三話
鐘の音が一つ打ち鳴らされた。
鈍く余韻を引く音が山肌を下りて行く。
イマは畦に田からすくった土を積み上げていた手を止め、顔を上げた。
日はもう一番高い所に来ている。鐘一つは昼の半刻前の合図だ。急いで戻って昼食の支度をしなければ、アムタートやウル……アシュに食事を届けるのに間に合わない。
土で濁った水をさけ、水田の中で手を洗っていると、指の先を小さな魚が銀色の鱗を光らせて泳いでいった。今はイマの指の長さ程の魚も、刈り入れの頃には両手で抱えるほど立派に成長しているだろう。
イマは畦を歩きながら、笠の紐を緩め、日除けに巻いた布を解いて汗を拭った。隣の田で作業をしていたマティに声をかけ、稚魚を追いかけて遊んでいたアムルと手を繋いで家に戻る。
泥だらけのアムルを着替えさせ、自身の手足をさっと清めると、マティと共に昼食の支度に取り掛かった。朝にまとめて炊いた米を握り、葉物野菜をざっくりと切って炒め、塩をもみ込んだズワの肉をこんがりと焼く。いつもならこれで充分だが、イマは少し迷ってから、夕食に出そうと下拵えしてあったルグを取り出すと、鍋に入れて火にかけた。
出来上がった料理の粗熱をとりながら、「ナクル、ナクルー!」と弟を呼ぶが、返事は返ってこなかった。
ルグの入った皿を扇ぐ団扇をアムルに渡し、ウルとナクルの共通の部屋と中庭、念のために鳥小屋の中まで覗いてみたが、ナクルの姿は何処にもない。
「ナクルはまだ戻ってないのかい。アズール達と川釣りに行くと行っていたからねえ」
炊事場に戻ったイマに、マティは「仕方がない子だこと。悪いけど、お願いね」と詰め終えた弁当を乗せた。
今日は絶対に昼には戻るようにと言い聞かせておいたのに……。イマは腕の中の大きな包みを見詰めてため息をついた。
「アムルも行くー!」
イマとは反対に、包みを見て目を輝かせた末の弟は、次にぎょっとするような事を言い出した。
「父さん達と一緒にご飯食べるの」
今日、アムタート達が居るウィドの田は、イマの家の田とは村を挟んで反対側にある。馴れた田ならいざ知らず、昼食を終えたアムルが一人で戻るには心もとない場所だ。アムルがアムタート達と昼食をとるのであれば、イマはアムルが食べ終わるのを待たねばならない。
「あら、そうなの? 母さんは昼から歌選びの会合があるからねえ……イマ、お願い出来るかい? あんた達の分も包んでおくからね」
イマの返事を聞く前に、マティは食卓に並んだ食事を木の皮で編んだ篭に詰めてしまった。
上手い良い訳も思いつかず、両手に昼食の包みを持たされたイマは、鼻歌混じりに後ろをついて来るアムルを連れ、のろのろと歩いた。
いくら時間をかけて歩いても、いずれはウィドの田に着く。気鬱な事はさっさと終わらせてさっさと帰ってくればいい。そう自分に言い聞かせてみてもイマの足は重かった。
田を区切る潅木の茂みを越えると、思い思いに畦に腰掛けた男達が見える。せめて離れていてくれと祈ったが、雨除けの布を張った下に、並んで座るアムタートとウルとアシュを見つけて、イマは今すぐに来た道を戻りたくなった。
「父さーん」
イマの横を擦り抜けたアムルが、走りながら大きく声を上げる。三人の視線が一斉にこちらに向けられ、イマは逃げ道を失った事を知った。
手を振り応えるアムタートと、眉を顰めるウル。アムタートの隣で胸元を寛げていたアシュは口元に笑みを浮かべてアムルを見た。
一人で駆け始めたアムルだが、すぐにくるりと回転して戻ってくると、今度はイマの手を引いて走り出した。「姉ちゃん、早く、早く」アムルに急かされ、イマは心を落ち着かせる間もなくアムタート達の元に着いてしまった。
「アムルと姉ちゃんも一緒に食べるんだよ」
「おー、そうかお前等の分も詰めてもらったのか、よかったなあ。おう、イマ、ごくろうさん」
アムタートは破顔してアムルの頭を撫でると、イマから弁当の入った包みを受け取る。
「ナクルは?」
アムタートの隣で、ウルが怪訝な目をイマに向けた。
「アズール達と川遊びに行っていて……」
イマはなるべくアシュと離れた場所に座ると、急かすアムルに弁当を開けて渡してやった。
「……あいつ」ウルが舌を打つ。
「ははっ、ナクルの歳には遊び回っていたいもんだ」
明るい笑い声に、イマはウルの影で小さく身をふるわせた。
「十の頃には俺も川で魚採りをするのに熱中していたなあ。ウルもそうだったろう?」
ウルの舌打ちを、ナクルが家の用事をさぼったせいだと取ったアシュが、やんわりとウルを窘めた。
「久しぶりだな、イマ。今日は俺まで世話になって悪いな」
なるべくアシュを視界に入れないようにと、俯いてアムルの世話を焼いていたイマは、名を呼ばれて、そっと顔を上げた。
アムタートの隣で身を乗り出したアシュが目を細めてイマを見ている。
イマは己の声が震えないように祈りながらアシュの藍色の瞳を見つめ返した。
「一人分増えても、手間は変わらないから」
「そうか? マティさんは料理も上手いから、楽しみにしてたんだ」
「おいおいアシュ、仕込みの半分は、もうイマがやってるんだぞ。イマは、歌は拙いが料理の腕はそのうちマティを抜くだろうよ」
アムタートはアシュの背を豪快に叩く。危うく篭を取り落としそうになったアシュがしっかりと篭を持ち直す。その様子をイマは肝を冷やして見ていた。
余計な事を言わないで欲しい。間違ってもアシュの前で、朝の言葉を繰り返さないで。
その願いが天に届いたのか、すぐ傍で足音がして止まった。イマの背後に誰かが立ったのだ。




