7/飛鳥と老婆
鈴と飛鳥が葵荘に宿泊を初めて、二度目の朝を迎えた。
時刻は午前五時頃。太陽はまだ、昇りきってもいない時間である。
タミコは早朝から、受付の椅子で何かしらの雑誌を読んでいる。
いつもは自分の部屋に篭っているのに、どうして今日は受付にいるのだろう。不思議に思いながら、飛鳥はタミコの方へ歩いていった。
「おはようございます」
雑誌から顔を上げたタミコは、老眼鏡を少しずらして飛鳥を見た。
「おや嬢ちゃん。こんな早くからどうしたんだい」
「そろそろ朝食の手伝いをと思いまして」
「そうかい。助かるよ」
飛鳥を連れて台所へ向かったタミコは、「これは昨日貰って来たんだけどね、十蔵ンとこの漬物は美味いんだ」とキュウリのぬか漬けを飛鳥に見せてくれた。
「昨日いただきました。美味しいですよね、十蔵さんの漬物」
「……ハン、もう女の子に手を出したのかい、あいつは。相変わらず若いモンには見境いがない男だあねえ」
「手を出したっていう言い方は、ちょっと……」
そんなこんなで、二人は調理を切り始めた。
飛鳥は、並べられているキャベツを、トントンと子気味よく切っていく。
「上手いね、あんた」
「家ではわたしが食事を作っているので、これくらいは」
「いい嫁さんになるよ、あんたは。ちなみに、旦那はあの坊主かい」
「え、はい!?……えと、そういうのは、まだ……その」
散々動揺した後に、双子設定であったことを飛鳥は思い出す。
「あの、姉弟なので!」
さりげなく自分を姉にしておいた。
しかしタミコは豪快に笑って、ストンと、大根の葉の部分を切り落とした。
「嘘なんだろ、それ」
「えと……」
「いいよ、もう。一度泊めちまったからね、乗り掛かった舟ってやつさ。それで、――あの坊主とは、一体どんな関係なんだい」
「幼馴染です……」
「好きなのかい」
「え、いや……」
「ははは、何赤くなってんだい。若いね」
タミコがトントンと大根を切っていく様を見て、飛鳥は自分の手が止まっていることに気が付いた。おそらく真っ赤になっているであろう自分の顔を誤魔化すように、トントンとキャベツを切っていく。
「ところで、あの坊主はどうしたんだい」
少しの沈黙の後で、タミコから口を開いた。
昨日のことを、彼女も少なからず気にしているらしい。
「鈴くんは部屋に篭ってます」
「なんだ、もしかして昨日のことで拗ねてるのかい? だったら小さいねえ。あたしにあーんな啖呵切ったくせに」
「いえ、そういうのではなくて。少し調べたいことがあるみたいなんです」
タミコは、すぐに何のことか察したらしい。
優しげだった目つきが、鋭くなった。
「悪いことは言わない。あれに関わるのはやめときな。それとも、本当にここから追い出されたいのかい」
「こんな山奥に放り出されるのは困ります。でも……」
ドサドサと、タミコは棒状に切った大根、人参を片手鍋に放り込んで、コンロに火をつけた。
飛鳥は千切りにしたキャベツを皿に盛りつけて、今度は豚肉を切り始めた。
「『でも』、なんだい」
続きを言わずに豚肉を切っている飛鳥を、タミコは片手におたまを持ちながら見た。
飛鳥は適当に切った豚肉を、油をしいたフライパンに放り込んだ。
「――それでも彼には、助けたい人がいるから」
一瞬の静寂の後、じゅうじゅうと、静かな台所に、肉の焼ける音が広がった。
「助けたい人、かい?」
タミコは鍋を混ぜることも忘れて、飛鳥を見た。
タミコの瞳には、驚愕が見えた。その驚愕は、すぐに黒く染まった。
それ以外にも、多くの感情が、入り混じったためである。
飛鳥が入り混じった瞳から強く感じたものは、怯え――だろうか。
「この辺りに、知り合いでもいるのかい」
目を逸らすように、タミコは視線を鍋に向けた。
混ぜていなかったことを思い出したのだろう。タミコがボコボコと激しく音を立てた鍋を掻き混ぜると、鍋の沸騰は収まった。
「知り合いはいないですよ。でも彼は、助けたいんだと思います。これ以上、あそこで起きる事件の被害者を、出したくないんだと思います」
それを聞いて、馬鹿なヤツだね、とタミコは鼻で笑った。
「警察にも犯人は見つけられないんだ。子供にどうこうできるわけないだろ」
「だとしても、ですよ」
飛鳥は苦笑する。けれどその苦笑には、確かに喜びの感情もあった。
タミコは、大きなため息をついた。
「そりゃ、なんだい。あの坊主は、知らないヤツを助けるために、一生懸命になるってのかい」
笑い飛ばそうとしたタミコ。
しかし飛鳥は、「はい」と、真面目な顔で頷いた。
「もしそいつが、悪いヤツでもかい」
「はい。そういう人ですから」
「そんなの、ただのバカだ」
「よく言われてますよ」
フライパンの上の肉を焦がさないように掻き混ぜながら、飛鳥は笑った。
そんな彼女の笑顔が、眩しくて。タミコは、小さく泡立つ鍋を見た。
「……悪いヤツでも、かい」
誰にも聞こえない声で、タミコはぽつりと言った。