一話
わたし、大きくなったらアシュのお嫁さんになる
――大きくなったらか、イマは気が早いな
すぐに大きくなるもん。ね、いいでしょ?
――分かった分かった。じゃあ、イマがマティおばさんのように村一番の歌の名手になったら嫁にもらってやるよ
母さんみたいに?
――そうだ。でも歌の練習をサボってばかりのイマには無理かもしれないなあ
そっ、そんなことない。頑張って練習するから。一番の歌い手になって、イユーニの祭りで歌うんだから
――それは楽しみだ
だから、わたしがお祭りで歌えたら、アシュのお嫁さんにしてね。約束だよ、絶対だからね
――ああ、約束だ
イマはぽつぽつと屋根を叩く雨音で目を覚ました。
室内には目を凝らしてやっと、ぼんやりと物の形が分かる程度の光しかない。マナフ族の朝は早いが、いくらなんでも起床には早すぎる時間だろう。こんな時間から起きているのは、村で一番年老いたラズバ婆くらいのものだ。
今日は朝から水田の草取りと畦の補強という重労働が控えている。しっかりと寝ておかないと体がもたない。それでもイマはもう一度横になる気になれず、寝台を抜け出した。
衣服を着替えると、家人を起こさぬよう、そっと中庭に続く扉を開ける。
糸月の名に相応しい、細い雨がしっとりとレンガを塗らしていた。
糸月は雨の季節。明け方から、日の入りまで常に雨が降り続く。
その雨を利用して、山の中腹に、村を挟み込むようにして作られた階段状の田に水をはり、苗を植え、稚魚を放す。一年で最も忙しい季節だ。
さらに月の終わりにはイユーニの祭りが控えている。
三日間続く祭りの最終日の夜、雨が上がった後に、村一番の歌の名手が山の頂で歌うと、歌声に誘われ雲が下りてくる。
歌と遊び踊り、雲が去ると、雨が上がりハオの花が咲くのだ。
花は七日ほどで散っては実をつけるを繰り返し、稲の刈り入れの少し前まで収穫が続く。マナフ族はその実を紡いで糸となした。ハオの実で織られた布ハオマは温かく、羽のように軽い。ハオマはラズバ婆が産まれるずっと昔からマナフの貴重な交易品となっていたという。
厚く天を覆う雲を見上げたあと、イマは軒下に吊られた笠を被り、水瓶から水を汲んで、顔を洗った。
この季節はよく同じ夢を見て目が覚める。遠い昔に交わした約束の夢だ。
あれはイマが十歳の時だったから、もう八年も前になる。幼い日に交わしたあどけない約束を、小さなイマは真剣に信じていた。
苦手だった歌の稽古に励み、七歳年上のアシュに見合うようになる為、背が伸びるというシム草を搾った苦い汁を毎朝毎晩飲んだ。
イユーニの祭りで歌う者を決める、『歌選び』はマナフの娘が十二になると参加する権利が与えられるが、イマは十二から十五の歳まで四年間、毎年歌選びに挑んだ。
しかし、残念なことにイマは、かつてイユーニの祭りで何度も歌い手を務めた母マティの素質を継いではいなかった。
―――――あんたは父さん似だからねえ。
思うように音程の取れない声に苦心していると、母は首を傾げて息をついたものだ。
母の言うように自警団の団長を勤める力自慢の父に似たからか、それともシム草の効果が出たのか、イマが村で一番のっぽな女になったある日、イマはハオマを売りに街に出る父と叔父に頼み込んで馬車に乗せてもらった。
その時イマは十五歳を少し過ぎた頃で、同じ日々を繰り返すだけの代わり映えのしない村の中に飽き飽きしていたのだ。
父達が交易に下りるタルウィの街は、周囲の村から交易品を持ち寄る人々や、遠い異国からの旅人でごった返しているという。珍しい品を土産に帰る父や、細工師という仕事柄よく街に降りるアシュの話を聞いて、イマはタルウィの街を見てみたくて仕方がなかった。
その年の刈り入れを三枚は受け持つという条件で乗せてもらった荷車に一昼夜揺られ、たどり着いたタルウィの街はイマの想像を遥かに上回っていた。
霞んで端が見えないほど大きな湖の中に、これまた大きな島があり、その島全てがタルウィの街になっているのだという。
荷車が通ると、ぷかぷかと揺れる浮き草の橋だけでも、イマにとっては驚きであったのに、街の中はそれこそ目がまうほどだった。
両の耳にたくさんの金の輪をつけた男や、毛先にかけて青くなる長い髪を垂らした少女達、身の丈の倍はあろうかという長い棒を携えた一団など、見たことも無い風体の人々が、森の木々よりも多いのではないかしらと思えるほどたくさん、往来を行き交っていた。
大通の道の両端には色鮮やかな天幕が張られた露天が連なり、ある店は日の光を受けているわけでもないのにきらきらと輝く石がはめ込まれた装飾品を。ある店は美しい声で歌を奏でる亜麻色の蛙を。また、その隣の店に置かれた、金色の鳥かごの中には、どういった細工か、ゆらゆらと形を変えながら浮かぶ球体が収められており、その中を小さな赤い魚が泳いでいた。
目に映るものすべてが物珍しく、父達が馴染みの商人と交渉を兼ねた世間話に入ったのに乗じて、イマは一人離れ、浮かれて街中を歩き回った。
楽しくて愉快でたまらない気分が、一気に、惨めでいたたまれないものに変わってしまったのは、昼食にと買った、甘い餡を包んで揚げたイッパというパンを食べていた時だった。
大通りを逸れたその道は、マナフの村で育ったイマにしてみればまだまだ驚くほどの人で溢れていたが、それでも大通りよりかは幾分ましだった。
赤い屋根に赤い暖簾を下げた建物がいくつも並んでいる。それが宿屋なのだと、イマはすぐに気がついた。
大きな荷物を背負った旅人に、頻りに声をかけているのは、客を呼び込もうとする宿の人間なのだろう。
イマが手に荷物を持っていないからか、呼び込みがイマに声をかけてくることはなかった。おかげでイマは町並みを眺めながらのんびりと通りを歩くことが出来たのだが、後で、誰か一人でも一泊の値段を交渉して足止めしてくれていれば、その光景を見なくてすんだのにとイマは思った。
それはイッパの最後の一口を放り込んだときだった。遠くに見えるある宿から、赤い暖簾を潜ってアシュが出て来たのだ。村育ちのイマは視力には自信があったし、何より大好きなアシュを見間違えるわけがなかった。
商売の為に数日前から街に降りている事は知っていたが、これだけ人が多いと、とても会えないだろうと諦めていたイマは、嬉しくなって声を上げようとした。しかし、アシュの名を呼ぶ事無く、すぐさま物陰に隠れた。
アシュの隣に、褐色の肌を持つ女が寄り添っていたからだ。
アシュは様々な物を細工する。本業は軒に吊るしたり、持ち歩いたり、神々の社を飾ったりする、魔除けの飾り作りだが、建具の装飾に、武人の剣の鞘を彫る事もあれば、女性用の髪飾りや、首飾りを作ることもあった。
だから、その女は客に違いないとそう思い込もうとしたが無理だった。
女の幾連もの飾り輪がはめられた腕がアシュのそれに絡められると、アシュは笑顔でそれに応える。単なる客と細工師とは程遠い親密な空気がそこにあった。
女と別れたアシュが角を曲がり、その姿が見えなくなってから、イマはそっとその場を離れた。
好奇心を顔いっぱいに溢れさせ、小銭を握って出かけていった娘が、どんよりと沈んだ面持ちで戻ってきたのに、イマの父、アムタートは首を傾げたが、詳しく聞こうとはしなかった。
近頃距離が出来てきた年頃の娘の悩みに、男親である自分が役に立たないと思ったのかは知らないが、それはイマにとってはありがたいことだった。誰かに今し方見た光景を話してしまいたかったが、話してしまえば、もっとみじめな気持ちになるだろう。
その後はつまらない商売の話を耳にしながら、イマは父や叔父達の側を離れる事無く、タルウィの街で一晩を過ごし、帰路についた。
始めてタルウィの街を訪れたその日から、イマはタルウィの街が嫌いになった。
そして、その年から、イマは歌選びに出るのをやめた。