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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

月夜の宴

作者: ピエロの涙

 静かな夜だった。

 僕は病室のベッドに重たい体を縫いとめられている。病院のベッドマットは固くて、しかもシーツは消毒液臭い。勿論目を和ませてくれるような観葉植物も絵画もなくて、ただ殺風景な空間に僕は閉じ込められている。誤解のないように告げておくが、僕は決して病人ではない。そりゃあひと月前はこの病院で風邪と診断されて入院することになったが、それでも熱は3日で引いたし咳やハナが出ることだってない。だというのにこうして僕の両手足に鎖が巻きつけられているのは、この点滴のせいに他ならないと僕は踏んでいる。退院かなと思った矢先に、院長先生はにこにこ笑いながら僕の腕に管を取り付けた。なんでも新薬を試してみるとか言っているけど、それって治りかけの患者に必要なことだろうか。でも僕の意見なんか最初から聞く気もないみたいで、僕はあえなく退院の機会を逃してしまった。

 それからというもの僕は意識を保つのがだんだんと苦しくなってしまった。めまいや貧血は当たり前。とにかく眠りたい、そんな衝動に駆られて起きている時間がどんどん短くなった。特に体に絡みつくように甘い匂いのする花が飾られるようになってからは一層ひどくなった。流石にこれはヤバいと僕は思った。

 僕だってうかうかこの状況に甘んじていたわけじゃない。一度だけ点滴のチューブを無理やり取って、窓を換気したことがある。とても清々しかったという印象は今でも強く残っている。

 だけど気づいたら僕は看護婦の喉をガラスの花瓶の破片で掻っ切っていて、病室が血まみれになった。どうやら薬をやめたら手がつけられないほど興奮して、凶暴になるらしい。結局僕は麻酔銃によって強制的に眠らされ、鎖で強制的にベッドに繋がれた。こんな窮屈な世界でまた暮らすだなんて。その時の銃が実弾だったらよかったのにと悔しく思ったことは言うまでもない。

 さらに難点は、この病院は町の盛り場のすぐそばに作られているので、やたら騒がしいことだ。いつも酒場から漏れる笑い声とか、娼婦の母を持つ赤子の泣き声とかそんなもので溢れかえっている。それはいっそ暴力的で、いくら両手で耳を押さえてもまるで脳みその奥を殴られたみたいに、色んな音が響いて気持ち悪かったんだ。

 それなのにどうしたことだろう。今は虫の音も、風の音も、人々の喧騒も聞こえない。ただ、あまりに慣れてしまった殺戮の悲鳴や、銃声しかしなくて――この病院は病死以外でも人殺しがとても多い――、それはもはや耳に感じない。だから、今夜は不気味なくらいに静かな夜。

 こんなに夜が静かだと感じるのはいつぶりだろう。先週か、先月か、去年かそれよりもっともっと前か。時間の感覚なんてとうの昔になくしてしまって、僕にはもうわからない。朦朧とした意識の世界では時間の観念だなんてもうどうだっていいのかもしれない。

 ふと格子窓の外を見る。それはあまりに高い所にあって地上のリアルを映すことはめったにないが、今日に限って僕の眼はそこから離せなくなった。

 月が見えたのだ。紅く不思議なくらいに大きな満月があたりを照らしていた。

 まるで紅い光が全ての色を飲み込んでいるようで、自分もまたそれに喰われてしまいそうだった。でもそこから目をそらすことなんて出来なくて、妖しいまでに美しいそれにただただ魅入られたように見つめていた。その色は僕の中にある何かを突き動かす。何かが始まる予感で心がざわざわ揺れた。

 僕は細く血管の浮き上がる手を鉄格子越しの月に伸ばす。手にかかる鎖がじゃらりと鳴った。


 それから僕は外を歩いていた。

 どうやって出たのかも、どの道を歩いているのかも覚えていない。あの部屋には鉄格子がはまっていたし、恐ろしい看守――麻酔銃を持って入口を固める男たちを僕は看護師とは呼ばない――の目もあるはずなのに。でも僕の記憶はそこだけ都合よく抜き取られていて、ただぬるりとした赤い血がべったりついている手を不思議に見つめた。

 やはり外は異様に静かだった。赤や黄色など色鮮やかな衣装に身を包んで路地裏に引っ張り込もうとする女も、道端で嘔吐する男もいない。ただ道の真ん中でカラスが死体をついばみ、酒樽から血が滴るだけ。どうやら人殺しの時間も終わってしまったらしい。僕はただひたすら月の音楽に手を引かれて歩を進める。鈴の音がしゃらしゃらと鳴り、月が静かに謳う。僕の病弱なまでに白い手に巻きついた鎖もそれにあわせてじゃらじゃら奏でる。自分もこの音楽に参加していることが嬉しかった。

 ひさしぶりに聴いた音楽だった。

 澄み切った音が耳に心地よく、鉄格子の中で留まっているのが億劫だったのだと、僕は今になって漸く気付く。何の彩りも、感情もない鉄格子の世界。そこから解放されたことの喜びをかみしめ、胸一杯に大きく息を吸う。錆びた鉄のような匂いが濃厚だった。

 そしてよく目を凝らすと路地の真ん中に小さな黒猫が座っていた。おそらく返り血で赤く染まった視界の中で黒猫は上品に佇み、僕をじっと見上げていた。僕は自分に向けられた興味がうれしくなって黒猫のもとへ走る。すると黒猫は首に付けた鈴を鳴らしながらすぐ側の路地に入ってしまう。僕は見失ってしまうのではないかと焦ってスピードを上げるが、意外にも黒猫はまた曲がった先の路地の真ん中で立ち止まり、僕の姿を確認してから先へ進んだ。

 まるで僕を道案内しているようだった。

 導かれるままに進むと、小さな広間があった。そこには石畳が敷き詰められていて、無人のベンチが並べられている。隅には小さな水のみ場があった。黒猫はしなやかに体を丸めて、そこに溜まった水をなめている。そこからの月の景色は見事なもので、連なる屋根よりももっと高い所にある紅い輝きは暗闇によく映えていた。そしてその月のちょうど真下、広場の中央では一人の少女が踊っていた。どこから集めてきたのだろう、無数の死体を積み重ねて作った舞台の上で、少女は手に持った鈴を鳴らしてリズムを取る。黒く長い髪を宙に流し、白いワンピースや白の脛を血や体液で汚しながら軽やかにステップを踏む。その踊りはワルツでもないし、ジャズでもない。見たこともない動き――それでも不思議に惹きつけられる――で少女は心の底から楽しそうに踊っている。僕はその美しさに見とれてしまった。夜風にワンピースの裾が舞い、月の光に彼女の白い肌はほんのりと照らされていた。時折飛び散る血しぶきも彼女の美しさを際立たせるものでしかない。

 僕の不躾なまでの視線に気づいたのだろう、彼女は僕のほうを無表情に見下ろした。それまでの愉悦に満ちた表情とは打って変わって、そこには何の感情も読み取ることができなかった。僕は嫌われたのはではないかと内心で焦る。それでも少女から目を離すことだけはどうしてもできなかった。

 ところがやがて少女はゆっくりと口角を上げて眼を細めた。一瞬おいて少女が僕に向かって微笑んだのだという事実に気がつく。僕は顔が熱くなり、どうしていいのかわからなくなった。その妖しいまでの笑みに僕はとりつかれてしまう。逃げられない。いや、逃げたくない。

――こっちにおいでよ

 少女の口はあどけなく動き、小さく空気を振るわせた。

――一緒に踊ろうよ

 少女は軽く飛び跳ねながら、すこし大きめのステップを踏む。長い両腕がしなやかに夜風を切るように舞う。それは弧を描き、或いは蝶のようにひらひらと美しい形だった。僕を歓迎するかのように、次第に踊りは大仰なものになった。少女は血しぶきをあげて舞台の上で体をしなやかに伸ばし、飛び跳ねる。鈴の音はだんだんと大きくなり、月もここぞとばかりに光を放つ。

 その紅に包まれた世界の美しいこと。

 僕は死体の頭に手をかけて、その小高い丘をのぼる。あの美しい少女が僕を待っていてくれる、僕を必要としてくれている、そのことが嬉しくて僕は夢中になって這い上がった。長い黒髪をつかんで、うつろに見開く眼と目もあわせず、柔らかな腹を踏み台にした。ぶしゅり、と肉の弾ける音がした。

――いらっしゃい

 少女は僕と目を合わせて言った。この時になって漸く気付く。少女の瞳は今日の月と同じ綺麗な紅だったのだ。僕があんなにも魅せられ、憧れた紅がこんなに近くにあるなんて。僕は少女に向けて恐る恐る手を伸ばす。少女は一瞬きょとんと目を丸くして、それからゆっくり僕の手を取った。人の手が温かいと感じたのはいつ以来だろう。

 やがて少女はふわりと柔らかく微笑んだ。春に一番に咲いた花を見つけたら、きっとこんな表情を見せるのだろう。生まれたばかりの子猫が目を開けるのを見たときにも、きっとこんな表情を見せるのだろう。無邪気に、あどけなく、ちいさな笑いをこぼすのだろう。

 その手に握った白刃を振り下ろしながら、少女は愉しそうに笑っていた。

 


 静かな夜。ただ月だけが厳かに鎮魂を謳い、黒猫は水飲み場の下で眠る。猫は夢の中で、僕は彼女の下で月の歌にあわせて、彼女と共に踊る。僕は、僕だけの世界を手に入れた。



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