悪魔と踊れ
人でにぎわうメインストリートから一本入った道に、人垣ができていた。中の様子を一目見ようと押し合う人々の視界を遮っているのは、制服姿の町警察の広い肩だ。
「ねぇ、何があったの?」
美しい娘が、野次馬に後ろからぐいぐいと押されて眉をしかめながら、町警察の一人に尋ねた。
「またあんたか。前も言ったように、お嬢ちゃんみたいな若い女の子が見るものじゃないんだよ」
再び背後からドンと押された拍子に、ウェーブのかかった金髪がほつれて小作りな顔に落ちた。それを手でかきあげて、娘はいらいらした表情で警察を見上げた。
「いいから教えてちょうだい」
その真剣な表情に、男はふっと眉尻を下げ不憫そうに娘を見下ろした。その視線の意味に気がついた娘は、撥ね退けるようにギッと睨み返し、その場を立ち去った。
「誰だい?」
隣にいた同僚が男に話しかけた。
「銀細工師の娘だよ。この一連の殺人の発端になった、一年前の事件の‥‥」
同僚は納得したように、
「あぁ‥‥なるほどね」
呟き、同じように憐憫のこもった視線を、遠ざかる娘の背中に投げかけるのだった。
人種入り混じる、世界の中心都市。
金融、医療、芸術‥‥すべてにおいて最先端を行く。
この都市では、何もかもがそろっている。
ここで手に入らないならば、世界のどこへ行っても手にいれることはできないといわれている。
一年前から世間をにぎわしている事件がある。
連続猟奇殺人事件だ。
遺体はきれいに飾り立てられたりした姿で発見される。
被害者に共通するのは、巷でもよく知られている美しい青年だということだ。
つい今朝、5人目の被害者となったのは、2週間から行方不明になっていた噂の旅芸人だった。
外傷はほとんどなく、本人の持ち物ではない派手な服を着せられて路上に放置されていたという。
そして被害者には決まって、身体のどこかに見たこともない紋様が刻みつけられている。
囁かれる。
この不気味な一連の事件。
次の犠牲者は、一体誰か―――。
「マスター、リンゴ酒をちょうだいな」
バーに向かった娘は、カウンターに背を付けて、グラスを唇につけながら店内を見回した。
一日の仕事を終えた男たちがエールのジョッキを交わし、真っ赤な顔で怒鳴るように笑い合う。給仕の娘たちが人の間を縫って歩きまわり、ときどき尻をなでられては婀娜っぽい目で形だけ叱りつける。
いつもと同じ光景に娘がため息をもらしかけたとき、何やら客や給仕の娘たちがそわそわしているのに気がついた。
ちらちらと視線が投げかけられる方向に目を向けた。
娘は思わずほくそ笑んだ。
―――当たりだ。
丸テーブルに一人座る黒髪の男がいた。
長い前髪で表情は隠れているが、形いい頭や肩につながる首のラインが美しい。
最近噂になっている美形の男に違いない。
カウンターの近くでは、給仕の娘たちが誰が料理を運ぶかで争っていた。
給仕役を勝ち取った娘が、ワンピースの胸元をぐいっと下げて肌の面積を広くしている隙に、娘はリンゴ酒を持っていない方の手で素早く料理の皿を奪い取った。
給仕が何か言いだすよりも先に、男の前に料理の皿を置いた。
「進んでいないね」
男が顔を上げて、金髪の娘を見上げた。
露わになった瞳と目が合って、娘の背筋に悪寒が這った。
漆黒の髪の下に、溶けた飴のようなアンバーの瞳。
鳥肌が立つほどの美貌だ。
「誰?」
気がなさそうに問う声に、娘ははっと我にかえって、
「座っていいかい?」
相手の返事を聞く前に、青年のななめ前の椅子に腰をかけた。
問うようなアンバーの視線を無視して、娘はグラスを少し掲げて乾杯をするような仕草をし、ちびちびとリンゴ酒を飲み始めた。
男は不審そうな目でちらちらと娘を見たが、何も言わずに料理を口に運んだ。
それをいいことに、娘は美貌の男を観察した。
この血と文化の入り混じった都市で生まれ育ったことで、たいていの人間を見れば、どことどこの混血か、どんな身分か、またどんな文化を持っているのかを見分けられる自信があった。
しかしこの青年は、娘が知っているどの分類にも分けられなかった。
新月の夜闇のような黒髪は痛んでおらず、半袖からむき出しの浅黒い腕はなめし革のようにぴんと張っている。
清潔な身なりに対して、服装は町人に一般的な麻の服。
身分を隠して町に降りてきた身分の高い人物だろうかとも思ったが、何かが違うと娘に訴えていた。
自分の美しさに無頓着な様子や、ぶっきらぼうな返事から、彼が普段から人に傅かれて生活しているようには見えなかった。
それに―――、
「無防備だね、あんた」
首を軽く傾げた男の耳にある大粒のピアスを指差して、声を潜めた。
「あたしはこれでも目利きなんだ。それ、本物のダイヤだろ?あんたの故郷じゃどうか知らないが、そんなものを見せびらかしてこの町を歩くだなんて、襲ってくださいって言ってるようなもんだよ」
「あぁ、これ」
なんでもなさそうに、男は軽く指で耳たぶを弾いた。
「もらったんだ」
それきり興味をなくしたように食事を再開した。
取り付く島もない様子に、回りくどい方法をとることを諦めた。
「あんたほどキレイなら、いろんな奴に声をかけられるだろう?」
青年は肩をすくめて返事にかえた。
「その中に怪しいやつはいなかったかい?特にしつこい奴だとか、ストーカーみたいな奴だとか‥‥」
口の中のものを呑みこんで、青年が口を開いた。
「それって、もしかして今朝の事件のことを言ってるの?」
「そうさ。今回で5人目だ。6人目は誰かって話でもちきりさ」
「俺が狙われてるって?」
「今までの犠牲者は、町で評判の美形ばかり。そして、あたしはものすごい美形がたまにこのバーにやってくるって噂で聞いて、あんたが来るのを待ってたわけ」
アンバーの瞳をくるりと回してから、青年は面白がっているような目で娘を観察した。
「待ってた?俺を?」
唇の片方の端をクッと釣り上げた瞬間、青年の雰囲気が激変した。
どこか芯のなかった曖昧な雰囲気から一変、強烈に目を奪う艶やかな雰囲気へ。
赤味を帯びた金色の瞳に反射する光が、焔のようにゆらゆらと揺らめいている。
娘は呪縛されたかのように身動きがとれなくなった。
さっき口にした言葉を訂正したくなった。
心配すべきはダイヤのピアスなどではない。もっとも価値があるのは、この男自身だ。
「そこまでするだなんて、普通じゃないね。何かあるのかな、あなたは、この事件に」
誘うように囁かれ、娘は何も考えられなくなり思わず口を開きかけた。
そのとき店内でどなり声が聞こえ、我に返った。
隣のテーブルで酔った客たちのケンカが始まったようだ。
男は興が殺がれたらしく再びぼやけた雰囲気に戻ってしまった。
一瞬空気が変わったように見えたのは気のせいだったのだろうか。
娘は気を取り直して尋ねた。
「言ったら協力してくれるかい?」
男は何も答えずに、ななめ下の床の一点をぼんやりと見つめている。
すでに食事は終わっていて、男が席を立って店を出てしまうのは時間の問題だ。
無言の時間が流れた。
「俺、これから毎日ここに来ようかな」
唐突に、男がこぼした。
「あなたも来れば?俺に何かあれば、すぐに分かるよ」
こうして二人は、毎日バーで会った。
同じテーブルで食事をして、その日あったことを話した。
話すのは専ら娘で、男は相変わらず何者か分からなかったが、それでもよかった。
バーの前で待ち合わせて、バーの前で別れる。
ときには別の食事処へ行くこともあった。
「今回の旅芸人は盲点だった。前回のときは、ある程度誰が狙われるか予想ができたんだ。医者の一人息子だった。あんたと同じように会いに行ったよ。でも駄目だった」
杯を傾けながら娘は独り言のように語った。
こういうとき、男は口を挟まずに黙っている。
聞いているか聞いていないか分からなかったが、娘にはそれが心地よかった。
「そりゃそうだよね。誰も自分が次に殺されるかもしれないって聞いてうれしいわけがない」
やりきれない表情。
もし強引にでも会っていたら、もし警察にあらかじめ言っておいたら‥‥。
意味のない仮定を繰り返す。
「門前払いされて会えないでいるうちに、行方不明になって‥‥約1カ月後だったかな‥‥路上で見つかったのは‥‥」
娘を物思いから覚ましたのは、コツコツと男が人差し指で机を叩く音だった。
「他人でしょう?どうしてそこまで」
娘は一瞬呼吸を止めて、深く息を吸い込んだ。
何度か深呼吸を繰り返してから、口を開いた。
「あたしの、知っている男が、ぎ、犠牲になったんだ。最初の事件、い、一年前に、殺され‥‥あたしの、おと、弟‥が‥‥っ」
娘は両手で口を覆い、がくがくと震えだした。
なんとか震えを抑えようと、娘はイラついたように机に手を叩きつけた。
「なんでっ!もう平気だと思っていたのに!」
男は娘の背をさすった。
動揺している娘をこれ以上他の客にさらすわけにはいかないと思ったのか、娘を促して外に出た。
「いい子だったのよ‥‥父の跡を、銀細工師の工房を継ぐ勉強だって、真面目にやって‥‥材料費は自分で稼ぐんだって、モデルで小遣い稼ぎまでして‥‥」
「うん‥‥うん」
たくましい腕に支えられて道を歩きながら、娘は安心感に包まれていた。
男性とはこんなにも頼りになるものなのか。
見た目ではそんなに違いはないように見えるが、実際に触れてみると女性とは違い固く張り詰めているのが分かる。
固くたくましく―――柔らかく頼りない女性とは大違いだ。
アルコールと涙で朦朧とした頭で、娘は生まれて初めて男性というものを感じていた。
その夜、娘は夢を見た。
淫らな夢だ。
娘の白い肌に浅黒い肌が絡みつき、圧倒的な力で細い腕や足を押さえつける。
娘は身をくねらせながら、引き締まった肌にその身をこすりつける。
甘く淫靡で、お互いの荒い吐息だけが耳に残る―――。
朝目が覚めてからも、感触や体温や汗が肌の上に残っている気がするほど生々しい夢だった。
確かめてみれば、やはり下着が濡れていた。
娘はすでに嫁に行っていてもおかしくない年齢。
こういうことがあるのも理解していたので特にうろたえることはなかったが、相手があの男だということに罰の悪さがあった。
さらに、目が覚めた場所が場所だった。
今娘がいるのは、いつも寝起きする自分のベッドではない。
おぼろげながら覚えているのは、しゃべるだけしゃべって満足して眠くなった娘を、男がなんとかベッドまで運び、ドアを閉めて部屋から出ていったところまでだ。
ここはあの男の部屋なのだろう。
「何してんだ、あたし‥‥」
娘は思わずシーツに突っ伏した。
昨夜はとんだ醜態をさらしてしまった。
顔を合わせるのは気まずいが、いつまでもこのままというわけにはいかない。
娘はベッドから足をおろして、周囲を見回した。
人が暮らしているとは思えないほど、殺風景な部屋だ。
あまりに生活臭のない男を思い浮かべ、妙に納得してしまった。
とりあえず部屋から出ようと出口に向かい、ドアノブに触れようとしたちょうどそのとき、ドアが開いた。
「起きたね」
「ああ‥‥」
男がすっと手を伸ばし、娘の髪に触れた。
硬直する娘に男は、
「寝ぐせ」
と言って髪をなでつけた。
娘はとっさに反応することができなかった。
昨夜に比べて、なぜか男との距離感が縮まっている気がする。
夢と現実を混同してしまいそうだ。
実はあの夢は、本当にあったことではないだろうか。
「ここどこか分からないでしょう。大通りまで送っていくから、支度ができたら教えて」
「わ、わかった」
恥ずかしくて相手に聞くこともできない娘は、一人悶々と考えたのだった。
二人は無言で歩いた。
まだ日の昇り切っていない時間。
まだ辺りは薄暗く、人もまばらだ。
もう少し時間が経てば、道は人でいっぱいになるだろう。
娘は隣を歩く男の横顔をちらりと見上げた。
普段は外に出ない時間に二人でぶらぶらと歩くことは、とても特別なことに思えた。
娘は視線をそらし、そこにあるものを見つけて足を止めた。
「どうしたの?」
男も立ち止って振り返った。
娘の視線の先には、木の板の看板があった。
「あのポスター、前は違う人が描かれていたんだ」
娘は暗い声で呟いた。
今描かれているのは、煙のくすぶる煙草を手にしたハンサムな男だ。
「以前描かれていたのは、4人目の被害者だったのさ」
娘はぶるりと一度身震いをして、再び歩き出した。
「ねぇ、あなたがこれ以上被害者を出さないようにしてるのは分かったけどさ、いつまでこんなことを続けるの?自分の幸せは考えないの?」
男が隣に並んで尋ねた。
「犯人が捕まるまでだよ。そうすれば、あたしは普通の女に戻るのさ。普通に恋をして、結婚して、子どもを持ちたい。自分の家庭が欲しいんだ‥‥」
娘がはにかんだように笑った。
いつものように待ち合わせ場所に到着した娘は、男が一人でないことに気がついた。
背が高く痩せていて、全体的にひょろ長い男に話しかけられている。
白髪の混じり始めた長い髪をひとつでくくったその男は、何事か熱心に男に向かって語っていた。
対する男は興味なさそうにななめ下の地面を見ている。
男の美しさに目をつけた、そういう趣味の男だろうかと娘は訝しんだ。
何かあれば助けに入るつもりで、しばらく遠くから様子をうかがった。
しかし娘の心配はき憂に終わり、怪しげな男は最後にぎゅっと美貌の青年の手を握って去って行った。
「モテるねぇ、ナンパ?」
にやにやしながら近づくと、男は小首を傾げた。
「仕事しないかって。モデルだって」
「んん、この辺りじゃスカウトなんて珍しくもないけど、さっきの男はちょっとどうかね。あんなのと二人っきりにされたらなんか危な―――」
娘は言葉を不自然に切り、表情を凍らせた。
「モデル‥‥」
「どうしたの?」
「そうだよ、モデルっていう共通点がある。4人目とあたしの弟に。どうして気がつかなかったんだろう。他の被害者も、評判の美男だっていうならモデルをしていてもおかしくない」
次の日から、娘はさっそく被害者の知り合いに会いに行った。
「あぁ、そういえばモデルのバイトを始めたって言っていたな」
質問してみると、あっさりと答えが返ってきた。
娘の予想通り、2人目の被害者も3人目の被害者もモデルの仕事をしていた。
そこから導き出される怪しい人物は、旧市街地の一角に工房を構える人形師だった。
その地区は腕を見込まれて他の地域から移住してきた職人たちがかたまっている職人街で、娘の家とは意外なほど近所だ。
娘は男に相談するために、いつもの待ち合わせ場所へと向かった。
しかし、いつまで待っても男はやって来ない。
嫌な予感がして、男の家への道をたどった。
歩いて20分ほどの距離、斜面に並んだ一般的な家々の一つが、男が住んでいる家だ。
どんどんと扉をノックした。
返事がない。
ノブを回して押してみると、ガチャガチャと鍵がかかっている音がする。
娘は身を翻して、人形師の工房へと走った。
娘は工房の前に立った。
人通りはない。
工房の表の明かりは消えていた。
家の裏手に回り、入れるところがないか探した。
建てつけの悪い窓を外して、娘は家の中に忍び込んだ。
徐々に視界が慣れてきて、暗闇の中にある物が分かるようになってきた。
そこにはたくさんの人形たちが無造作に転がされていた。
どれも青年くらいの年齢の整った顔の男の人形ばかりだ。
被害者と同じように、と娘は心の中で呟いた。
慎重に家の中を回り、明かりが漏れている扉を見つけた。
耳をつけると、中から男の声が一人分、何事か話している声が聞こえた。
ドアの隙間から中の様子を窺う。
ろうそくの明かりに照らされて浮かび上がるのは、白いシーツを被せられた台の上で横たわる人影。
そして娘に背を向ける格好で台の前に立ちぶつぶつと独り言を言っている細長い男は、美貌の青年にモデルの話を持ちかけていた男だ。
よく見れば、シーツの上で眠るように瞳を閉じているのは、あの黒髪の青年だった。
「何してる!!」
娘は思わず叫び、ドアを勢いよく開けた。
人形師はびくりと身体をすくませて、部屋の奥へと飛び込んだ。
そのまま走り去る音が聞こえた。
娘は台に走り寄り、青年の顔を覗き込んだ。
精巧な人形のような顔は青ざめているように見える。
「あんた、大丈夫かい」
勢いよく揺さぶると、うっすらとアンバーの瞳が現れた。
ぼんやりとしていた焦点が、娘の顔の上で結ばれた。
「あぁ、来てくれたんだ」
「何をのんきなことを‥‥危ないところだったんだよ」
青年は上半身を起こした。
「心配してくれたんだ。俺をエサにして犯人をおびき出そうとしてるわけじゃなかったんだね」
「当たり前だ!」
娘は憤然と言い返した。
人形師が逃げた奥の扉は、地下室への階段に続いていた。
追うか、と目で問いかけた男に、娘は頷いた。
二人で地下へ下りた。
一つひとつの部屋を開けていく。
いくつかの部屋を開けたあと、ある部屋の中を見て娘が動きを止めた。
娘の肩ごしに、男も中を覗いた。
机や椅子が部屋の隅へ寄せられていて、中央には何も置いていなかった。
代わりに、床には大きな円とその内側に円に添うように奇妙な文字らしきもの、そしてそのさらに内側には何かの法則に従って描かれたと思われる紋様が描かれている。
部屋の隅に置かれた机の上には本が山と置かれ、何のために使うのか分からない怪しげな道具が載せてあった。
足を踏み出せない娘の脇を通り過ぎて、男はためらいもなく部屋の中へ入って行った。
娘はぎこちない足取りで部屋の中へ入り、机の上を見た。
机の隅にはうっすらと埃が積っているのに、本のあたりはきれいなものだ。
どうやら、つい最近も使われているらしい。
床に描かれた円の外側に立った男が言った。
「魔法陣だ。悪魔と契約を交わしたんだよ」
「そんな馬鹿な話‥‥」
男の言葉を鼻で笑いながら、娘の目は机の上の本のタイトル「悪魔学」「悪魔との契約と代償」という文字を追っていた。
そのうちのひとつになぜか目を奪われた。
「魂のありか―魂を移す方法―‥‥?」
「そういうことか」
男は何か納得した様子だ。
「自分が作った人形に自分の魂を移そうとしてたんだね」
人形はまだできてないみたいだけど生贄はそろったみたいだ、と円の中の一部を指差した。
そこには五芒星が描かれていて、五つの鋭角の側にどこかで見たことのある記号が描かれている。
その一つが、弟の遺体に刻まれていた傷と同じだということに気がついた。
娘は魔法陣を消してやろうと足を踏み出そうとしたが、男に止められた。
「危ないよ。もう魔法陣自体は完成してる。うかつに中に入ると呪いを受けるかもしれない」
何か問いかけよう男を見たとき、背後でガタンッと音がした。
振り返ろうとしたら、突然横から突き飛ばされた。
視界の端に、黒髪の男が棒で殴られて倒れるのが見えた。
倒れた男に続いて棒を振りかぶっているのは人形師だ。
男が自分をかばったのだと思うより先に、娘は上段に構えた人形師に思い切り体当たりをする。
よろけた拍子に人形師の手から棒が飛び床に落ちた。
尻もちをついた黒髪の男を背後にかばい、娘は人形師と対峙した。
人形師は様子が変だった。
「グゥ‥グアアァ‥‥」
と唸るばかりで、口からは涎が垂れている。
正気を失っているようにしか見えなかった。
思わずたじろいだ娘の首に人形師の手が絡みついてギリギリと絞めた。
「ぁ‥っぁ!」
人間とは思えない力だった。
娘のつま先が浮いた。
もがきながら、人形師の手に爪を立てたが、力が弱まることはなかった。
人形師は口の中でもごもごと何事か呟いていた。
よく聞いてみると、弟の名前ともう一度殺してやるというような言葉だった。
悔しさに目が眩んだ。
姉弟そろってこんなおとこに殺されてたまるかと思いながらも、すでに意識が朦朧とし始めていた。
そのとき、人形師の目がふと逸れて娘の背後を見た。
ヒッと叫んだ人形師は、突然手を離した。
床に落ちた娘は、喉をひゅうひゅうと鳴らしながら人形師を見上げた。
人形師はどこかを凝視しながら、顔には恐怖の表情を張り付けていた。
その視線の先を見るより先に、人形師を捕えることに真っ先に身体が反応した。
足を払って、うつぶせに倒れた人形師の背を膝で押さえつけ、片手を取ってひねり上げた。
肩で息をしながら、人形師が何を見ていたか気になって視線を上げた。
「はい」
顔を上げた娘の目の前に、ロープが差し出された。
娘は黒髪の男からロープを受け取りながら、結局人形師は何に驚いたのだろうかと首をひねった。
それから娘は、腕を縛られて大人しくなった人形師を引っ張って町警察の詰所に突き出した。
人形師の犯行が立証されたという噂が町を駆け巡った頃、今回の事件の功労者の娘と男は、男の部屋でひっそりと乾杯していた。
娘はグラスを掲げながら、瞳を閉じて弟の魂の平和を祈った。
その横顔を男が見詰めた。
やがてまぶたをそっと開いて、娘が口を開いた。
「これで、すべてが終わった」
犯人の動機や地下にあった怪しげな部屋の謎、弟が殺されたいきさつなど、分からないことはいくらでもある。
それでも、娘は自分が関わるのはここまでだと決めていた。
犯人の心の闇を探るのは、町警察や社会の仕事だ。
自分がしたいことは別にある。
「犯人は捕まった―――これからどうするの?」
男は目をキラキラさせながら、いたずらっぽく尋ねた。
娘はクスッと笑って返した。
「前に言った通りよ。この一年、自分の幸せは考えないようにしていたけど、これからは女としての自分の幸せを探すつもり」
意味を込めた娘の視線を、男は受け止めた。
「ねぇ、俺たちの子どもは、すごくかわいいんだろうね」
薄暗い部屋で、男は娘の耳に囁いた。
夜が更けていく。
ついに娘と男は結ばれた。
後から思い返しても、あの一夜は人生の中で最も特別な時間だったと娘は思う。
愛情が込められていたと自分が勘違いしても無理はない。
二人はとても親密な時間を過ごした。男はとても優しく、丁寧で‥‥。
あの瞬間、確かに自分は幸せだった。
たとえ、次に目覚めた朝にすべてが悪夢に変わろうとも。
くすぐったい感覚で目が覚めると、横で男が上半身を起こして娘の髪をすいていた。
照れくさくて身をよじりながら男を見上げたとき、娘の笑顔が固まった。
男は唇の端を歪めて笑っていた。
しかしその笑顔はまるで別人のように見えた。
男はついに本性をあらわした。
今までのぼんやりとした雰囲気はなくなっていて、まるで霧が晴れたかのように相手の顔がはっきりと見えた。
人の領域を超えた美しさと禍々しさだった。
口を開けたままの娘の表情に、男はおかしくてたまらないというように肩を震わせた。
「どうしたの?俺の顔がそんなに珍しい?」
「‥‥‥」
「あぁ、今まで悪魔は見たことがなかったのかな」
「あく‥‥ま」
「そう」
ベッドに縫い付けられたように動くことができない娘の頬を、男は手の甲でなぞった。
「初めて会った時、俺を待っていたと言ったね。逆だよ。俺が、あなたを待っていたんだ。あなたが若く美しい男を探していることは知っていたからね」
あぁそういえば、と男は腕に巻いていた包帯をシュルシュルと外した。
人形師に殴られた部分は、まるでひどい内出血が最初からなかったかのようになめらかな肌を取り戻していた。
「俺はあなたを助け、犯人を捕まえるのを手伝った。さて、この代償は、どうしようか」
悪魔らしい言葉だ。
なんに対しても代償を求める。
「なんてね。もう決まっているんだ」
男は娘の下半身を指差した。
情交のことかと思い、娘はぎょっとして身を引きかけた。
「違う違う。俺がもらったのは、あなたの子ども」
「わたしに子どもはいないわ」
「ついさっき、そこに宿った」
娘は自分のうかつさを呪った。
男は何度も何度も自分の中に種を植えつけていたのに、なぜこんな事態になると気がつかなかったのだろうか。
二人は一緒になるのだから大丈夫だという気持ちがあったのは否めない。
「悪魔の子は人間の力だけでは生まれてこない。悪魔の魔を喰って腹の中で成長する。そうでなければ、母の腹を破って生まれてくる。その子の成長を止めておいたよ。その子が生まれない限り、あなたは自分の子をもつことはできない。成長を止めたその子がずっと腹の中にいるのだから」
高笑いをしながら悪魔が去った後も、娘はぼんやりとシーツの上で横たわっていた。
その右耳には悪魔の残していったダイヤのピアスが光っていた。