8/望む未来
鈴は一人、雑誌や十蔵から聞けたことを纏めながら、布団の上で唸っていた。
この集落で起きた七〇年にも渡る期間の連続殺人事件は、明らかに人の犯行ではない。この鏡の館でタタリが現れることは、確かなハズなのだ。
しかし鈴と飛鳥の前に、その姿は現れなかった。となれば、何かしら、出現条件があるのだろう。
タタリには稀に、何かしらの条件を満たした時にしか、人に害を与えない特殊なものがいる。
例えば、『リア充死ね』と死の間際に祈って生まれたタタリには、カップルを目撃することで出現条件を満たすとか。例えば、色欲に飢えて生まれたタタリは、好みの女を見つけた時にのみ出現条件を満たすとか、そういったことだ。
ではこのタタリの出現条件は、何なのか。
今回の被害者は全員女性である。年齢層はバラバラ、そして住む場所もまるで異なっている。唯一の共通点は、この鏡の館に訪れたということのみ。強いていうのなら、被害は年末年始に多いようだが……。
しかし女性が訪れるという条件だけならば、何故、飛鳥がいても出現条件が満たせなかったのか。
タタリとは、高性能な機械のようなものだ。特定の条件を満たした相手を殺すためだけに存在している、殺戮機械と変わりない。
であれば、もし女性が起動の鍵となるならば、飛鳥が引き金になって然りである。
しかし発動しなかったということは――他に、条件があるのか?
――時間?
否。目撃証言、及び行方不明になった時の時間はそれぞれ異なっている。
――天候? 季節?
それも、違う。年末年始に多いとはいえ、同じくこれもバラバラだ。
――装飾品、香水、服装……それら総ても条件があるとは思えない。
では、一体何が――。
鈴がうんうんと唸っていると、鈴を呼ぶ飛鳥の声が聞えてきた。
どうやら朝食の準備が出来たらしい。
昨日の事もあるので、鈴はタミコと顔を合わせることに少し抵抗を覚えたが、そんなことで悩んでいても仕方がない。
鈴は、重い腰を上げてタミコの部屋へ向かった。
その日の朝ごはんは、味噌汁と、キャベツの上に乗せられた豚の生姜焼きだった。
準備ができ次第、鈴も呼ばれて、三人でタミコの部屋で食べた。その間、これといって会話はなかった。
食事が終わり、飛鳥が「お皿を片付けるから」と席を立つ。
タミコも片づけをしようとしたが、飛鳥が休むように言ったので、その場に座ったままだった。
鈴とタミコは、二人きりになってしまった。
どちらも口を開く様子は欠片もなく、タミコのずず、というお茶をすする音だけが、嫌に大きく聞えた。
非常に居づらい空間であったので、鈴も何度かこの部屋を出てしまいたいと思ったのだが、昨日の今日でそう反抗的な態度を取るのも失礼だろう。
「ばあちゃん、昨日は悪かったよ、あんな事言って」
思い切って、そう言った。
「ああ」
タミコは鈴に目を向けることなく、ずず、と茶をすすった。
会話はそれきりだ。
数分言葉を待ったが、どうやらタミコはまだご立腹らしい。
仕方ないと、鈴はこの場を離れようと立ち上がった時だった。
「またあの館へ行くのかい」
タミコが言った。
やはり、鈴を見ないまま。
「……そのつもりだ」
それだけ言って、鈴はこの場を離れようとすると、
「待ちなよ」タミコが鈴を引き留めた。
タミコは顎で、自分の前の座布団を示している。
どうやら、「座れ」ということらしい。
鈴は、その座布団にあぐらをかいて座った。
「あんた、人助けをするつもりなんだってね」
初めてタミコは鈴に目を向けて、そう言った。
「……まあ、そんなところだ」
今度は鈴が目を合わせずに言った。
どうも、飛鳥が余計なことを話したようだ。
彼女は人から話を聞き出す事が上手いが、聞き出されるのも上手いのが、鈴のかねてからの悩みどころである。
「なんだってそんなことをするんだい。もしかしたら、危険な目に合うかもしれないってのに。事件にわざわざ首を突っ込むなんざ、正気の沙汰じゃないよ」
「……俺はさ、正義の味方になりたいと思ってる。だから、助けたい。それだけだよ」
「馬鹿だねえ。正義の味方? そんなものは、この世のどこにもありはしないよ。本当に正義の味方がいるなら、この世から犯罪なんてとっくに消えちまってるさ」
心の底から馬鹿にするように、タミコは笑った。
そんなことは、鈴が一番よくわかっている。
この世に絶対悪がいないように、絶対正義もまた、この世界には存在しない。
結局、正義だの悪だのというのは人それぞれの立場、環境、価値観によって導き出される印象に過ぎない。
自分にとって都合のいいものが『正義』。都合の悪いものが『悪』。
実際、世の中の風呂敷を覗いてみれば、正義と悪なんて、そんなものだった。
「それでも……俺は、正義の味方になりたいと思ったんだ」
鈴は、ぎゅっと拳を握った。
「ロクな願いじゃないよ、それは」
今度は、タミコは笑わなかった。
「……俺さ、小さな頃にテレビを見たんだ。正義の味方の出てくる、テレビ番組。そこにはさ、どんなに苦しくても、絶対あきらめなくて、そんで最後にはみんなを幸せにできるヒーローの背中が写ってた。俺も、そうありたいと思った」
それはきっと、男の子ならば、誰もが一度は思い描く未来の夢だ。
けれど、その夢を実現させたものはいない。
この世の正義というものは、とても曖昧なものだから。
この世の悪というものは、必ずしも滅ぼすべきものではないから。
正義とはなにか。悪とはなにか。その狭間で揺れる葛藤はいつしか、薄汚れた灰になる。そうしていつしか、少年たちは正義の味方という夢を忘れていってしまう。
時神鈴もまた、幼き日、正義の味方に憧れた少年の一人だった。
「けど俺は、正義の味方になれなかった。正義の味方になるには、力がなかったんだ。それは喧嘩の強さだとか、そういう物理的なものだけじゃなくてさ。みんなを幸せにできるだけの……頭の良さ、っていうのかな。そういうのも、俺にはなかった」
この世界は、テレビの中と同じではない。悪を殺して終わり、そんなハッピーエンドは訪れない。
例え、力があったとして。例え、この世総ての悪を倒したとして。けれどその心根だけは、どうにもならない。心だけは、人それぞれのものだから。だからこそ、必要になるのは物理的な力ではなく、人と人を繋げる心の力。
しかしその力を持っていた少年は、もう居なくなってしまった。
鈴は、静かに開いた自分の掌を見つめた。
「それだけわかってるなら、どうしてあんたは正義の味方なんかになろうとするんだい。この世界は広すぎる、今この瞬間だって、どこかで争いが起きて、たくさんの人が死んでるよ。ガキ一人でどうにかなる問題じゃあないんだ」
「……ああ。わかってるよ。俺では、すべての人を救うことなんかできないってさ」
鈴のこの手は、二つしかない。いくら手を伸ばしても、助けられる数は限られている。
救えない命は、たくさんあった。両の指では数え切れないほど、たくさんの命を見殺しにした。その度に、自分の無力を呪った。
「だったら、やめちまえばいいだろう、そんなこと。そうすりゃきっと、楽になる」
「だろうな」
「だったら――」
「――目の前で、人が死ぬのを見た」
タミコの声を遮って、鈴は言った。
人の死。
その単語に、タミコは言葉を失ってしまう。
「俺の目の前で、人が死んだ。そいつはさ、俺の親友だった。俺はそいつを、助けられなかったんだ。その時に思ったよ。俺のこの手で守れるものは、どうしようもなく小さなものなんだって。俺がなろうとしている正義の味方は、俺なんかじゃ、どうしても辿り着けないものなんだって」
鈴は、掌を見つめた。
掌を見つめて、かつて、この手から取りこぼしてしまった少年を思った。
「それでも、俺は」
いや、「だからこそ」、というべきか。
「正義の味方になりたい、と思った」
人が死ねば、誰かが泣く。
当たり前のことだ。けれど、大切なことだ。とても、大切なことだ。
父が。母が。友人が。子が、孫が、恋人が。
大切な人を失った人たちが、ただ一人の人間の死を悲しみ、悼み、傷つき、泣く。
そうして泣く人たちを、前にして。無力な自分を呪いながら、拳を握って。もし、ああしていれば。もし、こうしていれば。取り戻せない過去を願って、取り零さなかったという仮定の世界を夢想して。そんな後悔だけは、もう。――あんな思いだけはもう、二度としたくない。他の誰にも、知ってほしくない。
だから、何もしないで後悔することだけは、絶対に嫌だった。
助けられるものがあるのなら、助けたい。この手は小さい、助けられるものは限られている、それでも、この手を伸ばせば届くかもしれない。だったら、この手を伸ばしたい。例え――時を止めてでも。
もう二度と、取りこぼしてしまわないように。
「俺は――」
例えそれが、万人の望むものではないものだとしても。例えその行いが、悪のものであると言われても。
それでも、時神鈴は。
「――俺は、正義の味方になりたいと、思った」
そう言って、拳を強く握った。
鈴の表情を見て。鈴の想いに触れて。タミコは湯呑を置いた。
大きなため息をついて、嘲笑した。
「馬鹿な男だねえ。あんたみたいなやつが、一番詐欺に引っかかるんだよ。世の中、最後はみんな幸せなんて結末は、ただのご都合主義でしかないんだよ。テレビの中だけのもんなんだよ、それは」
話を笑い飛ばそうとするタミコに顔を向けて。
「ま、現実はそんなもんだよなあ。……でも、仮にそんな奇跡を起こせたらさ。仮に、最後、みんなが笑ってられる結末になるならさ。――それって、最高の未来だと思わないか」
最高の笑顔で、鈴は言った。
その笑顔は、あまりに曇りがなくて。あまりに眩しくて。
呆れたように肩を竦めたタミコの口の端は、固まっていた。
「救いようのない馬鹿だね、アンタ。そりゃもう末期だよ」
「自分でもそう思う。けど、きっとこれでいいんだ。バカみたいな理想を目指すのが、俺の生き方なんだ」