七話
子供の頃よりかは幾分口数が減ったものの、シュスラは話し上手な男だ。自警団であった事や、弟達の子供らしい失敗談などを面白可笑しく語って聞かせ、イマを幾度となく笑わせた。一人前の男になったという自負からか、横柄な態度をとられてむっとすることもあったが、小さな頃から見てきたシュスラはイマにとって弟のような存在だった。
火が灯され始めた家々の間を抜け、田に差し掛かると、傘を叩く雨の音が間遠になっていった。やがて辺りは暗闇に沈み、シュスラは傘を閉じた。すると、それを待っていたかのように、側の田の中からロロロロという蛙の小さな鳴き声が響きはじめた。鳴き声は瞬く間に棚田の隅々にまで広がり、イマはその美しい音色に聞き入った。自然と会話は途切れ、下草を踏みしめる音も、鳴き声にかき消される。
「いい夜だな」
そう言うとシュスラは頭上を見上げた。つられて空を見ると、数え切れぬほどの星々が競うように輝きを放っていた。
「本当だね……わっ」
上を向いたまま、歩を進めようとしたイマは泥濘に足を取られた。と、背後から伸びた力強い手がイマを引き寄せる。とんっと硬いものに頭がぶつかった。
「あぶねえ」
驚くほど近い距離からシュスラの声がして、イマはうろたえた。頭に当たっているものがシュスラの胸板だとすぐに気付く。今自分はシュスラの腕の中に納まっているのだ。
「ありがとう………」
腕を引かれた瞬間、自分の体がまるで小鳥みたいに軽くなったように感じた。咄嗟に、しかも片腕であったのに、シュスラはいとも軽々とイマの体重を支えたのだ。布越しに伝わる鼓動と熱がイマを落ち着かない気分にさせ、腕を掴む手の筋張った感触が益々それを掻き乱す。
「もう、大丈夫だから」
体勢を整えても、イマの腕を掴んだままのシュスラの指に手を当て、放す様に促す。ふっと込められた力が緩んだかと思うと、指先が腕を伝う様に下がり、手首の辺りで素肌に触れ、少しの間を置いてから離れた。
「悪い」
ロロロロロという鳴き声に混じって小さな呟きが耳に届く。イマはいよいよ落ち着かなくなった。
低い掠れた声も、素っ気無い態度もイマの知っているシュスラとは別人のようで、胸の中を羽の先で撫でられるような、むず痒い心地がする。
手首に残っていた指先の熱が遠ざかると隣に立つ男が急に遠く思えた。ウルと同じで、イマよりも体が大きくなっただけで、中身はずっと悪戯好きの少年だと感じていたが、もしかしたらそれはイマの思い違いなのかもしれない。
イマはイイクの花を見に行くと言ったことを後悔し始めていた。
それからのシュスラは格段に口数が少なくなった。こちらから話を振ってみようかとも思ったが、それも不自然な気がして、イマも口を閉ざす。
静かになった二人に代わって蛙が盛んに言葉を交わす。その鳴き声は今や姦しいほどになっていた。
月の光に照らされてぼんやりと浮かびあげるイイクの木が見えたのは、沈黙も息苦しくなってきた頃でイマはほっと息を吐いた。
田と森の間に立つそのイイクの木は、村でも一番樹齢の古いもので、大人が3人腕を広げてようやく幹を一周できる大木だ。
近づいてみると、シュスラの頭のすぐ上辺りで、枝が張り、青い葉に混じって薄紅色の小さな花が所狭しと咲いている。
森の木々の間を抜けて風が吹くとふわりと花弁が舞った。
「あっ」
イマは思わず声を上げた。鼻先をくすぐった花弁から甘い香りがしたのだ。
「イイクってこんな匂いがするんだ。シュスラ知ってた?」
日中は雨の匂いにかき消され、届かなかったのだろう。思いがけない発見にイマはさっきまでの気まずさも忘れ、シュスラに話しかけた。
「へえ、本当だ。知らなかったよ」
シュスラは踵を上げて、枝から直接匂いを嗅ぐ。それから、その様子を見ていたイマににやりと笑いかけた。
「持ち上げてやろうか?」
「いいわよ」
シュスラが右側の唇を吊り上げて笑う時は、何か意地の悪い事を考えている時だ。
イマは軽くシュスラを睨んで側を離れると、幹に近づき、ごつごつとしたその表面を撫でた。節くれ小さな虚をいくつも開けた幹は長い年月を生きた者だけが持つ威厳を備えている。
花の傘の下は風がなくても甘い香りに包まれていた。すうと胸いっぱいに息を吸い吐き出す。水の匂いとも土の匂いとも違った心地よさがあった。
「すげえ、菓子の中にいるみたいだな」
イマの後をついて、木の下に来たシュスラはおどけて言うが、そこまで甘ったるくはない。
「シュスラは何でも食べ物に結びつけるわね」
イマが笑うと、シュスラは隣に来て、倣って幹に掌を当てた。
シュスラの腕がイマの肩に当たる。途端に先ほどの気まずい空気を思い出してイマは身体を強張らせた。
とうとうと流れる川の水が、深い淵に来てその速度をゆっくりとしたものに変えるように、つい今し方まで淀みなく進んでいた時の流れが急に遅くなったように感じる。蛙の鳴き声はどこか知らない遠くの場所から響いてくるようで、イイクの花の香りだけが鮮明に心に入り込んだ。
シュスラはイイクの木から手を放すと、幹を撫でるイマの手の甲にそれを重ねた。大きな掌がすっぽりとイマの手を包み込む。しっとりとした体温がじんわりと手の甲に移り、イマは息を詰めた。
「イマ」
シュスラがゆっくりとイマを見た。イマの胸が不安に跳ねる。
「イマ」
再度名を呼ばれてイマはそろそろとシュスラに視線を向けた。葉の隙間を擦り抜けた月の光がシュスラの顔を照らしている。シュスラは暗灰色の瞳で真っ直ぐにイマを捉えていた。
イマの手に重ねられたシュスラの指にぐっと力が込められ、イマの指に絡みついた。
「イマ、俺と―――」
シュスラが強い口調で話しかけた時だった。
かんっという甲高い音がするのと同時に、気負いからか、イマの方へと身を乗り出しかけていたシュスラの身体が後ろから何かに引かれたようにくっと止まる。
次の瞬間、シュスラは手を放すと、イマの身体を幹に押し付けるようにして、その前に立ちはだかった。