に関係なく数多の人々に害を及ぼす殺戮機械は、おそらく。時神鈴の正義に、反するものだ。


「ここで誰かが止めなきゃならないんだ。じゃなきゃまた、人が死ぬ」


 その言葉と白銀の閃光を残して、時神鈴は恵果を追った。

 タミコは、鈴を止められなかった。彼の言葉の本当の意味を、「正義の味方になりたい」という意志を、知ってしまったから。

 そしてそれは、鈴が恵果を消すことを許可するのと、同義のことで。


「あ……ああぁぁ――」


 タミコはその場で崩れ落ちて、声をあげて泣いた。

 

        ☆


 時神鈴は、白い女のタタリ『恵果』を追って、館の外に出る。

 外は夜。暗い夜。つい先ほどまで昼であったはずなのに、そこは既に、暗い夜。

 月光のみが光り輝き、対峙する白銀と白の二人を照らす。

 ――結界。

 特定の存在を隔離するために、時神鈴が創り出した、現実とは異なる世界。時神鈴の、望んだ世界。

 皆が寝静まる夜、闇のはびこる魔の時間、誰もが知らぬその時の中で、彼は総ての悪を滅ぼすだろう。心配は無用だ。誰にも傷はつけさせない、指一本たりとも触れさせない。彼が総てを守るから、だから皆は気にするな。これはただの悪夢だ、些細な夢だ。目が覚めれば総てを忘れるだろうから、今はどうか眠っておくれ。皆が目を覚ます前に悪夢は終わる。彼が総てを終わらせる。

 明けない夜は、ないのだから。

 すなわち――。

 これより始まるそれは、悪しきモノがはびこる、悪夢の夜。

 これより始まるそれは、悪しきモノの存在せぬ世界が始まる夜明け前。

 これより始まるそれは、悪しきモノを葬り去らんとする彼が創り出した、彼の夜。


「さあ、始めようか。――時神鈴の夜を」


 グッと突き出された右拳。

 時神鈴の目が、動いた恵果を追った。


「どうしテ」


 人形のようにキリキリと音を立てた恵果は人形らしい稼働で宙へ跳躍する。

 その様はあまりに異様で、人とはかけ離れた奇怪な跳躍。まるで、操り糸と共に持ち上げられたマリオネット。

 鋭い爪で切りかかる恵果。鈴は一歩も動くことがないまま僅かに身体を逸らして爪を回避し、その胸部に、拳を叩き込む。

 ただの、一瞬。刹那の世界。

 その一瞬で、後方へ吹き飛んだ恵果の胸部には、無数の穴がついていた。時神鈴の拳によって凹んだ、無数の穴。

 吹き飛んだ恵果はすぐに空中で体制を立て直し、やはり人形のような動きで鈴に向かって空を舞う。その動きはマリオネット。操り糸を引かれた、マリオネット。


「やめとけ、無駄だ」


 再び突き出された恵果の赤い爪を、鈴は右の人差し指と中指で受け止めた。

 空中でもがくように、何者かに上方へ引っ張られるように、恵果は身体を捻って、掴まれた爪を離そうと動く。しかし、鈴の手から爪は離れない。

 鈴は爪を離した瞬間に跳躍し、大きく足を広げて三段の蹴りを、残らず恵果の腹部に叩き込んだ。吹き飛んだ恵果は空中へ留まり、キリキリと両肩をほぐすように動かした。


「どうしテ」


 後方へ飛んだ恵果は、どうして、どうしてと、何度も呟く。

 どうして、殺されなければならなかったの。どうして、傷つけられなければならなかったの。――どうして、幸せになろうとしてはいけないの。

 ひたすらに、そればかりを繰り返す。


「……さあな。知らねえよ」


 鈴は、悲しげに目を細めて言った。

 意図せぬところで人に恨まれ、そして殺された、哀れな女。

 彼女の魂に用意された(いれもの)は、心を持たぬ、思念の残留。人を傷つける為だけに生まれてしまった、悪意の具現。

 人の理から外れた魂が、生まれ変わることはなく。思念の器に収められた魂は、満たされぬことのないまま、彷徨うだけ。

 なにも満たされぬまま、どうしてと疑問を繰り返し、自分では理由も解らぬまま人を殺すだけの殺戮機械。それが目の前の彼女、恵果。

 そんな生き方は。

 そんな生き方は、悲しすぎるだろう。

 同情は少なからずある。だが、その苦しみがわかる、とか。とても辛かったんだね、とか。そんなことを言うつもりは、鈴には毛頭ない。鈴には恵果の悩みなど、一生掛かっても理解することはできないだろうから。

 けれど、言えることが一つある。

 確かに彼女の最後は、同情されるべきものだ。しかしだからと言って、罪のない者まで殺す存在を認める理由にはなりえない。罪のないもの達もきっと、口を揃えて同じことを言うだろうから。

 ――どうしてわたしを殺したの、と。


「そろそろ、終わりにしようぜ」


 この、呪いを。この、負の連鎖を。

 そして、終わりのないかつての女の感情を。


「もう、お前は十分生きただろう」


 彼女は七〇年という時の中、変わらぬ恨みを胸に抱き、変わらぬ殺意で幾度も殺人を繰り返した。変わらない、姿で。

 この世に、変わらないものはない。永遠なんてものは、存在しない。流れる時はそれこそ、吹き抜けていく風のようなものだから。いつまでも過去(うしろ)を見ていては、未来(さき)に進めないだろう。


「どうしテ」


 迫る、恵果。対する鈴は、冷静に――。


「それでもまだ過去に縋るというのなら、歯を食いしばれ。その未練、俺がこの拳で打ち砕く」


 ――拳を、握る。

 時神鈴の右腕が、ブレた。

 両足を開き。右腕を引き。構えを取り。


「今が成仏する時だ。助けてやるよ、その呪縛から」


 迫る恵果、その胸を。

 鈴の拳が、貫いた。


「どうし、テ。――シアワセになり、たか――だケ……」


 ――幸せになりたかっただけ。

 確かに、恵果はそう言った。

 しかしタタリのままでは、人を呪うことでしか存在することができない。恵果の願いは、どうしたって叶わない。

 けれど。

 ――けれども。


「なら、次に生を得た時に幸せになれ。――諦めるには、まだ早いぜ」


 もし、生まれ変わることができるなら。

 その時は、幸福に生きることができるかもしれない。

 彼女の次の生涯が幸福かどうかは、鈴にはわからない。また、女に生まれて、意図しないところで恨まれるかもしれない。それでも。

 幸福に生きられる可能性は、ゼロじゃない。今から諦めるには、早すぎる。


「そう――だね……」


 どうして、とは、彼女はもう言わなかった。

 ただ小さな笑顔を残して。

 次は幸せになれるといいな――と。それだけ、言い残して。

 タタリは、消えた。

 時神鈴の夜は終わった。世界に、夜明けが訪れた。


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