二話
顔を拭い終わると、イマは屋根から滴り落ちる雨を避け、中庭から狭い通路を抜けて鳥小屋へと向かった。仄かに温かい卵を六つ頂戴し、炭を熾していると、漸く家人達が起き出した。
慌しくそれぞれの身支度をしながら、「随分と早いな」「あら、おはよう。ああ、今日の汁はトナの葉を使いましょう」とイマに声をかける。
イマは手際よく朝食の下拵えを済ませると、弟達を起こしに向かった。
むずがる末の弟を宥めすかし着替えさせて戻ると、湯気を立てた料理が器に盛られ、父や母、上の弟達が着席して待っていた。
一番上の弟は成人こそしていないが、一人前の男として家業を手伝い、自警団にも属している。二番目の弟は遊びたい盛りだが、近頃進んで家の手伝いをするようにもなった。末の弟はまだ少し手がかかるが、じきに一人でこなすようになるだろう。
頼もしさと一抹の寂しさを覚えながらイマは朝食の席についた。
イマの家の食事はいつも忙しい。何せ食べ盛りの男が三人……いや四人もいるのだ。遠慮をしていてはあっという間に取り分がなくなってしまう。
イマがトナの葉が浮かぶ汁物を啜っていると、幾つになっても力強さを失わない父アムタートが、ふと、山菜のお浸しをせっせと茶碗に移していた箸を止めてイマを見た。
「イマは飯作りが上手くなったなあ。いつでも嫁にいける」
マナフ族の婚姻は男が十六から、女が十七からと定められている。
イマの同年代の友人にはぽつぽつと婚儀を済ませた者が出始めた。それに婚儀まではいかずとも、将来を誓う相手がいるものが大半だった。マナフでは二十歳までに嫁にいかないといきおくれと見られかねない。それなり考えなければならない時期にさしかかっているのだ。
イマが返事をせずに椀をあおると同時に、食卓の下でガツンという鈍い音がした。
と、アムタートは僅かに眉を上げて、もうすぐ自分の背を追い抜く一番上の息子、ウルを見た。
「ごちそうさま。親父、さっさと食えよ。せっかくかかったズワどもが逃げちまう」
ズワは糸月から続く三月の間、マナフの村の西側にある森に渡る夜行性の鳥だ。水田に放流した稚魚が育つまで、マナフの人々の貴重な蛋白源になる。しかし、神が住むというミト山に続く西の森には時に獰猛な魔物が出没した。そこで、朝一番に木々の合間に仕掛けた罠にかかったズワを捕りに出るのは、自警団の日課となっていた。
「すぐに食べ終わらあ。ほれ、下っ端が、先に用意して副長と点呼とっとけ」
再び食卓の下から音が響いた。
ウルが眉を吊り上げ、アムタートを睨む。
「団長の仕事だろ。早く食い終われよ」
「おうおう、もう食ったわ。ったく餓鬼が一丁前づらして煩くなりやがって。イマ、昼飯頼んだぞ。昼には昨日崩れたウィドの田にいるからよ。ああそうだ。今日は副長の分も持ってきてやれ。あいつ面倒臭がって碌なもん食ってやがらねえからな」
もうウルは呆れたようにアムタートを見るだけで何も言わなかった。
ウルが料理を褒める父の話を遮ったのは、イマに将来を誓うような恋人と呼べる存在が居いない為、自警団の話に苛立ったのはアシュが副長を務めている為だ。
三年前のあの日からイマのアシュに対する態度は変わった。以前はアシュ、アシュと煩いほど口にしていた名前をとんと出さなくなった。手が空くとしょっちゅう様子を見に行っていた自警団へも、今では昼飯を届けるのも、極力二番目の弟ナクルを使い、畑へ出るにもアシュの家の前を通らないように、遠回りする始末だ。
イマと一緒にアシュを追いかけて、兄のように慕っていたウルが、そんなイマの変化に気付かないはずがなかった。
父を追い立てるように部屋を出て行くウルの気遣いに感謝しつつも、イマは決まりの悪さを味わっていた。
幼い頃の約束を真に受けて、アシュに付きまとっていた自分を思うと消え入りたくなるが、未だにアシュを避けている今の自分はもっと恥ずかしい。
タルシュで女性と仲むつまじくしているアシュを目にした時は、裏切られたのだと打ちのめされた。けれど、胸をかき乱す嵐が去った後、ふと訪れた静寂の中で、イマは自分がとんでもない思い違いをしていたのだと気付いた。
アシュはただ子供の我侭な夢に付き合ってくれただけだった――。そう気付いたのだ。
末の弟アムルの、歌選びに出るという叶わぬ可愛らしい夢を、誰も否定したりしないように、アシュは小さなイマの夢に笑って付き合ってくれたのだ。歳を重ねれば自然と分かるだろうと思って。でなければ十の子供と真剣に結婚の約束をする男がどこにいよう。
アシュの友人達が次々と家庭を持っても、アシュが一人なのは自分を待ってくれているのだと思っていたが、そうではない。村の人間でない女と結ばれるのは、マナフの男にはとても難しいことで、時期をみていただけなのだ。
そう分かっても、幼い子供の他愛無い勘違いだったと笑い飛ばせないのは、イマの中にアシュに対する未練が残っているからに他ならない。それがイマにはたまらなく恥ずかしかった。