第三十二話 豊後の秤
天文十五年(1546年)四月 下旬
府内の春は、阿蘇より柔らかい。
風はぬるみ、庭の木々にはもう薄く若葉が差していた。だが、大友館の評議の座だけは、少しも柔らかくはなかった。
上座にあるのは大友義鑑。
大友義鑑
戦国時代の大友氏第20代当主。豊後を本拠として勢力を広げ、肥後・筑後方面への進出を進めることで、大友家の版図拡大に大きな役割を果たした。将軍家との結びつきも保ち、主家の威勢を高めたが、晩年には家督問題から家中の対立を招いた。
その左右に、臼杵鑑続、吉弘鑑理、入田親誠。
吉弘鑑理
大友氏に仕えた有力重臣であり、「豊後三老」の一人として知られる武将。大友義鑑・宗麟の二代にわたって仕え、筑後・肥後など各地の戦で軍功を重ねた。武勇だけでなく知略にも優れ、政務にも関わって大友家の最盛期を支えた宿将である。
入田親誠
大友氏の一族に連なる武将で、義鑑晩年の後継争いに深く関わった人物。塩市丸擁立に加わって義鎮派と対立し、二階崩れの変では中心人物の一人とみなされた。変後は主家から追われて肥後へ逃れたが、再起を果たせぬまま討たれた。
火鉢はもう要らぬ季だが、代わりに座の空気が熱を持っている。
阿蘇から戻った臼杵の報告をもとに、肥後をどう扱うかを決める場であった。
最初に口を開いたのは義鑑だった。
「申せ」
ただ一言。
だが、それで十分だった。
臼杵鑑続は膝の前に手を置いたまま、静かに答えた。
「阿蘇は、近ごろよく整っております」
入田親誠が鼻で笑うように息を吐く。
「整っておる、か。臼杵殿にしては柔らかい」
「柔らかくはございませぬ」
臼杵は顔色を変えない。
「田は増え、市は育ち、境目は静まり、鍛冶場もよく働いております。しかも、それぞれが別に動いておらぬ。筋としてつながっております」
義鑑は腕を組んだまま問うた。
「阿蘇惟豊がそうしているのか」
「惟豊もおります。宗運もおります。だが、いまの阿蘇の伸びは、それだけではありませぬ」
臼杵はそこで、ほんの一拍だけ置いた。
「若君にございます」
座の空気がわずかに変わった。
鬼童。
その名はすでに豊後にも落ちている。
だが、噂と報告が同じ言葉になると、重さが違う。
吉弘鑑理が低く言った。
「そこまでか」
「はい」
臼杵は短く答える。
「ただの奇を衒う童ではございませぬ。田、市、地を見ており、あれは一介の6つの童では御座いません。まさに鬼童でございます。」
入田が口を挟む。
「童の口に惑わされすぎではないか」
「惑わされてはおりませぬ」
臼杵の声はあくまで平らだった。
「いまならまだ幼い。だが、いまのうちに骨を立てられれば、後には軽く噛めぬ家になりましょう」
義鑑はしばらく黙っていた。
阿蘇。
肥後。
その二つは、大友にとってただの隣ではない。
義鑑は天文十二年に肥後守護となり、肥後を自家の秩序の内に置く理をすでに持っている。阿蘇がそこで独自の筋を立て始めているなら、それは見過ごせぬ。
だが、見過ごせぬことと、いますぐ潰すことは同じではなかった。
「宗運はどう見た」
義鑑がそう問うと、臼杵は少しだけ目を伏せた。
「低う受けました」
「ふむ」
「従っているように見せる手は、まだ崩しておりませぬ。大友の威も立てる。肥後の秩序も軽んじぬと申しました」
そこで臼杵は顔を上げる。
「ですが、そのうえで言いました。阿蘇の地を守る筋は、阿蘇が決めると」
入田の目が険しくなる。
「不遜だな」
「不遜にございます」
臼杵は認めた。
「ですが、露骨な反逆ではない。礼を崩さず、筋だけを押し出して参りました」
吉弘が腕を組んだまま言う。
「宗運らしい」
その言い方には、少しばかり感心が混じっていた。
「下がるところは下がる。だが、地を手放さぬ」
「はい」
臼杵が頷く。
「ゆえに、いまの阿蘇は面倒にございます。頭を下げるだけの家ではない。だが、刃を抜かせるほど浅くもない」
義鑑は、その言葉をしばらく噛んでいた。
府内の座敷に、外の柔らかな春とは違う重たい静けさが落ちる。
先に動いたのは入田だった。
「ならば、いま叩くべきです」
はっきりしている。
「幼い芽は伸びる前に折る。肥後で勝手を許せば、やがて菊池筋も、名和も、相良も、皆あの方を見て動きます」
入田親誠は、義鑑の意を強く押し出す時にためらわない。
「阿蘇が阿蘇の地を守る、などと申すのは、言い換えれば大友の守護威を借りながら、その内で己の国を作るということ。今ならまだ押さえ込めます」
吉弘鑑理がそこで低く返した。
「押さえ込めても、安うは済むまい」
入田がそちらを見る。
吉弘は表情をほとんど動かさない。
「館一つ落とす戦では済まぬ。山も地もある。宗運もいる。若君の名も、もう兵の腹へ落ちている。勝てる勝てぬの話ではなく、どれだけ削られるかの話だ」
「削られては困るほど、いま豊後が脆いと申すか」
「そうは申さぬ」
吉弘の声は静かだった。
「だが、兵も銭も限りはある。肥後で無駄に消すより、もっと効く手があるということです」
義鑑が、そこで初めてはっきりと入田を見た。
「親誠」
「は」
「おぬしは、阿蘇を討って得るものをどう見る」
「肥後秩序の立て直しにございます」
入田はすぐ答えた。
「阿蘇を低く置き、国衆へ大友の威を見せる。それだけでも十分に得です」
「失うものは」
義鑑の問いは静かだ。
だがその静けさが、かえって怖い。
入田は少しだけ間を置いた。
「兵と銭」
「だけか」
入田は答えなかった。
義鑑が何を求めているか、わかっているのだろう。
阿蘇を叩けば、兵と銭だけでは済まぬ。
肥後にいる他の国衆も、こちらの意図を測る。
阿蘇を潰し切れぬ形で終われば、大友の威そのものが傷つく。
義鑑は今度、吉弘へ目を向けた。
「鑑理」
「は」
「軍としてはどう見る」
「今すぐ大戦にする利は薄いかと」
吉弘は迷わず言った。
「臼杵殿の見立て通り、阿蘇は整い始めております。勝っても削られましょう。しかも、向こうは今まさに内を固めている。そこへ正面から叩けば、かえって家中をまとめてやる形にもなります」
入田が舌打ちまではしないまでも、面白くなさそうに顔をわずかに歪める。
「ならば放っておくのか」
「放ってはおかぬ」
吉弘は切り返す。
「だが、刃を入れる前に中を緩める」
そこだ、と義鑑は思ったようだった。
臼杵もまた、その言葉を待っていた顔になる。
「阿蘇は何で立っておる」
義鑑が問う。
臼杵が答えた。
「田、市、鍛冶、山、そして人にございます」
「ならば、そのどれを切ればよい」
「全部を一度には要りませぬ」
今度は吉弘ではなく、臼杵が答えた。
「まずは家中。若君の新しいやり方に馴染めぬ者、宗運の締め付けを嫌う者、境目戦で損をした者。そこを揺らせば、あの家は自ら足を止めます」
入田が、ようやく少し機嫌を直したように言う。
「つまり調略ですな」
「はい」
臼杵は頷いた。
「表では忠節を求める。裏では不満を拾う。島津と近づいたという風聞も流せましょう」
義鑑の目が、そこでわずかに細くなった。
「島津か」
「阿蘇にその気があろうとなかろうと、風聞としては使えます」
臼杵は淡々としている。
「大友の内にあるべき阿蘇が、南へ顔を向け始めた。そう見せれば、肥後の国衆も構えます」
入田が続ける。
「人質、起請文、軍役。外からはそれで締めればよろしいかと」
「うむ」
義鑑はそこでようやく、いまの場の骨を掴んだようだった。
「阿蘇は、いままだ表向きは従う顔をしておる」
「はい」
「ならばその顔は使わせる。
だが中では、従うだけの家ではなくなっている」
「その通りにございます」
臼杵が頭を下げる。
義鑑は少しだけ庭の方へ顔を向けた。
春の光はやわらかい。
だが、その下で各家が何を考えているかは別の話だ。
「肥後は、軽い土地ではない」
誰に言うでもなく呟くように言う。
「菊池を立て、守護を預かり、ようやく秩序を形にした。そこへ阿蘇が己の筋で立ち始めるなら、見ぬわけにもいくまい」
入田が一歩進みかける。
「では」
「まだ討たぬ」
義鑑の一声で、入田の足が止まる。
場が、すうっと静まった。
「今は討たぬ」
義鑑は重ねた。
「だが、放ってもおかぬ」
臼杵と吉弘が、ほぼ同時に頭を下げる。
「阿蘇に圧はかけ続ける。
忠節は確かめる。
人質も起請文も視野に置く。
そして中を割る」
入田の目が少しだけ明るくなる。
それならば、己の役目がある。
「誰を使う」
義鑑が問うと、臼杵は即答した。
「境目衆、商人、流民、旧来の家臣筋にございます」
「不穏分子を拾う筋も必要ですな」
入田が付け足す。
「阿蘇からこぼれる者があれば、使えます」
守昌のような男が、まだこの時点で表に出ているわけではない。
だが、こういう家中の割れを拾う発想は、もう大友側の座にはある。
吉弘は、その流れを受けつつも釘を刺す。
「ただし、やりすぎて阿蘇を一つにするな。追い込みすぎれば、かえって宗運に家中を締められます」
そこは武辺の現実感だった。
「調略は、相手が自分で疑い始めるくらいがよい」
臼杵が小さく頷く。
「まことに」
義鑑は最後に言った。
「阿蘇は、いままさに立とうとしている」
皆が黙って聞く。
「立つ前に折る手もある。
だが今は、まず足元を掘れ。
立ちきれぬよう、土を緩めよ」
それが結論だった。
阿蘇はまだ討たない。
だが、立たせもしない。
外から圧をかけ、内を割り、風聞を流し、逃げる者を拾い、阿蘇が自分の重さでよろめくようにする。
義鑑は立ち上がらなかった。
だが、その場の誰もが、もう評議が終わったことを知っていた。
臼杵鑑続は、阿蘇で見た若君の目を思い出した。
地を見、腹を見、先を見ていた目だ。
(あれは、面倒だ)
そう思う。
だが、面倒な相手だからこそ、大友の座もまた本気で考えねばならない。
府内の春は柔らかい。
けれど、その柔らかさの下で、大友もまた静かに阿蘇を崩す手を選び始めていた。




