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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第五十四話 理を持ち帰る

 天文十六年(一五四七年)六月の初め。


 梅雨に入るにはまだわずかに早い。だが、空気の底にはもう、春の乾きが消えつつあった。


 阿蘇の館では、ここしばらく朝夕を問わず門の方へ目が向けられていた。


 惟豊が発って、二月あまり。


 上方への道は遠い。帰りは早くて六月の初めと見ていたが、早いか遅いかで言えば、こういう時の一日は妙に長い。兵の備えは整え始めている。蒲池と少弐の動きも、もう隠し切れてはいない。名和は寄りつつあり、相良はなお動かぬ。家は回っている。だが、それでも惟豊が館にいるのと、いないのとでは、重しの置かれ方が違った。


 その朝、門前が少しざわめいた。


 足音は乱れていない。だが、早い。


「惟豊様、お戻りにございます!」


 その一声で、館の中の空気がひとつ変わった。


 惟種はすぐに立った。

 宗運も、宗傳も、それに続く。


 門前へ出ると、列はすでに見えていた。


 長道中の土を被ってはいる。だが崩れてはいない。護衛の者らも、疲れは顔にあっても足取りまでは乱していなかった。


 惟豊は馬上にあった。


 痩せて見えた。

 だが、それはやつれたのではなく、都筋で余計なものを削ぎ落として戻ってきた者の顔だった。


 惟種が前へ出る。


「父上」


「うむ」


 惟豊は短く応じ、馬を下りた。


 それだけで、まずは足りた。


 無事に戻った。

 阿蘇の顔が戻った。


 宗運が深く頭を下げる。


「ご無事で何よりにございます」


「軽い道ではなかったがな」


 惟豊はそう言ってから、惟種を見た。


「留守は」


「繋ぎました」


「そうか」


 それで惟豊はうなずいた。


 長く言葉を交わす場ではない。

 まずは館へ入り、手と顔を改め、最低限の休息を入れる。そののち、小座敷が整えられた。


 そこへ座したのは、惟豊、惟種、宗運、宗傳、そして鍋島清房。


 留守のうちに肥前筋の情報を最も深く持つようになった清房は、もはや呼ばれて当然の位置にいた。


 座が閉じると、惟豊はすぐには本題へ入らなかった。


 まず水を飲み、わずかに息を整えてから、低く言った。


「持ち帰った」


 それだけで、宗運の背がわずかに正された。


「肥後にございますか」


「うむ」


 惟豊は答える。


「肥後守護の理は、こちらへ寄せた」


 小座敷が、そこで静まり返った。


 惟種は何も言わない。

 宗運も、宗傳も、ただ次の言葉を待つ。


「そして」


 惟豊は続けた。


「筑後もだ」


 今度は、宗運がほんのわずかに息を呑んだ。


「筑後守護、にございますか」


「そうだ」


 惟豊の声は低い。

 だが、一言ごとの重みは十分だった。


「名目だけではない。文にも、口にも、こちらが立つ筋を入れた。阿蘇に実があり、蒲池に実がない、とは、もはや軽々しく申せぬ」


 宗傳が、ようやく声を出した。


「……成りましたか」


「成した」


 惟豊は言う。


「ただし、ただではない」


 そこへ来る。

 誰もが分かっていた。


 都筋の理は、空からは降らぬ。

 銭も、物も、顔も、すべている。


「幕府へは」


 惟豊が言う。


「来年、一万疋を約した」


 宗傳が目を伏せる。

 宗運もまた、小さく息を吐いた。


「重うございますな」


「重い」


 惟豊は肯じる。


「さらに朝廷へは、再来年、一万疋を積む」


 今度は小座敷に落ちた静けさそのものが、一段深くなった。


 一万疋。


 ただの祝い金ではない。

 家一つの顔を買う銭であり、下手をすれば来年の蔵を痩せさせるほどの重みである。


 だが、その銭で買ったものもまた、ただの名目ではなかった。


 肥後守護。

 筑後守護。


 阿蘇が問うてよい国の理そのものだ。


 惟種が、そこで初めて口を開いた。


「それで足りますか」


 問いは短かった。


 惟豊は、わずかに目を細めた。


「足る」


「肥前は」


「まだだ」


 そこは即座だった。


「肥前まで欲張れば、理が欲に見える」


 清房が、その言葉を黙って聞いている。


 惟豊は、清房の方へ目を向けた。


「肥前は、いずれ龍造寺が立つ国だ」


 家兼への約が、そこにある。


 清房は静かに頭を下げた。


「ありがたき御言葉にございます」


「今、阿蘇が抱えるための国ではない」


 惟豊は続ける。


「龍造寺を龍造寺として復させる。その果てに、肥前の理はそちらへ返る」


 それで十分だった。


 清房の目は伏せられたままだったが、その沈みには、ただの礼以上のものがあった。


 惟種は父の言葉を聞きながら、小さくうなずいた。


 これで筋はきれいになる。


 肥後は、阿蘇が食わせ、守っている国。

 筑後は、蒲池を削った先で大友の理を剥がす国。

 肥前は、龍造寺再興の果てに返すべき国。


 欲ではなく、順だ。


 宗運が、そこで現実へ戻した。


「蔵は痩せますな」


「痩せる」


 惟豊は言った。


「来年の幕府への一万疋は痛い。再来年の朝廷への一万疋もまた重い」


「はい」


「だが、それで得た理はもっと重い」


 惟豊は、座にいる者たちを見渡した。


「今、阿蘇はもう境目一つの国衆ではない。問うなら、守護として問える」


 それは家の景色を変える一言だった。


 宗傳が、帳面のことを考える顔で言う。


「来年は、市と山と鍛冶から、さらに絞って積まねばなりますまい」


「そうなる」


「民は」


「痩せさせるな」


 惟豊の声は低い。


「積むべきは家の肉だ。骨まで削るな」


 そこが惟豊らしかった。


 理のために銭を積む。

 だが、そのために民を殺す気はない。

 家の太ったぶんを吐いてでも、骨は守る。その線だけは動かさぬ。


 惟種が言った。


「なら、今のうちに順を踏むべきだな」


「うむ」


 惟豊は短く答える。


「守護の理を持ち帰った以上、なお一度だけ問う」


 宗運が顔を上げる。


「蒲池、にございますか」


「そうだ」


 惟豊は言う。


「今度は、ただの隣家としてではない。肥後・筑後守護として、真意を問う」


 その一言で、座の空気がまた締まる。


 蒲池は、もはや「阿蘇と境目を争う筑後の一勢力」では済まぬ。

 守護の理を持つ家から、正面から信を問われる立場に落ちたのだ。


 宗運が、すぐに動いた。


「文を整えます」


「よい」


「口上も持たせますか」


「持たせよ」


 惟豊は答える。


「誤解だ、内を改めておる、などでは済まぬようにな」


 清房がそこで低く言った。


「それでも、蒲池は逃げましょうな」


「逃げるだろう」


 惟種が言った。


「だが、今度は逃げるごとに理を失う」


 その日のうちに、使者が選ばれた。


 軽い者ではない。

 言葉だけでなく、顔にも重みのある者が選ばれる。


 文面は簡潔だった。


 なぜ外で兵を募ったか。

 なぜ少弐筋と通じたか。

 なぜ三家の理を外で曲げたか。

 その真意を、肥後・筑後守護として問う。


 返答次第では、蒲池一家のことだけでは済まぬ。


 そこまで入れた。


 使者は翌朝、発った。


 館の中は、その帰りを待ちながらも、待つだけで済む空気ではない。兵の備えはもう一段早められた。名和へは、こちらの返しがさらに丁寧になる。島津への返書も整え直される。すべてが動いていた。


 そして二日後、門前が騒いだ。


 だが、それは帰還を告げる騒ぎではなかった。


 駆け込んできたのは、使者と同道していた若い者だった。衣は裂け、顔には土と血が混じっている。馬を乗り潰すようにして戻ったのだろう、息も乱れ、膝もすぐには立たなかった。


 宗運が、自ら前へ出た。


「申せ」


 若者は、息を詰まらせながら言った。


「……斬られました」


 その一言で、場の空気が凍る。


「誰がだ」


 宗運の声は低かった。


「使者が……蒲池にて……」


 惟種の目が、そこで動いた。

 惟豊は一言も発しない。


「返書ではございませぬ」


 若者はなおも言う。


「取り次ぐと見せて、奥へ引かれ……そのまま……」


 そこで声が切れた。


 それ以上、言葉はいらない。


 斬ったのだ。


 蒲池は、守護の使を斬った。


 惟豊はしばらく何も言わなかった。

 怒鳴りもしない。

 顔も変えぬ。


 だが、その静けさの方が、かえって重かった。


 宗運が低く言う。


「これで」


「足りた」


 惟豊が言った。


 短い一言だった。


「もう問うことはない」


 惟種は、そこで父を見た。


 惟豊の顔には、都から理を持ち帰った者の硬さがまだ残っている。

 そしてその理を、相手が自らの手で踏みにじったのを見た者の顔でもあった。


「蒲池は」


 惟豊が言う。


「自ら、守護の理を斬った」


 その言葉に、誰も口を挟まない。


 宗運が、すぐに命を下す。


「館内へ触れを」

「番所筋へ急ぎの報せを」

「名和へも」

「島津へも」

「各組へ、ただちに備えを上げよ」


 人が一斉に動く。


 高森惟房はすでに立っていた。

 北里政久は笑みのない顔になっている。

 清房の目は、もう肥前の方角を見ていた。

 家宗もまた、何も言わずに拳を膝の上で固めている。


 惟種は、そこでようやく息を吐いた。


 長かった。


 密談があり、

 密告があり、

 問い、

 待ち、

 都筋へ理を通し、

 なお一度だけ順を踏んだ。


 それでも相手は使者を斬った。


 ならば、もう足りる。


 惟豊が最後に言った。


「ついに、か」


 誰へともなく置かれた言葉だった。

 だが、それがこの家の今を最もよく表していた。


 そして、その日のうちに、さらに別の報せが入った。


 蒲池・少弐、軍を動かす。


 まだ全容は見えぬ。

 だが、もう疑う余地はない。


 それは、これまでの小競り合いではなかった。


 国をかけた本格的な戦いが、いま、始まろうとしていた。

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