九話
イマは促されるままにアシュの隣に並び歩き始めた。
青い月の光りが二人の輪郭を照らしていた。
アシュは口を閉ざし、いつもよりゆっくりとした動作で歩を進めている。自分に合わせてくれているのだとイマはすぐに気がついた。
気づかいは嬉しかったが、それよりも今は早く家にたどり着きたい。
砂利を踏みしめる音以外は、家々から漏れる声が、時折聞こえるだけで、静かだった。
子供の頃は、アシュが仕事をしていて構ってくれなくても、ただ側に居るだけで楽しかった。木を削るのみの音は耳に心地よく、仕事が終わるのを待つうちに、よく眠ってしまったものだ。アシュに背負われ、家に連れて帰ってもらったことも、一度や二度ではない。
風が頬にあたる感触で、大抵の場合は道中で目を覚ましたが、大きなアシュの背中が嬉しくて、温かい体温が気持ちよくて、眠ったふりをしていた。きっとアシュはイマが起きていたことに気づいていただろう。
昔の思い出を掘り起こすほど、アシュがイマに向ける気持ちの正体に気づかされる。
アシュにとって、自分は甘えん坊の妹のような存在なのだ。
散々世話を焼いた妹が、意味もなく自分を避け、身を守る術を持ちもしないのに、夜に森の近くまでふらふらと出歩いている。アシュが怒るのも無理はない。
もう、幼い恋心を引きずっていてはいけない。優しいアシュに失礼だし、何より、このままではいつまで経っても自分は前に進めない。
「アシュ」
イマは勇気を振り絞って声を上げた。
「どうした?」
見下ろすアシュの横顔に月光が弾ける。きらきらと輝く髪が精悍なアシュの顔を柔らかく縁取っていた。思わず見とれてしまいそうになり、イマは慌てて視線を落とした。
すると今度は筋張った長い指が目に入った。何の変哲もない木から、まるで今にも囀りだしそうな小鳥を削り出したり、ただの板に、目を奪う複雑な紋様を描きだしたりする魔法の手だ。それと同時に力強く剣を振るう手でもある。
そして、幼いイマの頭を優しく撫でてくれた手だった。
イマは小さく息を吸い込むと顔を上げた。
「ごめんなさい」
真っ直ぐに藍色の瞳を見つめ、告げる。
アシュは目を見張り、次いでふっと笑った。
「何を?」
イマはぎくりとして、歩を止めた。
「何を謝るんだ?」
頭上から注がれる目は冷たく光り、唇は皮肉気に歪められていた。
イマは己の目を疑った。
こんなアシュは知らない。
後をつけて森へ入った時も、心から反省して謝ればアシュは笑って許してくれたのに。
「夜に……森に近づいて。シュスラまで危険にさらして。年上の私が止めるべきだった」
謝っても許してもらえないまでに、アシュを怒らせてしまっていたのだろうか。涙が目の縁にせりあがる。せめて頬は濡らすまいと、イマは唇を引き結んだ。泣いて、許してもらうのは違う。
「シュスラも浮かばれない」ぽつりと呟き、アシュはイマに向き直る。月を背にしたアシュの顔が翳った。
「確かに褒められた行為じゃないな。だが、この時期はそうそう凶暴な魔物が出るわけじゃない。シュスラだってそれは分かっているさ。そんな謝罪は受けられないよ」
穏やかな物言いだが、音の端々にアシュらしからぬ険がある。イマはこくりと喉を鳴らした。やはりアシュが怒っているのは――。
「それから、今まで、アシュを……避けていて。本当にごめんなさい」
言うが早いか、イマは膝に手をついて頭を下げた。
くすりと、笑声が聞こえる。
「避けていると自覚があったのか。それは重畳」
肩を掌が包み込んだ。
「俺のことなどすっかり忘れてしまったのかと思っていたよ」
おどけたような口調にイマは顔を上げた。良かった許してくれるんだと、そう思って。
ところが、視界に映ったのは、さっきと変わらぬ厳しい眼差しをしたアシュだった。
「けど、俺が聞きたいのは、謝罪ではなく、理由だ」
「……り……ゆう」
イマは息を呑んだ。
子供の頃の約束を真に受けて、勝手に一人で傷ついて、それでも諦められなくて、アシュをずっと想っているからだなんて言える訳がない。そんなことを言えば、アシュはきっとイマに負い目を感じてしまうだろう。それだけは避けたかった。
「その、いつまでも子供の頃のように纏わり付いていたら、迷惑かなって」
考えた末に、口にした当たり障りのない言い訳に、アシュは首を横に振った。
「違うな。イマが俺を避ける理由はそうじゃないだろう?」
そうと分かるほどに、はっきりと顔が強張った。
薄っぺらい意地で隠した、恋心も、後悔も、何もかもをアシュに見透かされているように感じる。
アシュがイマの気持ちにとっくに気づいていたのだとしたら、これ以上嘘を重ねるより、正直に話してしまったほうがいいのかもしれない。その結果、もう二度と、昔のように接してくれなくなるかもしれなくても。
イマは意を決して、アシュに向かい合った。肩に置かれた掌から、鼓動の速さを悟られる前にと、話し出した。
「15の歳に、父さん達に付いてタルウィの街へ行ったとき、アシュを見かけたの。アシュは宿の前で綺麗な女の人と一緒だった。とても、その、親密そうで……」
声をかけられなかった。と続けようとしたイマは、肩からアシュの手の重みが消えたのに気づいて口をつぐんだ。
イマの肩を離れた手は、そのままアシュの口元を覆う。
「スタムの通りに行ったのか……」
アシュの目は驚きに見開かれていた。
「アシュ?」
口元を覆ったまま、じっと自分を見つめるアシュに、イマは首を傾げた。
「そう、か。それで……」
「あの、アシュ?」
「いや、いいんだ。俺が悪かった。イマに避けられて当然だ」
アシュは力なく笑った。
「私、誰にも言ってないから」
村の外から花嫁を迎える男は滅多にいない。それは外から来た花嫁との間に出来た子供には、様々な制約が課せられるからだった。女児でも歌選びに出る権利が得られないし、その子供たちもまた同じ扱いを受ける。だから村の男が、外の女と結ばれる時は、村を出る場合がほとんどだ。
反対に、村の外から花婿を迎えた場合には一切の制約を受けない。何故かは知らないが、ずっと昔からの決まりごとだった。村に新しい血を入れる時は、男と定められているのだ。
「大変だと思うけど、私はアシュの気持ちを応援してる」
自警団の副長であるアシュが村を出るとなれば、いい顔をしない村人もいるだろう。自分だけでもアシュの幸せを祝おう。イマは精一杯笑顔をつくった。
「アシュなら、タルウィでも立派に細工師としてやっていけるよ」
上手く笑えている自信はなかったが、アシュに幸せになってもらいたいという気持ちに偽りはない。
だが、イマの笑顔を見た途端、アシュは何とも言えない表情になった。
熟れたと思って口にした果実が、まだ青く渋かった時の様に、思いがけない事態に驚き、戸惑っているような、そんな表情だった。