〈第一回〉 『青春の小枝道』
〈プロローグ〉
シャリシャリとストローの先で氷を潰していた親友が、ふと顔を上げた。
「なんか懐かしくねぇ?」
そういって視線だけで示してみせるのは、隣のテーブル。
中学生くらいの男子の二人組が陣取り、そこで激論を交わしていた。つまり、喧嘩だ。
駅前のファーストフード店。
真夏の店内は効き過ぎるほどクーラーがかけられていて、昨今の節電事情はどうなっているのか疑うほどだ。ガラスのドアを通して、外のわずかな木々で盛大に鳴くセミの声が聞こえてくる。
「ああ」
ぼくは苦笑した。
親友とぼくは、中学のころ一度大きな喧嘩をしたことがあった。きっかけは、今から思えばバカらしくなってしまうような、本当に些細な事で、けれどもそのおかげで二ヶ月以上口を聞かなかった。
その時のことを思い出しているのだろう。
間抜けな顔で、ずずっと底に溜まった薄いジュースを吸い込んでいる親友を見ながら、ぼくもそのときのことを思い出した。
そういえば、まだ話していない。
伊勢で出会ったじいさんと少年たちのことを。
ちょっと気恥ずかしさもあって、これまで三年以上、ずっと話さずにいた。
「なぁ、今年の年末、どうする?」
ちみちみとポテトに伸ばしていた手を止め、ぼくは聞いた。
「年末? いくらなんでも、気が早くね?」
「あと四ヶ月後だぜ。そんなに会えないんだし、あっという間だって」
それぞれ違う高校に進学した僕たちは、こうして一ヶ月に一度ほど会合を開いている。
「そりゃそうだけどさ」
釈然としない様子の親友を捨て置き、僕は話をすすめる。
「伊勢、いこうぜ」
親友はポカンと口をあけた。
「でも、お前、パワースポットとかバカらしい、特にその中心地とかはなおさらだって……」
「何年前の話だよ」
それは三年ほど前のことのような気がする。
「それに、ちょっと紹介したい人がいるんだ」
今年もあのじいさんは、子供たちを引き連れて来ているのだろうか。あの巨大ハエタタキでモチを焼いているのだろうか。
「ふうん、そうか。分かった」
親友は、それ以上追求せずうなずいた。
「いいよ。久しぶりに夜のお伊勢さんもいってみたいし」
「……え? 夜の伊勢神宮って珍しいのか?」
なにいってんの、という顔で親友はぼくを見た。
「あのな、普通は夜の参拝は出来ないんだって。年末年始と、いくつかの行事が特別」
「マジか!」
「マジマジ」
神妙な顔でうなずき、親友はぼくのポテトに手を伸ばした。
それを全力で阻止する。
「やらねぇよ」
「――ケチ」
「なんとでもいえ。ただし、ポテトだけは譲らねぇ」
そんな軽口の応酬をする。
久しぶりに会った、親友との会話はやはり楽しかった。今ではいつでも連絡が取れて、そんなに距離を感じなくなったけれど、離れた当時はもう二度と会えないのではないかと思ったことを覚えている。
あの二ヶ月間。
親友はどのように過ごしていたのだろうか。
お互いに暗黙の了解のように避け合っているテーマなので、まだ聞いたことも話したこともないけれど、そろそろいいだろう。年末、電車の中でゆっくりと話すとでもしようか。
自然とテーブルに落としていた視線を上げ、親友を見る。
トレードマークだった古い阪神のキャップは、いつのまにか、新しいものへと変わっていた。
〈1〉
三年前のあのときのことを、ぼくは今でもかなり鮮明に思い出すことができる。
中学一年の十月。
日差しはずいぶんと弱くなったものの、いまだに日中は暑く感じる日の多い、そんな一日。学校からの帰り道のことだ。ぼくもヤツも半袖に半ズボンで、ヤツの頭にはその時にすでに古かった阪神のキャップが鎮座していた。
さんざんふざけながら歩き、遠回りもしているうちにすっかり汗を書いてしまったぼくは、アイスを食べようぜ、と提案した。ちょうど近くにコンビニがあったのだ。
ところが、ヤツはその先にあるカフェで、抹茶パフェを食べようと言い出した。
当然嫌だとぼくは答えた。
一応学校の帰りということもあって、そんなところを誰かに見られでもしたら、最悪だったからだ。それに、パフェはぼくの財布事情から考えるととんでもなく高価だった。
「いいじゃん、こっそり奥のほうで食べればいいんだって」
しかし、ヤツはやけに強引だった。
散々誘ってくるので、ついにぼくは折れてそのカフェに入った。ヤツはなぜか得意げな顔でパフェを頼んだが、ぼくはジュースだけにした。そのジュース一杯でアイスが何本も買えたのにと思うと、あまり美味しくは感じられなかった。
僕とヤツは結局そのカフェに長時間居座っていた。ヤツは最近ハマっているというUMAやUFOなどのことを興奮気味話し、そういえば、オレの実家の近くにある伊勢神宮もパワースポットとして有名なんだってさ、と自慢げにいった。 ――パワースポットとかバカらしいし、その中心地なんかなおさらだ、と僕がいうと、ヤツは少し悲しそうな顔をした。
事件は次の日に起こった。
ちょうどその時の様子を見ていた大人がいたらしく、先生に通報されたのだ。ぼくたちは先生たちから厳重にお叱りを受け、家でも怒られた上に、お小遣いは一ヶ月もらえないと言い渡された。
「違うんだって、ぼくはやめておこうっていったんだ。でも、アイツが……」
ぼくは必死で抗議をしたが、まるで相手にされず、怒りの矛先はヤツのほうへと向いた。さらに次の日、ぼくはヤツに怒りをぶちまけた。
――なんてことをしてくれるんだ、お前のせいでひどいことになった、どうしてくれるんだ。
ヤツは、何も言わずに聞いていた。
「なにか言えよ」というと、
「……お前も賛成したじゃん」と仏頂面でぼそりと答える。その時のやつの顔は、まるで能面のようでなにかの感情を押し殺しているように見えた。
「それは、お前がしつこく誘ったからで」
「連帯責任だって」
ヤツはいった。
今思えば、笑い出してしまいそうな会話だが、この時はお互いに必死だった。
その先は大ゲンカになった。徹底的にお互いをなじり合って、ぼくたちは別れた。あんなヤツ、もう口も聞いてやらねぇ、友だちでもなんでもねぇ、とそう思った。
ヤツが二週間後に転校することを聞いたのは、そのさらに次の日だった。
どうしていってくれなかったんだよ、とはいえなかった。
ちっぽけな、でも中学生なりのぼくの意地がそれを邪魔していた。それに、ヤツの周りには転校すると聞いたときから人が集まっていて、到底声をかけられる状態ではなかった。
そうして数日が立ち、クラスで開かれたヤツのお別れ会に、ぼくは欠席した。とてもじゃないけれど、それに出てヤツにお別れの手紙などを渡す気にはなれなかったし、皆と一緒に涙をながす気にはなおさらならなかった。
仮病を使って寝ていると、どうしてもヤツの顔がふわふわと浮かんできて、頭を離れなくなった。楽しそうな顔、いじけている顔、悲しそうなの顔、目まぐるしく変わる表情が、ぼくの頭の中を舞った。
否応なしにヤツとの日々を思い出し、ぼくは突然申し訳なくなった。
けれど、途中からお別れ会に突入する勇気もなく、しかたがないので、手紙を書くことにした。
『拝啓このバカヤロウ……』
そこまで書きかけて、消す。
「バカヤロウじゃなくて、コノヤロウかな」
本当にどうでもいいことで、ずいぶんと悩んでいた。
別れの手紙などどう書けばいいのか分からず、病気で寝ているという手前上お母さんに聞くこともできなかったので、もう思いついたことを書くことにする。すると、ただの愚痴になった。お前はこうだ、ああだ、お前のせいでいつもひどい目にあった、最悪だった、自分でもよくこんな言葉が最後に出てくるな、と思うほどの悪口を並べ立てて、それも消した。
『この前はゴメン……』
今度は謝ってみる。
するとスムーズにいった。そのままどんどんと書き連ねる。しかし、今度は気分が悪くなってきた。なぜ、ぼくが謝らないといけないのか。そもそも今回の喧嘩にしても、全面的にヤツが悪いのに、一言も謝ってもこない。
書きながらムカムカしてきて、その紙はくしゃくしゃにして捨てた。
完全に頭に血が上って、意識が朦朧としていた。
その先は、何を書いていたのかあまり覚えていない。熱に任せて書きなぐり、見直しもせずに封筒に入れた。本当に風邪を引いたかのように、頭がガンガンとして、ぼくはそのままベッドに倒れ込んだ。
――夜。
部屋におかゆを運んできたお母さんが、ヤツが持ってきてくれたのだと、数枚のプリントを渡してきた。その中には、ヤツからクラスメイトへの手紙というものもあって、そこには引越し先の住所も書かれている。
ヤツの出発二日前の晩のことだった。
次の日、学校は休みだった。
起きた瞬間、ヤツのところにいこうと思った。手紙には出発の当日は朝早くに出ると書かれていて、おそらくヤツと会えるのは、最後だったからだ。
つまらない意地は捨てて、仲直りをしたいと思った。
そしてぼくは、机の上から昨日書いた手紙をひっつかみ、ヤツの家へと向かった。
一週間見ていなかっただけで、ヤツの家は様変わりしていた。見慣れたカーテンは取られ、塀越しに見える家の中はダンボールだらけだった。
外で借りてきたらしい大きなトラックに、荷物を積み込もうとしているヤツの父さんが、「おや来てくれたいのかい」といったので、軽く頭を下げてそれからヤツを探した。
黄色と白のキャップが、視界の端に映った。ヤツは隣の通りで、誰かと話していた。
――誰か?
目に写ったその「誰か」が信じられず、一度目をこすってから見たけれど、その姿は変わらなかった。
クラスで一番モテていることで有名な、Rだった。
実は、ぼくも一度告白したことがある。外見だけでなく内面も良い、男子だけではなく女子にも人気の、典型的な良いヤツだ。その時に書いた出せなかったラブレターは、まだ住所も宛名も書けないまま、机の三番目の引き出しの中に仕舞い込んである。それ以来、その引き出しは封印されたままだ。
なんで、Rがこんなところに……という野暮な考えは、聞こえてきた言葉でかき消された。
なんてことだ。
Rが告白していた。
あのとき、まだ恋愛とか全然わからないから、という理由で振られ、それを信じたぼくがバカだったということだろう。
しかし、なによりムカついたのが、ヤツの締りのないにやけた顔だった。怒りが限度を越した。
ヤツなんか、もう一生友達ではない。
電信柱の後ろに隠れて怒りを噛み殺すぼくに気づきもせず、そのあと二人はしばらく、良い感じの空気をつくり続けていた。
ぼくはついに見ているのが耐えられなくなり、二人に背中を向けた。
心のなかは、怒りにも悲しみにも似た感情が渦まいていていた。多分ぼくは、本当に勝手なことだけれど、傷ついていた。
家に帰ると、手紙を机の三番目の引き出しの中に放り込んで、ベッドに倒れた。
案外すぐに、眠りにつくことが出来た。
そして起きた時、今度こそヤツは、この町にはいなかった。
それからの二ヶ月は、ゆっくりと過ぎた。
ゆっくりだったくせに、その間に自分が何をしたのかも覚えていないほど、中身がなかった。ヤツに手紙を渡せなかったあのときから、ぼくの中での時間は、どこか新鮮さを失っていた。
ヤツのことは忘れようと努めた。
しかし、燃え上がっていた怒りが時間とともに収まった後、そうして忘れようとしている時間が、ぼくの一日の中での大部分を占めるようになった。結局のところそれは、ヤツのことを一日中考えているのと大差なかった。
手紙を捨てようとも何度も思った。
けれどもそれをいまだに実行するどころか引き出しを開けることすらできないのは、ぼくの中にまだ、ヤツと仲直りしたいという気持ちが残っていたからだろう。事実、ぼくはヤツと遊ぶのを渇望していた。
小学生五年の時につくってそれ以来きれいなままで保ってきた、学校の裏山にある秘密基地や、河原で飛ばしたペットボトルロケット。
川の中に橋から飛び込んだり、河原のアシの原を冒険しにいって迷ったり、市内の一番高い木に登ろうとして、最初のあたりで落ちて骨折したこと。そんなバカを、もう一度したかった。
あれから二ヶ月。ぼくはまだ、ヤツの代わりになる友達を、見つけられていなかった。
「ねぇ、今年はどうする?」
年末も年末。今年もあと二日で終わろうとしている一日のことだ。すっかりコタツの住人と化したぼくに、お母さんがそういった。
「う……ん? いつも通りで」
そのときぼくはテキトーに返事をして、そのままその会話は終わった。
問題は次の日だ。
朝から、年末恒例の家族で帰省をする準備をしていた母さんが、ふと気づいたようにいった。
「そういえば、いつも通りってどうするの?」
どうするって?
そう言われてはっと気づいた。
家族の年末年始の過ごし方は決まっている。ぼく以外の家族は全員、けっこう近くに住んでいる父方の実家に大晦日に帰省し、そのまま年を越す。ぼくは大抵、家に残り、ヤツと一緒に家の近くの神社で初詣をして、それから遊びまくって年を越す。
しかし、そういえば今年はヤツがいないのだ。
「どうする? 一緒に来る?」
考え込んでいるぼくに、お母さんがもう一度聞いた。
どうしようか。こうなったら、一緒に帰省してしまうのも一つかもしれない。
けれど、僕の中にはまだ一つ、引っかかっていたものがあった。ヤツのことだ。このまま何もせずに年を越してしまったら、もうどうしようもないような気がしていた。
その時、ふと伊勢神宮のことを思い出した。
実家がその近くだというヤツは、もしかしたら年末、そこに来ているかもしれない。いや、あれだけ好きだと言っていたのだ、来ていないはずがない。
その時頭に浮かんだ計画は、荒唐無稽と言う他ないものだった。
――伊勢神宮にいって、ヤツに会ったら手紙を渡す。会えなかったら手紙を捨てて、忘れる。
なかばクジのような、そんな計画だった。
それでもぼくは、心のなかにたまっていく感情をどうにかしたかった。
「ぼく、伊勢神宮に行ってくる」
「え?」
意味がわからないとでも言うように、お母さんが聞き返す。
「だから、伊勢神宮!」
「ふうん、誰と?」
そう聞かれて、とっさにヤツとだと嘘をついた。向こうで待ち合わせをしているのだと。これまで年末を二人で過ごすのはよくあったことだったので、お母さんはそれ以上何も言わなかった。
そうして僕は、年末を伊勢神宮で過ごすことになったのだった。
〈2〉
早めの晩ごはんを食べて、ゆっくりと支度をして出るつもりだった。しかし思わぬ伏兵が、僕の完璧なスケジュールを脅かした。
家の時計が遅れていたのだ。
慌てて二階へ駆け上がり、それまでずっと開けていなかった三番目の引き出しの中から手紙をひっつかんで、家を飛び出した。最寄り駅から出る電車に飛び乗ったのは十八時だった。
ずっとコタツに依存する生活を送っていたせいか、立ち上がるとわずかに頭がくらくらして、行動もいちいち緩慢になる。ノロノロと人のほとんどいない車内でロングシートに腰掛けたぼくは、気づけば眠りに落ちていた。
起きた時、路線を乗り換える予定の駅を通りすぎていなかったのは、単に運が良かったという他ない。それはぼくがはじめに乗った電車が鈍行で、途中で急行に乗り換える予定だったにもかかわらず眠ってしまっていたからだった。
しかし、そのせいですでに時刻は十九時を回り、外はすでに真っ暗だ。いつのまにか僕の座っている周りにはたくさんの人がひしめき合っている。
やがて電車が目的の駅に着くと、重い体を起こしでのそのそと電車を降りた。少し高いところにあるその駅のホームからは、塀越しにビルやその壁面に光るネオンが見て取れた。
冷え込んだ風が吹き抜け、ぼくの身体を凍えさせていく。物凄い寒気に襲われ、ぼくは慌てて腰に巻いていた黒いダウンを羽織った。この様子ではこれからなお冷え込みそうだと思った。
階段口にある表示に従って、ホームを変えるとしばらくして電車が滑りこんできた。これまで乗ってきたような対面式のロングシートしかない通勤電車と違い、ボックス席だった。
人が少ないのを幸いに、四人乗りのその一角を占領し、外の景色に目をやる。
ビルや家の立ち並んでいた風景はすぐに消え去り、車窓からの景色はどんどんと、暗い田舎に変わっていった。路線は単線に変わり、乗っている電車は快速にもかかわらず、すべての駅に停車した。
大晦日に、世界に名だたる伊勢神宮へ向かう電車だ。
ものすごい人だろうと想像していたのに、実際はほとんど人はいなかった。ぼくのいる車両には十人ほどしかいない。家族連れと、大学生のサークルかなにかの一団だ。彼らの楽しそうに話す声が、否が応でも耳に届いた。
ふいに景色が完全に真っ暗になった。電車がトンネルにはいったのだ。
その瞬間、ぼくはどうしようもない孤独感に襲われた。
ぼくはたった一人で、いったこともない伊勢神宮に向かおうとしていた。
ついこの前までいつでも一緒だったヤツは、もういなかった。
ポケットの中には、出せなかった手紙が入っていた。
それらのことはぼくを、まるで世界から隔離しているかのように、孤独にさせた
冷たい電車の窓に頬をつけて、再び真っ暗な外の景色を見つめる。
さきほど見た腕時計の針は、二十時半を差していたのを思い出す。事前に調べた乗り換え案内では、到着は二十一時半となっていた。
あと一時間ほどで、伊勢駅に着く。
その一時間がやけに、長いように感じられ、ぼくはシートからずり落ちそうなほどに深く身を沈めた。
突然、外の景色がパッと白くなった。トンネルを出ると、そこでは雪が降っていた。
雪国に住んでいる人からすると、なんでもないのかもしれないが、ぼくにとってそれは吹雪としか表現のしようがないものだった。
その中を電車は切り裂くように走っていく。
見慣れない景色すらも真っ白に塗りつぶされ、それがぼくをますます孤独にさせた。
そうして伊勢駅にたどり着いた時、ぼくの心はすでに冷え切っていた。なのに、身体だけは電車の暖房に暖められていて、まるで心と体が切り離されたように感じた。
古ぼけた駅舎を出て、意外と小さいロータリーに出る。
通ってきた山間部ではあれだけ積もっていた雪も、こちらではすでに降り止みうっすらと道路の上に痕跡が残るだけだ。
駅前のもう使われていないデパートが、大晦日の空の下で、やけに寂しそうに見えた。
――ぐぎゅう。
閑散とした駅前の広場の空気の中で、まるで場違いな音がぼくのお腹から鳴り響いた。
その音を聞いて、初めて、自分が空腹なのだということに気づいた。まずは空腹を癒そうと辺りを見渡すと、やけに賑わっている通りが目に入る。
ぼくはそちらにむかってふらふらと歩いていった。
〈3〉
気づけば、伊勢神宮の入り口にいた。
だが、ぼくの知らない伊勢神宮だ。橋はあるが、写真で見たものよりも格段に小さく、黒々とした木々が覆う神社の一歩外にある広場では、巨大なたき火が焚かれていた。
ふらふらと食事処を物色しつつ、人の流れにのっていくといつのまにかこの広場にたどり着いていた。途中でふと目にした標識には『伊勢神宮(外宮)』とある。
歩き回っている内にすっかり冷えてしまった身体を暖めるべく、ぼくはそのたき火に近づいた。周りにはたくさんの人が集まって、写真をとったり談笑したりしている。また、たくさんの子供たちがそこらじゅうを走り回って遊んでいた。
期待した心地よさは、やってこなかった。その代わりに圧倒的な熱量が身体を打ち、露出した部分が火傷しそうなほどに熱くなった。
それでも意地を張ってその前にとどまり、燃やされている大木の根元が赤く明滅しているのを見つめていると、否応なしに自分がここに何をしに来たのかが思い出された。
ゆっくりとあたりを見渡してみるも、当然ヤツは見当たらない。
そもそもが無謀な計画だった。諦めて忘れるしかないかと、思考もそちらに傾き始める。
ぼおっと目の前の火を眺めていると、その快活さがまぶしい。そうだ、いっそこの火で手紙を燃やしてしまえば、スッキリ爽快なのではないかと、そんな考えが頭に浮かんだ。
やるとしたらどんなものだろう。
一歩近づいてみる。それだけで顔を背けそうになった。けれど周りを見ると、もっと近づいている人が何人もいる。負けじともう一歩、一歩と近づいていくと、やがてサウナにいるのよりもキツくなった。
なにくそ、あと一歩。
半ば意地だけで足をすすめる。周りの声がだんだんと聞こえなくなってきていた。
「モチ、食う?」
突然後ろから聞こえたその声は、やけに大きく響いた
振り返ると、そこには小さな少年がいる。まだ小学生の低学年のように見える。ぶかぶかの黒いコートを着ていた。まるでコケシのように首から下が寸胴になっている。
少年は、変だな、とでも言うように首を傾げて見せもう一度言った。
「なぁ、モチ、食う?」
そこでようやく彼の言っている内容が理解できた。
――モチ?
モチなんてどこにあるのだろう。
改めて少年をまじまじと見ると、手に小さな皿を持っていた。その上に乗っている、黒っぽいものがどうやらモチらしい。焦がしてしまったのだろうが――どうみてもほとんど炭化しているように見える。到底食えるシロモノには見えなかった。
「え?」
一瞬遅れて、そんな言葉が出た。
喋ってから久しぶりに、声を出したな、と思った。
そして、まるで自分のものではないように感じられたその声が、突然僕を現実世界へと引き戻した。
その次の瞬間、
「うわ、熱ッ!!」
どこか遠いものだった感覚まで引き戻されて、僕は急いでたき火のそばから、半ばひっくり返るようにして離れた。ずっと振り返っていたせいか、首筋がとてつもなくヒリヒリした。顔もいたるところが火照って、痛かった。
「ああもう、痛ってぇ……。ちょっと、強すぎるだろ火が」
文句をたれながら、年末の風で顔を冷やしていると、視界にまたあの少年が現れた。
今度は、皿を捧げ持っている。それを僕の鼻先につきつけ、彼は言った。
「モチ、食べて!」
案外しつこい性格のようだった。
手の先に、冷たい砂利の感触が伝わってくる。少し手探りをして地面に落ちた手紙を掴むと、無造作にダウンのポケットに押しこんだ。
そして、地面に手をついた体勢で、目の前の黒い物体を見つめた。それをぼくに突きつけた本人は、有無を言わさない必死の表情をこちらに向けている。
その二つを何度か見比べた後、ぼくはため息をついてそれを手にとった。すでに冷え始めていて、すこぶる美味しくなさそうだった。
「これを……食べろと?」
恐る恐るたずねると、少年は無邪気にうなずく。
マジかよ。
ごくりとツバを飲み込んでから立ち上がり、それを持った右手を口へと近づけていく。
必然的に鼻へと届く炭の香り。食べる前から口の中に広がる嫌な苦味。すでにがんの発生率が上がり始めているのが感じられるような気がする。
いや待て。
もしかして――もしかしなくても、ぼくがこの少年に従う理由は一つもないのではないか。いや、疑うまでもなく、まったくない。
なんでぼくはこんなものを口にしようとしていたのだろう。
口元からそれを遠ざけ、ぼくは少年に言い放った。
「嫌だよ、食いたくねぇって」
その時、お腹がなった。
とてつもない音量だった。図らずもコントを演じてしまったことに気づき、
「いや、これは……違うから」
慌ててフォローを入れるが、
「遠慮しなくていいって」
少年は見逃してはくれない。にやにや笑いながらそういった。
とっさに切り返そうとしたが、何も出てこず、ただ空気だけを吐く。
「おい、なにやってんだよ」
その声は、すぐそばで聞こえた。
視線を巡らすと、すぐ後ろに小柄なじいさんが立っている。ジーンズに煤けた茶色のコートを羽織り、口にはタバコを加えていた。肩に巨大なハエタタキのようなものを担ぎ、手には巨大なタッパーを一つ持っている。
「えー、だって……」
少年が、悪戯が仕掛ける途中でバレた時のような――事実そうなのだろうが――きまり悪げな笑顔を浮かべて、答える。
それでようやくじいさんがこの少年の知り合いなのだと分かった。
「だから、それはお前が食え、っていったんだろ?」
じいさんは意地悪な笑みを浮かべる。
それから、こちらに視線を移し、ひょこっと頭を下げた。
「すみませんねえ、連れが変なことをして」
「いえ……別に」
妙な表現をする人だな、と思いながら、伸ばしてくる手に、モチを渡す。
「あーあ、こりゃひでぇ。お前が焦がしたんだから、お前が食うのが道理だろ。なんで人に押し付けてんだよ」
外見からすると六十は越えているじいさんが、小学生のような口調でしゃべる。
相変わらずもぞもぞとして、
「わかってるよ」
と呟く少年に、
「冗談だよ、冗談。ノリのわからん奴だなぁ」
じいさんはそういって、そのモチを――いや炭を、たき火の中に投げ込んだ。
「こんなもん、食ったらガンになっちまうだろうが。ほら、新しく焼こうぜ」
それから少していねいな口調になり、
「そちらの方も、どうです?」
ぼくの方を見て、肩のハエタタキをゆらした。
いえ、と断ろうとした瞬間に、またもやタイミング悪くお腹がやらかしてくれる。
思わず頬が熱くなるぼくを見て、じいさんはひとしきり笑い、遠慮するこたあありませんよ、といった。
「モチはいくらでもありますから。それにお伊勢さんのどんど火で焼いたモチを食べれば、一年間風邪を引かないと言います」
ようやく年寄りらしくなにかを思い出すように目を細めるじいさんを見て、断るのが申し訳なくなった。
では、すみません、と頭を下げる。
「どういたしまして」
にっこり笑うと、じいさんは肩からハエタタキを下ろした。 長い竹の棒の先に括りつけられているのが、金網だと分かった時、ぼくはようやくそれがハエタタキなどではなく、モチを焼くために作られたものなのだと気づいた。
確かにあの熱さでは、とうてい近づくことはできそうにない。すごいアイデアだ。
先ほどまでぼおっとしていて気づかなかったが、よく見れば回りにいる地元民とみられる人たちのけっこうが、形は違いこそすれ、同じような網を持っているのが見えた。
しかし、じいさんの持っている網は、ほかのどの人のものに比べてもケタ違いに大きかった。
たき火――いや、どんど火といっただろうか――にはすでにたくさんの網が差し込まれている。
「あ、それオレがやりたい!」
さきほどの少年がひょいと首をのぞかせていった。
「ダメに決まってるだろ」
「なんで?」
「さっき任せたら、炭つくったじゃねえか。しかも、自分で責任を持って食べずに人様に押し付けようとするようなヤツに、この網は任せられん」
「えー、ケチ!」
「ケチもクソもあるか。お前は黙ってトイレでもいってな」
えぇーと口をとがらせ、少年が走り去っていくのを見つめると、じいさんは地面においた網の上にタッパーから取り出したモチを次々とのせていった。
それを見ながら、僕はふと先ほどから抱き続けていた疑問を口にした。
「あの、変なことを聞くんですけど、ここって伊勢神宮ですか?」
さきほどの標識には間違いなく伊勢神宮と書いてあった。けれど、それにしてもここは、僕が事前情報からもっているイメージとはかけ離れていた。なにより人が少なすぎる。景色も違う。
「ああ、もしかして、初めて伊勢に来なさったのかな」
「え……はい」
「伊勢神宮は、外宮と内宮の二つに別れていて、その二つをあわせて正宮と呼ぶんだ。外宮は豊受大神宮といって、たべものを司る豊受大神を祀っている」
じいさんは、まるで暗記しているかのようにスラスラといった。
――おかげ横丁などがあって、圧倒的に有名なのは内宮の方だけどな。大抵の人も、そこにいく。
つまり僕は、いわば間違った方に来てしまったということらしい。
心のなかに失望感が沸き起こった。これでは、ヤツに会えるはずがない。手紙は燃やせないのなら、ゴミ箱にでも捨ててしまおう。
途端、一つのアイデアが浮かんだ。手がポケットの中をさぐる。
「あの、この手紙一緒にのせてもらえませんか?」
ぼくは、くしゃくしゃになってしまった、封筒を差し出した。近づけないのなら、道具を使えばいいのだ。
じいさんはしばらく黙ったまま、ぼくと封筒を見比べていた。やがてじいさんがつつっと近くによってきて、小声で聞いてくる。
「……失恋か?」
「違います」
即答した。
「いやホントに、つまんないものなので、さっさと捨ててしまおうと思って」
「つまんないものなら、中を見ても――」
「ダメです」
じいさんの皮をかぶった小学生か、この人は。
「ともかく、本当にもういらなくなったので、燃やしてしまいたいんです」
あらためて説明して、手をつきだすと、じいさんはようやくそれを受け取った。
その瞬間、気持ちも、身体も、一気に軽くなったような気がした。ぼくの中に残り、最後の最後までずっとくすぶってきたヤツのかけらが、ようやく出ていったのだと思った。
「あのなあ」
じいさんがいったその言葉に、ぼくはなんですか? と軽く答えた。
「言いにくいんだけどなあ、どういう事情があるのか知らねえが、一度頭を冷やしたほうがいい」
「いいんです、これで。そう決めてたから。燃やして下さい。もし無理というなら、ぼくが自分で捨てます」
もう未練は断ち切って、、新しく前に進まなければいけない。いや、進みたいと思った。
じいさんは、ぼくの気迫に押されたかのように、押し黙った。
やがて、じいさんがいった。
それはさっき聞いたばかりの言葉だった。
「あのなあ」
そしてじいさんは、かなり薄くなった頭を掻いた。
「本当に人のことにあまり踏み込むつもりはないんだ。でもなあ、その目はダメだ」
「――目?」
お前さんのその目だ、とじいさんはいった。
「そんな目をしたヤツが何人も、これでいいといって、歪んでいったのを見た。その目は――自分の心を欺いて、見ないようにしている人がするもんだ。今は気分が楽かも知れん。でもな、あとから少しずつ歪んでくるんだ。自分で自分を押さえつけている分だけな」
――こんなことをしても、結局忘れられねぇぞ。自分が忘れたくないと思ってるんだから。
ゆっくりと穏やかにしゃべるその口調が、やけに癪に障った。説教なんかされたくなかった。
「はあ、意味わかんねぇよ!」
「分からなくていい。ただ、一度冷静になって――そうだ、もう御参りはしてきたのかな?」
相変わらず穏やかに続けるじいさんに、ぼくは微かに横に首を振った。
「なら、一回いって来なさい。それだけで絶対に変わるから」
その言葉には、有無を言わさない強さがあった。たかが十数年しか生きていないぼくなんかが異を唱える余裕をちらりとも感じさせないほどの、時間の重みがあった。
言い返せなかった自分に腹が立ち、ぼくは何も言わずに背を向けた。直接向かうのは癪だったので、まずはトイレにいく。出てくるときにこっそり伺うと、じいさんは、モチを焼いているようだった。
それを二度確認してから、ぼくは人の流れの中に紛れ込み、こそこそと御参りに向かったのだった。
〈4〉
橋を渡って神宮内に入っていくと、空が狭くなった。
大木が我先にと枝を伸ばしているせいだ。その隙間から、済んだ冬の空に浮かぶ、微妙な形の月が見えた。
その月に照らされた空間には、心が研ぎ澄まされるような不思議な空気が満ちている。
家の近くにある神社に、ヤツと二人でいった時のことを思い出した。せっかくだから騒いでやろうとでかけたのに、なぜかはいった瞬間に二人とも黙りこんでしまい、結局律儀にお参りをして帰ってきたのだった。
そのときにぼく達が黙りこんでしまった、あの空気。それを何百倍にも増幅したものがここにあった。
踏み出した足の下で、砂利が小さな音を立てる。
奥へ進んでいくと、道の側で小さなたき火がいくつか焚かれていた。そこの周りにも人が集まり、同じようにモチを焼いている。確かにあの巨大なものよりも、こちらのほうが焼きやすいに違いない。
納得しつつやがてそのたき火をも通り過ぎると、灯りはどんどんと少なくなった。だが、まぶしすぎるほどの月光が、地面を青白く照らしていた。
暗闇の中に暖かい光を灯して浮かび上がる札売り所を過ぎると、その先はもう別空間だった黒々とした巨木の幹が月明かりを反射している。道の両側にある森はますます深く、その奥にあるなにかを感じさせた。
まるで、他の場所とは空間の、時間の濃度がちがうように、ぼくには感じられた。ヤツのいっていたパワースポットとかいうのも、あながち嘘ではないような気が少しした。
ぼくは、周りが先に進むのに逆らって、しばらくそこに立ち尽くしていた。
まわりの人の話し声は、周りの木立の中に吸い込まれていく。静かだった。ただここに自分と世界しかないような、そんな錯覚を覚えた。
そうしているうちに、小さな事にいつまでもこだわっている自分が、滑稽に思えてきた。いや、正確には自分のこだわっていたことが、ほんの小さな事だと悟った。いや、もっというと、ぼくは前からそのことはわかっていたのだろう。ただ、それを受け入れることができなかっただけで。
夜の神宮が持つ清澄な空気は、そっと、心につっかえていたものを、溶かしさっていた。
本殿に着くと、後から後から押し寄せてくる人に気圧されながら五円玉を放り、良い一年になりますように、と手を合わせた。
そのまま人の流れに押し流されてそこを去り、もう少しマシなことを考えておけばよかったと後悔した。
ゆっくりと歩いて広場に戻った時、すでに腕時計は十時過ぎを示していた。
慌てて二人の姿を探すと、先に見つけられていたようで「よう、ちょうど良い感じで焼けてるぜ」
とじいさんが手をあげてぼくを呼んだ。
それから、口に手を当て、外見からは考えられないような大きな声で、呼ばわる。
「おおい、モチが焼けたぞ!」
その瞬間、周りで遊び回っていた子供たちが十数人、一斉に集まってきた。その光景はさながら、公園で鳩に餌を巻いているかのようだ。その様子に圧倒されながらも、僕はその一員に加わるべく、足で地面を蹴った。
空腹はすでに限界を越えていた。
何もつけずにモチを食べるのは初めてだったが、そんなことも気にならなかった。もう一度お礼をいってから、かぶりつく。
歯の先に、硬くて冷たいものがぶち当たった。
「なにがいい感じで焼けてる、なんですか!」
明かに、真ん中まで火が通っていなかった。
じいさんは、おかしいな、とでもいうように自分の手に持ったモチをかじり、
「俺のは大丈夫だけどなぁ」
という。
子供たちを見渡すと、口々に大丈夫といった。どうやら、ぼくのモチだけ半焼のようだ。
「もういいです。自分で焼きますから」
「ほお、焼けるのか?」
じいさんがニヤリと笑う。
「焼けますよ、すくなくとも食べられるくらいには」
ぼくもニヤリと笑い返した。
「うん、良い表情だ」
「そうですか?」
「御参りに出かけていった時とは、大違いだぜ。あのときはひどかった」
「あ、はは」
どう反応していいか分からずに、ぼくは曖昧に笑った。
あんなにもむしゃくしゃした気分で出かけたのに、たかが数十分でこんなにも気分を変えさせられてしまった自分が、なぜか情けなく感じた。
じいさんは、コートの内ポケットから、いつのまにかきれいに伸ばしたあの封筒を取り出した。
「で、どうする」
「分かりません」
「……分からない?」
「お参りしてちょっと変わったというか、なんというか……その、ずっと引っかかってたわだかまりが解けたというか、まぁ、そんな感じなんです。手紙は捨てたくありません。でも渡せもしない。それで、どうしようかと思って――」
「出さねぇの?」
「え?」
またもや、あの少年が首を突き出していた。
「手紙って出すものじゃん?」
そうか。
――そうだ。
単純なことを忘れていた。手紙は、出せばいいんだ。ぼくは笑ってしまった。周りの子供たちに気持ち悪がられても、そのまま笑い続けた。
自分で勝手に囚われていたことから勝手に開放された、不思議な笑いだった。
案内を頼んで、一番近いというポストに手紙を投函しに行った。途中で、宛名を書く。手帳にずっとメモしてあったヤツの住所がこんなところで役に立った。
ポストにそれを投稿した瞬間、ようやく一つのことが終わったのだな、と思い思わず天を仰いだ。そこには、愛も変わらない微妙な形の月が居座っている。正月にはふさわしくないけれど、今の僕にはぴったりの形だった。
広場に帰ってくるとすでに十一時を回っている。入口には、じいさんと他の子供たちが集まっていた。
「これから、内宮に初詣にいくが、どうする?」
じいさんがいった。
「いきます」
「一時間ほど歩くが、いいな?」
もちろん、そううなずくと、じいさんはニヤッと笑って、親指を立てた。
さぁ行くぞ、と爺さんが声をかけると、賑やかな集団一斉に出発する。
そうして僕たちは、新しい年へ向かって出発した。
***
新しい年が明けて、三日目。
コタツの住人に復帰したぼくの元へ、見慣れた文字の年賀状が届いた。
ヤツからのものだった。
来ないわけはないと思いつつも、もしかして来なかったらとも何度も考えた。それに、あの手紙にぼくが何を書いていたのか、それも問題だった。
かすかな記憶によると、ぼくはヤツのことを罵倒しながら書いたような覚えがあるのだ。
急いで裏返すと、そこには、汚い文字で「あけましておめでとう、ことしもヨロシク」と書かれていた。
今年くらい漢字で書けよ、と心のなかでつっこんだ。
大量の葉書を分類していると、その下から一通の封筒が現れた。これもぼく宛のもので、宛名の文字はやはりヤツのものだった。
黄色い縦長の封筒だ。
封を切って中身を取り出すと、二枚重ねで二つ折りにしてあるそれを開いた。
一枚目には大きく、
『果たし状』
と、書かれていた。
本当にあの手紙に何を書いていたのだろうと、ぼくは大きくため息をついた。
果し合いをするときにでも聞くとしよう。
それがいい。
〈エピローグ〉
「――で、何が書かれてたんだ? あの手紙」
ぼくは、もう何度目になるかすらわからない、その質問を親友にぶつけた。
「さぁね」
親友は、肩をすくめてみせる。
「とぼけてんじゃねぇぞ、あの手紙は僕が書いたんだから、内容を知る権利があるだろ」
「もらった側にその内容についての権利はあると思うね」
済ましているその鼻先に、氷をぶつけてやろうかと一瞬本気で考えた。
その気持ちを押さえつけるべく、荒い息を吐いていると、親友は突然真顔になっていった。
「これはな、本当にお前の名誉のことを思っていってるんだって。マジで」
「お前に、名誉とか尊重されたくない」
ああそうかよ、と軽く流して、親友はそれっきりそのことについては答えようとしなかった。
積もる話も尽きたところで、僕たちは店を後にした。
すでに外は暗くなり、僕達が店の中で費やした時間の長さを感じさせる。
別れる直前、親友が手を上げてぼそりとつぶいやいた。
「そうそう、あの手紙だけどさ」
「なんだ!」
反射的に反応する。
それを待ってましたとばかりに親友は意地悪げな笑みを浮かべ、たっぷりと間をとってから、あの余裕ぶった声でいった。
「いまは一応、衝撃的な告白だった、とだけいっておこうかな」
「はあ? どういう意味だよ?」
それには答えず、親友は背を向けて歩き出す。
その背中を見送ってから、僕も帰路についた。
――そういえば。
封印された引き出しは、あれ以来、怖くて開けたことがない。
〈Fin〉
拙い作品をここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
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