十話
アシュが何故そんな表情を見せるのか分からなくてイマは狼狽えた。
やはり、上手く笑えていなかったのだろうか……と、イマが不安を抱いた時、「イマ!」と遠くから彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。
アシュの向こうに、こちらを目指して駆けて来る人物が目に入る。ウルだった。
「イマ、なにやってんだよ」
帰りの遅いイマを心配して探していたのか、ウルは息を切らしていた。
「は? アシュ?」
イマの傍らにいるアシュを認めると、ウルは目を見開いた。それからじっと、アシュを見詰めた。不可解な面持ちを隠そうともしない。
ウルはイマがアシュを避けているのに気付いている。
それなのに、日も沈んでからアシュに会っているのを不思議に思ったのかもしれない。
イマはウルに駆け寄り、その腕を取った。
「ごめん! ちょっと寄道してたら遅くなって、偶然アシュに会って送ってもらったの」
笑顔が崩れぬようにと、イマはわざと明るく弾んだ声を出した。
「さ、ウル帰ろう」
そう言ってイマはウルの腕を引っ張った。
今はこの場を早く離れてしまいたい。
ウルが何か言い出さないかと、怖かったし、何よりアシュにあんな顔をさせてしまった事が気まずかった。
――きっと軽率なことを言ってしまったんだ。
考えてみれば村を捨てるなんて決断は簡単に下せるものではない。いくら愛する女性がいたとしても、これまでとはまるで違う生活に身を投じるのは誰だって迷うだろう。だからこそアシュも今まで独り身のままだったのに、イマ一人の後押しが何になるものでもない。
「アシュ、送ってくれてありがとう」
ウルの手を取ったまま頭を下げる。
「いや……ああ」
アシュは頷いた。
どこか苦い顔をしていたが、その様子からは怒りは感じなかった。呆れているのかもしれない。
アシュを気にしてか、時折背後を振り返るウルを急かすようにしてイマは家に帰った。
その夜、イマはいつまでも寝付けないでいた。
冷たいアシュの瞳と、不似合いな皮肉な笑み。そして最後に見せた戸惑いの表情。それらが閉じた瞼の裏に次から次へと映し出されて、心がざわめいた。
思い浮かぶのはアシュの事ばかり。
アシュへの恋心に決着をつけ、前へ進もうと決めたというのに、少しも進めていないことに気付かされる。
数えるのも馬鹿らしいほど寝返りを打ち、とうとうイマは体を起こした。
――水でも飲んで気分を落ち着かせよう。
イマは室内に届く微かな月明かりを頼りに中庭へ出た。
外は家の中より遥かに明るかった。
雲のない夜の空はどこまでも高く、月明かりが優しく降り注ぐ。
水瓶の蓋を開けると、水面にイマの顔が鮮明に映り込んだ。
イマは柄杓を持つ手を留めて、水瓶を覗き込んだ。面長の顔に、真っ直ぐな長い髪。マティよりもアムタートに似ていると誰もが口を揃えて言うのに、不思議なことに父の持つ雄々しさとは無縁の顔立ち。なだらかな曲線を描く眉は下がり気味で、そのせいか少し優柔不断そうに見える。
すっかり大人になった自分の容貌を見て、溜め息が出た。
昔は早く大人になりたくて仕方がなかったのに、いざなってみれば子供の頃が懐かしくてたまらない。
アシュの花嫁になる日を心待ちにしていたあの頃が――
「イマ」
ぼんやりと水瓶に見入っていたイマは、突然名を呼ばれてびくりと肩を震わせた。
驚きのあまり手から零れた柄杓を、傍に来た人物がさっと受け止める。
「何やってんだよ。皆が起きちまうぞ」
「……ウル」
寝間着に身を包んだウルが呆れたようにイマを見下ろしていた。
短い髪がところどころ跳ねている。
一度は床についたものの眠れなかったのだろう。
アシュと別れたあと、ウルは物言いたげな視線を幾度もイマに寄越したが、結局何も聞かなかった。
それどころか、イマがアシュを避けるようになってから、これまで一度もウルはそれについて触れたことはない。
ことアシュに関してイマはずっとウルに申し訳なく思っていた。
というのもイマの足がアシュの家から遠のいてから、ウルもまた彼の元を訪れたりはしていないようだったのだ。もっとも、自警団の中では以前と変わりなく仲良くやっているらしく、二人が談笑する姿をよく遠目に見かけた。
それでも兄のように慕っていた昔とは確かに違っていて、イマはそれが自分のせいだと感じていた。自分がアシュを避けるから、ウルも気を使って避けざるを得ないのではないかと思うのだ。
「眠れねえのか」
ウルがつっけんどんに聞いた。ばつが悪い時、ウルは往々にしてそうした口調になる。
ウル自身も眠れなくて水を飲みに来たのだろうから、決まりの悪い思いをするのは当然だろう。
「ウルもね」
イマはそんな弟の様子がおかしくて、笑いを堪えなければならなかった。
体つきが逞しくなり、声が低くなって、イマよりも遥かに背が伸びても、本質は変わっていない。そのことにほっとする。
揃って水を酌んで喉を潤したあと、部屋に戻ろうとするイマの手をウルが握って止めた。
振り返ったイマの視線の先でウルは眉を寄せた。
躊躇いの入り混じったその顔に、イマはどきりとした。今まで触れなかった話に、とうとう触れるのだろうと思った。
「シュスラのことだけど」
だが、ウルの口から出たのは意外な名前だった。
「シュスラが、どうしたの?」
首を傾げるイマに、ウルは眉を寄せたまま告げる。
「あいつは、良い奴なんだけど、ちょっと押しの強いところがあるから……気を付けろよ」
「気を付けるって……」
何を? と言いかけて、イマは足を滑らせて助けてもらった時のことや、イイクの花の下でのことを思い出した。
弟のようなものだとばかり思っていたシュスラの力強い腕や、大きな掌の感触がまざまざと蘇る。
頬に熱が上がるのを感じた。
イマが気付いたばかりのシュスラの気持ちをウルはずっと知っていたのだ。そう悟って気恥ずかしさが込み上げる。
所在無げに視線を彷徨わせるイマを見て、ウルは「やっぱりか」と呟いた。
「イマが嫌がるようなことをするやつじゃない。それは断言する。けど、イマはなんつーか、ちょっと押しに弱いというか情にほだされ易いところがあるからな。拒否するところはしねえと」
イマは部屋に戻りたくなった。あの時の自分の態度はどうだっただろう。戸惑うばかりで、シュスラの気持ちに気付いても、何も出来てはいなかったはずだ。
ウルの言葉が耳に痛い。弟に説教をされるようになるなんて、しかもそれが的を射ているなんて……とイマは落ち込んだ。
「俺は……焦んなくていいと思うんだ。イマはまだ十八だろ」
「まだ」と言われてイマは思わず言い返した。
「もう十八だよ」
伴侶を決めて、子を儲けるのに決して早い歳ではない。アシュへの想いを断ち切れない今は、誰かとそうなるなんて考えられないと思う反面、イマにだって焦る気持ちはある。
「まだ十八だ」
強い口調でそう言うとウルはイマの手を離した。
「シュスラのことは……ちゃんとする」
情けなさと、ほんの少しの憤りから、イマはウルの顔が見られなかった。
俯くイマの耳に「それからアシュのことだけど」と言うウルの声が届いて、息を呑む。
話はシュスラに逸れたと思っていたイマには不意打ちもいいところだった。
「昔から兄みたいなもんだったからな。嫌いにはなれない。けど、イマのことに関しては……正直、腹が立ってる」
苦々しい口ぶり。イマは思わず顔を上げた。
ウルは口をへの字に曲げている。それはウルが子供の頃によく見せた表情だった。ウルは滅多なことでは泣かない子供だった。その代わりに悔しい思いをしている時など、よくこういう顔をしたのだ。
「イマ、俺はシュスラに断れって言ってるんじゃない。拒否するとこはしろ。焦るなって言ってんだ。今のアシュとシュスラなら、俺は……まだシュスラを推す!」
怒ったように言うと呆気にとられるイマを置いて、ウルは部屋へ戻って行った。