十一話
「姉ちゃん、起きろよ。朝だぞ」
イマは自分を呼ぶ声と、体を揺すられる感触で目を覚ました。
重たい瞼を上げると、そこにはすっかり着替えを済ませたナクルが立っていた。
「やっと起きた」
そう言って腕を組むナクルは、まるで大仕事を終えたあとのようだ。
「……あれ? 私、寝坊した?」
言いながら寝台の上に身を起こす。
ウルの小さなころにそっくりな二番目の弟を見て、霞がかかっていたようにぼうっとしていた頭がはっきりする。
本来ならイマがナクルを起こしているはずだったのだ。
「うん、兄ちゃんが寝かしとけって。朝飯、姉ちゃんの分置いてあるから」
少し寝過ごしただけだと思ったら、朝食まで済んでいると聞いてイマは驚いた。と同時に昨夜の事を思い出して、穴があったら入りたい気分だった。
眠れなかったのはウルも同じなのに。心配をかけたうえ気遣われて、姉として立つ瀬がない。
寝台の上で膝を抱えて小さくなったイマだったが、ふとナクルが物言いたげに見詰めているのに気付いて顔を向けた。
イマと目が合うと、ナクルは誇らしげに胸を張って言った。
「今日は俺が卵を割ったんだ」
生意気盛りのナクルだが、ふとした拍子にあどけない顔を覗かせる。
その様子がいつもより一層愛しく感じるのは、すっかり大人になったウルの一面を垣間見たからだろうか。
「ありがとう」と頭を撫でると、ナクルは擽ったそうに首を竦めて、部屋を出て行った。
イマは手早く身支度を済ませると、一人で朝食をとった。
家にはアムタートやウルはおろか、マティやアムルの姿もなかった。
炉の炭には灰が被せられ、仄かな熱が残るのみ。
格子窓の向こうには天から糸を垂らしたような細い雨が降り続いている。
不思議な気持ちだった。
忙しい糸月の朝に、こんなにも遅く起きたのは記憶にある限りなかったことだ。
早く畑を手伝いにいかなければと思う反面、贅沢なこの時間をもう少し味わって居たいと願ってしまう。
忙しない気持ちを掻き立てるばかりだった雨の匂いが、今日は違ったもののように感じられた。
――明日は一番に起きて支度をしよう。
そう心に決めると、イマはいつもよりゆっくりと朝食を味わうことにした。
朝食を食べ終えたイマが、笠を被り畑に出る頃になって、家の中をばたばたと駆け回っていたナクルが釣り道具を片手に顔を出す。
「俺、アズール達と川に行ってくるから。今日の晩飯は大物を期待しててよ」
ナクルは自信たっぷりに言うと家の前の通りを駆けていった。
――今日は小魚と野草の揚げ物かな……
そう考えながらイマはナクルの背中に手を振る。一時もじっとしていない二番目の弟の姿は、あっという間に見えなくなった。
ナクルが去ると、村の中はひっそりと静まり返った。
村人達はとっくに畑に出ている時間なのだ。
笠に落ちる雨の音が鮮明に耳に届く。
人気のない村の中を抜けて、畑に出る道に差し掛かったときだった。
角を曲がると、笠を被った二人の少女と出くわしたのだ。
一人はイマの幼馴染で、名をハリカといった。婚礼を来月に控えているハリカはイマの目から見ても近頃めっきり美しくなった。
もう一人はハリカの妹のサンだ。琥珀色の大きな瞳が目を引く、ウルと同じ歳の少女だった。
ハリカが驚いたようにイマの顔をまじまじと見詰める。
「まあ、イマ。珍しいわね、こんな時間に。……ひょっとしてイマも寝坊?」
も……と言うからにはハリカもなのだろう。
「うん、ちょっと昨日寝苦しくて。ハリカは?」
ハリカは頬を染めて頷いた。
「私も寝坊。婚礼の衣装を縫っていたら、ついつい」
マナフの女は、婚礼が決まると、自分と未来の夫の婚礼衣装を手縫いする。とは言え、畑仕事をしながら、二人分の衣装を揃えるのは一苦労だ。だから大抵は家の女が手伝うのだが、裁縫が得意なハリカは全て自分で縫っているのだと言っていた。
ハリカが縫うハオマの花嫁衣装はさぞかし素敵なものになるだろう。
幼馴染の結婚に一抹の寂しさを覚えながらも、イマはハリカの花嫁姿を楽しみにしていた。
「もうすぐだね」
「うん。イマも結婚が決まったら、一番に教えてね。衣装作り手伝うから」
有難い申し出だが、まだまだ先の話になりそうだ。
アシュへの気持ちを、いつになったら思い出に変えられるのか、イマには分からない。
曖昧に返事をして誤魔化すと、ハリカの隣にいたサンが口を開いた。
「ハリカ、気が早いんじゃないの。まだイマは相手も決まっていないじゃない」
「あら、そうかしら。私だって半年前までは、一人だったのよ。こういうことは決まってしまえばあっというまなのよ」
「ハリカとロズの場合は、ずーっとお互いに想い合ってたでしょ。なのに、どっちも恥ずかしがって、話もしようとしないから。私がどれだけもどかしかったか」
おっとりとしたハリカと違ってサンは気が強い。
「それに、婚礼の前にイユーニの祭りがあるでしょ。聞いてよ、イマ。ハリカったら婚礼の支度に忙しいからって、歌選びに出ないんですって」
ハリカとサンはこの一、二年でぐんと歌の腕前を上げていた。
ハリカはゆったりと伸びのある声で、子守唄のように聞く人の心を安らげる。対してサンはどんなに難しい歌でも、一音も外すことなく歌いあげる。
今年の歌い手は二人のうちのどちらかになるだろうと、専らの評判だったのだ。
事前にハリカから相談を受けていたイマは、返答に困った。
歌選びに出ないのは勿体ないと思わないわけではないが、一生に一度きりの婚礼だ。ハリカには悔いのないものにしてほしい。
「そうだ、イマは? イマは今年も出ないつもり?」
まごついている間に、サンの詰問の対象はイマに移った。
「私は、その……音がとれないし。どうせでても結果は見えてるから」
イマがイユーニの祭りで歌うため、練習に励んでいたのはアシュの花嫁になりたかったからだ。
だが、アシュの事を抜きにしても、もう歌選びに出ようとは思えない。結果が見えているのは事実だった。
「まあ、私、イマの歌好きよ。どこまでも伸びる声が気持ち良くて」
沈んだイマを慰めるようにハリカが言う。
サンが「呆れた」と呟いた。
「イマの音がおかしいのは昔からでしょ。でもやってみなきゃ、結果なんて分からないのよ! 全くもう。どうしてこう誰も彼も、私を苛々させるのかしら」
そう言うと、サンは乱暴な足取りで去っていく。
困った顔でサンを眺めていたハリカだったが、イマに「妹がごめんなさいね」と言うとサンを追っていった。




