五話
お腹が膨れたアムルは、行き以上にはしゃいで、畦道を走り回った。
一旦はイマの荷物を持ってくれたウルだが、それをイマに放り投げて渡すと、アムルを追いかけるのに必死になっている。ウルにしてみればやっかいなだけだろうが、弟達の微笑ましい姿を眺めながらイマはぼんやりとアシュの事を思い出していた。
徹底的にアシュを避けていただけあって、言葉を交わしたのは実に一月ぶりになる。
自分の反応はおかしくなかっただろうか。ちゃんと受け答え出来ていただろうか。心の内を悟られなかっただろうか。
アシュに対する自分の言動を一つ一つ確かめていたイマは、最後にシュスラの肩越しに投げられたアシュの視線を思い出した。
深い藍色の瞳が夜の闇を孕んだように、いっそう暗い色味を帯びていた。あの目には覚えがあったーー
まだ約束を信じていた幼い頃、イマは自警団の後を追いかけ、一人で西の森に入った事がある。
ルンユという子供の足の裏程の小さな兎が冬眠から覚める頃で、そのルンユを狙って、少し大きな獣が森に入り込み、さらにその獣を狙う魔物が森の中を荒らし始めていた。ついには山の麓に下ろしていた乳を得る為の家畜にまで被害が及び、自警団の出番となったのだ。
大人達に絶対に森に行ってはいけないと言われていたのに、イマはアシュが剣を振るう様を見たくて、こっそりと後をつけた。森の中を横に連なって歩き、魔物をあぶり出そうとしている自警団の後ろから、木の枝を踏んで音をたててしまわぬように慎重についていっていたイマは、いくらも進まぬうちに遅れ始めた。あっというまに、父やアシュ達の背は見えなくなり、枯草を踏みしめる音も聞こえなくなると、イマは急に不安になった。
もう帰ろう。そう思って振り返り愕然とした。目の前には前を向いて歩いていた時と変わらない光景が広がっていた。どこを向いても木ばかりで、幹の間から見えていた、日の光を反射してきらきらと輝いていた田もなければ、小魚を追う子供達の歓声も聞こえない。
迷ったんだ。そう自覚した途端、腹の底を掬うような恐怖がこみ上げ、イマは涙を浮かべながら走り始めた
もう怒られてもいい。とにかく父達に追いつきたい。どれほど走っただろうか。当時のイマには山を越えてしまう程長く走ったように感じたが、実際にはたいした距離ではなかっただろう。
突然、一心に駆けるイマの目の前に右手の木の陰から灰色の影が躍り出し、行く手を塞いだ。ぴんと立った大きな耳に二つに裂けた尾、灰色の毛並みに包まれた腹は息を吸い込み吐くたびに膨張と収縮を繰り返している。細長く尖った鼻の上に並ぶ赤く濁った三つの目が少しの差を空けて、順にイマを射抜いた。
――魔物だ。
見た事のない異形の姿にイマは凍り付いた。喉は悲鳴を上げようとしているのに、胸はしゃっくりが出た時のように小刻みに引きつるだけで、息を吐き出すことが出来ない。ひっひっという小さな声が僅かに漏れるばかりだった。
逃げなければ。イマは魔物から目を逸らさぬまま、右足をそろりと後ろへ動かした。魔物は微動だにせずにじっとイマを見詰めていた。
右足を一歩後ろへ出すと、次は左足。魔物と見詰め合ったまま、3歩程後ろへ下がるが、魔物が動き出す気配はない。ひょっとしたらお腹が空いていないのかもしれない。浅い息を繰り返しながら、イマは思い切って後ろを振り向き走り出した。と、途端に右脇を灰色の毛皮が霞め、また目の前に魔物が立ちはだかる。
三つの目が、順にイマに向けられたとき、イマは魔物の悦びを感じ取っていた。ああ、私をいたぶって楽しんでいるのだ。イマは絶望に身を震わせた。
どこに逃げようとしても魔物が先回りして立ちふさがる。何度も逃げ出そうと試みるうちに、足がもつれてイマは落ち葉で湿った地面に倒れこんでしまった。
どす黒い舌を口から垂らし、黄色く汚れた鋭い牙を見せ付けるようにして、魔物はゆっくりとイマとの距離を縮める。
とうとうこの時が来てしまった。イマは恐怖に目を瞑った。せめて痛みをあまり感じなければいい。イマは死を覚悟した。だが、いつまで経っても皮膚を破って突き刺さる牙の痛みも、体を切り裂く爪の痛みも襲ってはこない。
耐え切れなくなったイマが、そろそろと瞼を開けると、魔物は少し離れた木の根元で首の辺りから黒い血を溢れさせて倒れていた。
「イマ」
何が起こったのか分からず、呆然と今にも息絶えようとしている魔物を見詰めていると、名前を呼ばれてイマは驚いて辺りを見回した。すぐに声の主は見つかった。アシュが黒く濡れた剣を持ち、立ちすくんでイマを見ていた。
「イマ」
再び名を呼ばれて、イマはびくりと肩を震わせた。肩で息をしているアシュの体の至る所に黒い血が付着している。
「何故ついてきた。西の森に入ってはいけないと言われていただろう?」
静かな諭すような声だった。およそ怒気を感じさせない声音と表情だったが、イマにはアシュが全身に怒りを漲らせているように見えた。
アシュは穏やかな性質だ。誰かと諍いを起こしている所など見たことがない。イマやウルが纏わり付いて、時には悪戯をしても、何時も笑って頭を撫でてくれる。アムタートと剣の練習をしている時には荒々しい顔を見せる事もあったが、剣を降ろした瞬間にはすぐに笑顔を見せていた。それなのに、今、剣を地に向けているというのに、アシュから漂う気配は波たち荒れていた。
じっとイマを見つめる藍色の瞳を見つめ返し、イマは「ごめんない」と呟いた。呟きながらぽろぽろと涙を流し、そうすると漸くアシュはイマに歩み寄り、しゃがみ込んで視線を合わせた。
「おっと、近寄るなよ。抱きしめてやりたいが魔物の血は子供の体に良くない」
イマが腰を上げるより早く制すると、アシュは微笑んだ。
「よく頑張ったな」
ああ、いつものアシュだ。そう思った瞬間、一気に安堵が押し上げて、イマは声が枯れるまで泣いた――
シュスラの背後から向けられた眼差しは、あの時の目に似ていた。静かな上辺とは裏腹に身の内に激しい感情を吹き荒らしていたように見えたあの時の目に。
「姉ちゃーん」
アムルの元気な声が耳に入り、ぼんやりと歩いていたイマは顔を上げた。
どうやらウルの手を逃れ、イイクの大木に登ったらしい。茂った葉の影から手を振っている。ウルがアムルを見上げて怒っていた。
イマが手を振るとアムルは嬉しそうに手を振り替えし、それからまだ硬い蕾を興味深げにつつき出した。
降りてこないアムルに業を煮やしたウルが枝に手をかけてするすると木を登っていく。アムルを連れ戻しに行ったはずのウルは隣の枝に腰を降ろすと、アムルと一緒に蕾の匂いを嗅ぎ始めた。
イマは弟達の元へ向かいながらも、どこか落ち着かない気分でいた。
もうとっくに姿も見えない所まで来たはずなのに、藍色の瞳が今も自分を見ているような気がしてならなかったのだ。