やりなおし
浴槽の中で手塚は徐々に水位が上がっていくのを愕然と見ていた。縛られた手足を捩るがガムテープが解ける気配はない。水というものにここまでの恐怖を抱いたのは始めてだった。いまはまだ尻までの透き通った水はそのうち手塚の首を頭まで呑み込んで殺してしまう。ジャブジャブと蛇口から振ってくる音が疎ましい。
ここまでの恐怖を味わうような真似を自分はしただろうか?
手塚は自分のしたことを思い返してみる。なんてことはない。知り合いから紹介して貰った女を一度抱いて、それきりにしていただけだ。そんなことはいままで何度もあったし、特別悪いことだとでも思っていなかった。水位が上がるにつれて水音が耳に近づく。気が狂いそうだ。いや、いっそ狂いたかった。とてもではないが耐えられるものではない。死にたくない。いや、死にたい。殺してくれ。殺されるのは嫌だ。禅問答のように頭の中で繰り返すが解決策など浮かんでくるはずがなかった。手塚は深く息を吐こうとしたが口に貼られたガムテープに邪魔をされてそれすらできなかった。
手塚が女を一度で振った理由は単純で、その女の容姿があまりよくなかったからだ。たまにはこんな女もいいかと気まぐれで落としたが、一度抱いてしまうともう興味を失くした。女は処女だった。奪われた、だとか妙な勘違いを起こしたのだろうか? ベッドに誘うと頬を赤くして頷いた女を思い出して手塚は吐き気を催した。手塚はもう女の名前を覚えていない。そういえば苗字が手塚の知っているやつと同じだった気がする。
ああ、誰か助けてくれ。目を閉じて一心不乱にそればかりを考える。いつもはボーっと過ごしていたのにいまさらになってやりたいことがいくつも浮かんでくる。友人たちとバイクで走りに行きたい。高校の連中とまたバカをやりたい。友人が連れてきた茶髪の女、あれを落としたい。いい女だった。全然出ていなかった講義にも顔を出そうか、いま思えばあの場所だってそんなに悪いもんじゃなかった。なんであんなに忌み嫌っていたんだろう。そのうち涙が出てきた。水滴が顎まできた水に吸い込まれて同化する。
ジャブジャブジャブ。
水音が耳に迫る。もう何も考えられなかった。
助けて助けて助けて助けて。
ガムテープに塞がれた口がモガモガと無様に動くだけだった。水が口元を覆った。テープの隙間から少しずつ水が入り込んでくる。あと一分もすれば鼻が水中に沈む。手塚は失禁した。皮肉にもそれが水かさを増やした。
死ぬ。
手塚がまさにそう思ったとき奇跡が起きた。水音が止まった。代わりに排水溝に水が吸い込まれる。咳き込むがガムテープが邪魔をしてそれも満足にできない。大丈夫ですか?、頭上で誰かが言うのと同時に、べリッ、口から糊が剥がれた。
「すいません姉がとんでもないことを……」
いまだけはそんなことはどうでもよかった。手塚は自分が生きていることの喜びで一杯だった。咳をして水を吐き出した手塚はとりあえず礼を言おうとまだ何かを話している男の顔を見た。男と目が合った。あっ…… と二人は同時に硬直した。
「吉……、田?」
手塚が呟く。吉田明人は高校時代の同級生だ。まさかこんな形でまた会うことになるとは思っていなかった。排水溝に残った最後の水が吸い込まれる。
吉田の手が排水溝に伸びた。手塚が指先を目で追う。吉田の手は排水溝の栓をしっかりと閉めなおしていた。
「なあおい吉田、お前何してんだよ!? さっさとこれ解いてくれよなあ! 見ればわかるだろ? 縛られてんだよ。助けてくれよ、なあ吉田! あのときのことは謝るからさあ」
「謝って欲しくなんかない!」
吉田が大きな声を出した。それは手塚の知る彼のものとあまりに違っていた。
「ふざけるなよ、あんたが僕にしたことは謝って済むようなことじゃないんだ!」
吉田は鬘を取った。頭部全体に広がる火傷のあと。過去、手塚やその仲間が彼にガソリンをかけて火をつけた痕跡だ。
「これのせいで僕がどんな目にあってるかわかるか!? どこへ行っても哀れむような白い目で見られて気味悪がられる。アルバイトも探せやしない。人生はやり直しが効かないんだ。それなのにいまさら『謝る』? ふざけるな……」
吉田は蛇口を捻った。手塚は叫んだが吉田は何の反応もせずに彼に背を向けて風呂場を出て行った。
ジャブジャブという水の音だけが手塚の耳に響いた。