第二十九話 冬の評定
天文十五年(一五四六年)二月。
阿蘇の二月は、まだ冬だった。
朝の水は冷たく、吐く息は白い。山の影は長く、館の板敷きからは足の裏を通して冷えが上がってくる。
だが、評定の間だけは別だった。
春になってから考えていたのでは遅い。田をどうするのか、市をどう育てるのか、山をどう使い、人をどこへ回し、銭を何へ使うのか。そのすべてを冬のうちに決めておかなければ、春の動きには間に合わない。
その日、惟種は惟豊の近くへ座っていた。
以前のような末席ではない。かといって、当主である父の横に並ぶわけでもない。
見て、聞き、問われれば答える。
だが、もうただ学ぶだけの席でもなかった。
惟種が始めたものが、増えすぎたからだ。
座には甲斐宗運、田代宗傳、一門衆、在地の有力者が並び、高森惟房、北里政久、光永惟清ら若い者たちは、必要に応じて呼ばれるよう外に控えている。
惟豊が座につくと、ざわめきが収まった。
「始める」
いつも通り、短い。
「昨年の結果と、今年どこへ人と銭を回すかを決める。宗運」
「は」
宗運が帳面と数枚の板を前へ出した。
「まず、田にございます」
その言葉だけで、惟種は少し身を乗り出した。
去年から、水や肥やし、植え方、種の選別、農具、作業の順まで、いくつもの試しを重ねてきた。
一つ一つは、未来から見れば特別なものではない。だが、それらをこの時代の阿蘇でまとめて使った時、どこまで変わるのか。
宗運が板を広げる。
「昨年、若君の仕方を多く入れた試し田と村について、改めてまとめました」
座が静かになった。
「結論から申します。条件の揃った試し田では、前年に比して五割を超える実りを得たところがございます」
「…………」
最初は誰も声を出さなかった。
やがて、一門の一人が聞き返す。
「五割?」
「はい」
「二割ではなく?」
「五割にございます」
今度こそ、座がざわめいた。
惟種も同じだった。
(……本当に五割を超えたのか)
理屈では分かる。
一つだけを変えたのではなく、水回りや肥やし、農具、植え方、作業まで重ねている。元の収量が低ければ、改善幅が大きくなることもある。
それでも、実際に「五割」という数字で聞けば重みが違った。
「ただし」
宗運がすぐに続ける。
「全ての田で五割を取れる、と申しているのではございませぬ。土地、水、肥やし、人手、それぞれ条件が違います」
惟豊が問う。
「なら、全体では」
「まず二割を安定して増やすことを目指します。五割は、あくまで条件がよく揃ったところで出たものとお考えください」
「広げられるか」
「一度に全ては無理にございます」
「理由は」
「人と肥やしと水路。それに、教える者が足りませぬ」
宗運は即答した。
「農具だけ渡せば同じ結果が出る話ではございませぬ。何を、いつ、どれほど使うか。それを村ごとに伝える者が要ります」
「ならば今年も順に広げよ」
「は」
惟豊が頷いた。
そこで惟種は、宗運の顔が妙に晴れないことへ気づいた。
「宗運」
「何でしょう」
「嬉しくないのか?」
「嬉しゅうございますよ」
「そう見えぬ」
「嬉しいから困っております」
「なぜだ」
宗運が小さく息を吐いた。
「五割などという数字を、そのまま外へ出せると思われますか」
「あ」
惟種も気づいた。
「二割ならば、豊作で済ませられます。三割でも、土地が良かった、水が良かった、肥やしが良かったと申せましょう」
「五割なら?」
「調べに来ます」
答えは早かった。
「大友も。菊池も。蒲池も。商人も、近隣の国人も。阿蘇が何をしたのか、探る者が増えます」
「……面倒だな」
「はい」
宗運は心底同意するように頷いた。
「ゆえに、五割という数字そのものは出しませぬ。二割とも三割とも、土地によってはただの豊作だったとも申させます」
「理由も一つにしない?」
「無論にございます」
肥やし、水、農具、火山灰、あるいは阿蘇大明神の加護まで、村によって理由を変える。正しい数字も一つには揃えない。
「輪郭だけ見せて、中までは見せぬ」
惟種が言うと、宗運が頷いた。
「左様にございます」
「頼む」
「簡単に仰いますな」
「頼りにしておる」
「……承知しました」
宗運はそう答えたものの、板を片づけようとはしなかった。
「それと」
「まだあるのか」
「ございます」
宗運の声が少し変わる。
「隠すだけでは、足りませぬ」
惟種が首を傾げた。
「どういうことだ」
「阿蘇が豊かになっていること自体は、隠せぬからです」
市へ来れば人と荷が増えていることは分かるし、玻璃はすでに外へ売っている。鉄もいずれ外へ流れ、田の実りが良くなれば村人の暮らしまで変わる。
「何も変わっておらぬ、と言い張る方が不自然にございます」
「それはそうだな」
「そして」
宗運は少しだけ間を置いた。
「南との糸もございます」
「島津か」
「はい」
日新斎自ら阿蘇へ来て、鉄砲まで置いていった。
今はまだ、ごく限られた者しか詳しく知らない。
だが、いつまでも伏せ切れる話ではない。
「阿蘇が急に太り始めた。その阿蘇へ、島津日新斎殿が自ら来られた」
「…………」
「大友が聞いて、何とも思わぬとお考えで?」
「思わぬわけがないな」
惟種はすぐ答えた。
これまで何度も考えてきた。
阿蘇にとって最大の相手は大友だ。今はその権威と力を認め、下手に出ている以上、正面から敵に回してよい相手ではない。
「島津だけと結んだように見えれば」
宗運が続けた。
「それだけで余計な疑いを招きます」
「なら、どうする」
「使者を出します」
「大友へ?」
「まずは」
宗運は平然と答えた。
「別口にて、菊池へも。蒲池へも。必要と思うところには、それぞれ使いを出しておきましょう」
一門衆の一人が言う。
「何を伝える」
「難しいことは申しませぬ」
宗運は淡々としていた。
「昨年は実りがよかった。市も賑わい始めた。境目の騒ぎも収まった。阿蘇はこれまで通り、近隣との誼を大切にしたい。商いも通したい」
「それだけか」
「それで十分にございます」
惟種は少し考えた。
「先に、敵ではないと伝えるのか」
「左様にございます」
宗運が頷く。
「国が急に太れば、周りは理由を探ります。そこで黙っておれば、何か企んでいると思われる。ならば、こちらから先に口を開く」
「だが、五割も銭の額も、鉄の場所や量も伏せる」
「無論にございます」
「玻璃のように隠せぬものは」
「こちらから見せます」
「贈り物に?」
「はい」
宗運の口元が僅かに動いた。
「作れることを隠せぬのであれば、阿蘇との誼には利があると見せた方がよろしい」
惟種は頷く。
「隠すものは隠す。見せるものはこちらから見せる」
「その方が相手も読みやすい」
「安心する?」
惟種が聞くと、宗運は大友の名を思い浮かべたように少しだけ黙った。
「大友は、安心まではせぬでしょうな」
「……だろうな」
「ですが」
宗運の目が僅かに細くなる。
「少なくとも、阿蘇が今すぐ大友へ刃を向ける気はない。そう思わせておくことには、大きな意味がございます」
「本当に向けるつもりもないしな」
「はい」
そこが大事だった。
嘘ではない。
今の阿蘇は、大友だけでなく、菊池や蒲池とも無用に争っている暇はない。国内を太らせ、人と銭を増やし、兵を整えるだけでも、やるべきことは山ほどある。
「友和か」
惟種が言った。
「はい」
「島津だけではなく」
「島津だけでは困ります」
宗運の答えは早かった。
「なぜだ」
「南とだけ親しくなれば、それを見ている者がございます」
「あ」
惟種はそこで改めて気づいた。
ゲームなら、島津との友好度が上がればそれで終わる。
だが、現実は違う。
島津との距離が縮まれば、それを大友も、菊池も、蒲池も見ている。一つの家との関係を動かせば、別の家の見方まで変わる。
(……外交って、本当に面倒だな)
ボタン一つでは終わらない。
「だから、大友との糸も切らせぬ」
惟種が言った。
「左様にございます」
「菊池も」
「はい」
「蒲池も」
「必要なだけは」
「敵を減らす」
「少し違いますな」
宗運が言った。
「何がだ」
「敵でない者まで、敵にせぬことです」
惟種は黙った。
宗運は続ける。
「こちらが何もせずとも、相手が勝手に警戒することはございます。ならば、警戒させぬための手もこちらから打つ」
「…………」
「国を太らせる時ほど、周りへは笑っておくものにございます」
「……怖い言い方をするな」
「政とは、そのようなものにございます」
惟種は少しだけ顔をしかめた。
だが、宗運の言う通りだった。
強くなる。
ただそれだけでも、周りから見れば警戒する理由になる。
ならば強くなりながら、自分たちは敵ではないとも伝え続けなければならない。
「父上」
惟種が惟豊を見る。
「よろしいですか」
「宗運の申す通りにせよ」
答えは早かった。
「大友へは礼を欠くな」
「はい」
「菊池、蒲池も同じだ」
「はい」
「ただし」
惟豊の目が少し厳しくなる。
「頭を下げることと、腹まで見せることは違う」
惟種は頷いた。
「承知しております」
宗運も頭を下げる。
「使者はこちらで選びます。玻璃ほか、出してよい品も見繕いましょう」
「任せる」
「は」
こうして、外へ漏らす数字をぼかす方針と同時に、外へ向ける笑顔まで決まった。
◇
「次」
惟豊が促した。
「市と銭にございます」
宗運が板を替えると、今度は宗傳も前へ出た。
「門前の市は、すでに定期の市というより、日々の商いへ近づいております。人が増え、荷が増え、商人が留まるようになりました」
一門の一人が眉を上げる。
「役を減らしておるのに、銭になるのか」
「市そのものから取る銭だけを見れば、減ります」
宗運が答えた。
「ですが、商人が増えれば倉を使う。土地を使う。荷を運ぶ。人が住めば飯を食い、家を建て、道具を買う。阿蘇の品も売れます」
税を下げれば、その場の取り分は減る。
だが、商いそのものが何倍にもなれば、結果は逆になる。
惟種が前世では当たり前のように見ていた理屈が、この阿蘇でも形になり始めていた。
「それと」
宗運が続ける。
鉱山、製鉄、鍛冶、玻璃、水飴まで、現在動いているものを順に確認していく。
黒川を軸に山を開き、長陽と永水を追わせる。鉄は鍛冶と製鉄へ回し、農具や工具、金具、武具へ加工する。玻璃は高く売り、水飴は広く売る。
「これらを、市と合わせて一年へ置き直しました」
宗傳が大きな帳面を開いた。
惟種は、何となく嫌な予感がした。
宗運が惟豊へ向き直る。
「まだ全てが本格に動いておるわけではございませぬ。山も製鉄も玻璃も、これからさらに増えます。ゆえに確定した決算ではなく、現在の動きを一年へ置き直した見込みにございます」
「うむ」
「なお、米の実りと年貢は、これには含めておりませぬ」
惟種の眉が僅かに動く。
「では、商いと産業だけか」
「はい」
「申せ」
惟豊が促す。
宗運は帳面へ一度目を落とし、口を開いた。
「おおよそ、二十万貫」
座が止まった。
「…………」
惟種も固まった。
誰も声を出さない。
「宗運」
「はい」
「いま、何貫と言った?」
「二十万貫ほどにございます」
「…………」
聞き間違いではないらしい。
二十万。
貫。
惟種は頭の中でもう一度数字を転がした。
玻璃を最初に売り、六十三貫が動いた時ですら驚いた。
それが今は、水飴、玻璃、市、鉱山、製鉄、鍛冶まで合わせ、一年間へ置き直せば二十万貫になるという。
「……まじかよ」
思わず漏れた。
「まじ?」
惟豊が聞き返す。
「あ」
惟種は父を見る。
「いえ」
「何だ」
「何でもありませぬ」
宗運がじっとこちらを見ている。
惟種は咳払いした。
「それほどになるとは、思っておりませんでした」
「若君が驚かれるのですか」
宗傳が苦笑する。
「わしが始めたことと、二十万貫になることは別だ」
「同じ話のようにも思えますが」
「違う」
惟種は言い切った。
宗傳の口元が僅かに緩む。
だが、宗運はここで水を差した。
「若君」
「何だ」
「二十万貫は、使える銭ではございませぬ」
「分かっておる」
「本当に?」
「……おぬし、最近それが多くないか」
「必要なので」
宗運は帳面を指した。
「人夫や職人への支払いに、炭や木、鉱石の運搬、道、橋、炉、工房、倉の整備。さらに玻璃や山、製鉄を増やし、商いへ戻す銭も要ります。壊れた物を直す分まで含めれば、残るものは大きく減ります」
「だから、残るのはいくらだ」
宗運が宗傳を見る。
宗傳が帳面を一枚めくった。
「今のところ」
一拍。
「六万貫前後を、家として新たに動かせると見ております」
「…………六万」
「はい」
二十万貫が動いても、原料、人件費、輸送、設備、維持、再投資でおよそ十四万貫が消える。
残るのが六万。
普通に考えれば、とんでもない大金だった。
惟種もそう思う。
一瞬だけは。
(六万貫)
だが、その次に頭へ浮かんだものが悪かった。
朝廷や幕府への働きかけ、宗運の手の者や文官の増員、読み書きと算用を教える学び舎、職人を集めた町。鍛冶だけでなく木工、石工、船大工、鋳物師、玻璃職人まで増やしたい。
そして。
(船)
海へ出る。
いつかは、ガレオン船のような大船を造る。
そのためには造船所と港、木、綱、帆、鉄、そして人まで要る。そこへ大筒まで載せるとなれば――。
(……全然足りないな)
惟種は真顔になった。
六万貫もある。
ではない。
六万貫しかない。
宗運がその顔を見て、嫌な予感を覚えたらしい。
「若君」
「何だ」
「いま、足りぬと思われませんでしたか」
「…………」
「思われましたな」
「まだ何も言っておらぬ」
「顔に出ております」
「失礼だな」
「二十万貫と聞いて驚いた直後に、その顔をなされれば分かります」
一門衆が二人を見比べている。
惟種は仕方なく答えた。
「六万貫もあれば、今までできなかったことができる」
「はい」
「だが、これからやりたいことを考えれば、足りぬ」
「やはり」
宗運は額へ手を当てたくなった。
「何をなされるおつもりで?」
「まだ言わぬ」
「なぜです」
「今言えば、おぬしが嫌な顔をする」
「すでにしております」
「なら、なおさらだ」
宗傳が小さく笑った。
◇
「とはいえ」
宗運が話を戻す。
「銭が増えたことで、一つできることがございます」
「何だ」
「人を雇えます」
宗運の声は、妙に実感がこもっていた。
「それは前から言っておるだろう」
「もっとです」
「もっと?」
「はい」
宗運は帳面を見る。
「今まで、仕事が増えれば我らが抱えておりました。宗傳が抱え、北里が走り、光永が書き、私がまとめる」
「そうだな」
「ですが、これだけ銭が動くのであれば、人を雇えばよいのです」
惟種は瞬きをした。
「……そうだな」
「帳面を持ち、算用ができ、村から上がる報告をまとめる者。市や蔵、山、人夫、物の出入りをそれぞれ見る者を雇います」
「うむ」
宗運は一拍置いた。
「文官を育てましょう」
惟種はすぐに頷いた。
「必要だ」
「読み書きと算用を教えます。若い者を取りましょう」
「うむ」
「家柄だけでは足りませぬ」
一門衆の何人かが僅かに顔を動かした。
宗運は構わず続ける。
「使える者を取ります」
以前なら、ここでもう少し強い反発があったかもしれない。
だが、五割を超えた田があり、市が育ち、山から鉄が出て、玻璃が銭を生んだ。
そして今、二十万貫という数字が目の前にある。
結果は、口より強かった。
惟種は内心で頷く。
(そうだ)
国を大きくするために必要なのは、宗運が百人いることではない。
そんなものは無理だ。
だが、宗運ほどでなくてもいい。
帳面を持ち、数字を読み、命令を理解し、決められた仕事を行って、何が起きたのかを報告できる。
そういう人間なら育てられる。
十人。
百人。
いずれは、それ以上。
ここから先は、物を作るだけでは足りない。
人を作らなければならない。
◇
「今年の骨は」
惟豊が言った。
「何だ」
宗運が板を並べ直す。
「四つにございます」
指を折る。
「田。市。山。火」
座の視線が集まった。
「田は、成功した仕方を順に広げる。ただし領内全体では、まず二割の増を安定して取ることを目指します」
「うむ」
「市は、商人が留まり、物が動く形を続ける。役を取りすぎず、その代わり商いそのものを太らせます」
「うむ」
「山は黒川を先に進め、長陽と永水を追わせます。鉄は鍛冶と製鉄へ回し、農具、工具、武具へ変える」
「うむ」
「そして火」
ここだけ、宗運の声が少し低くなった。
「日新斎殿より頂いた鉄砲を見本とし、鍛冶場で複製を始めます」
座が僅かにざわつく。
「一挺から作れるのか」
武辺者の一人が問う。
惟種が答えた。
「作れるようにする」
「言い切るな」
「そのために実物をもらった」
「何挺を考えておる」
「二年で百」
今度は、はっきりとざわめいた。
「百挺?」
「うむ」
「鉄砲を百も?」
「鉄砲だけではない」
惟種は言った。
「百人を常に抱える」
空気が変わった。
「常に?」
「農繁期になっても村へ戻さぬ」
「百姓を田へ返さぬのか」
「最初から、田を主とせぬ者を選ぶ」
一門の一人が眉を寄せる。
「銭がかかるぞ」
「かかりましょう」
惟種は認めた。
「だから今まではできなかった」
その視線が、先ほどの帳面へ向く。
二十万貫のうち、家として新たに動かせる銭は六万貫。
「だが、今は払える」
座が静かになった。
食わせる米と払う銭があるからこそ、初めて兵を田から切り離せる。
「わしは賛成だ」
宗運が言った。
「常に訓練できる兵を持つことには利がございます」
「だが」
一門の一人が言う。
「外から見れば妙ではないか。阿蘇が突然、常備の兵を抱え始めたとなれば」
「そこです」
宗運が少し考えた。
そして。
「神事のための兵、といたしましょうか」
惟種が宗運を見る。
「神事?」
「我らは阿蘇大宮司家にございます」
「あ」
惟種にも分かった。
「祭礼の警護」
「はい」
「社領の警固」
「はい」
「街道も守らせる」
「よろしいでしょう」
惟種の口元が上がる。
「それなら、一年中置いていても不自然ではないな」
「左様にございます」
「訓練していても?」
「神域を守る兵が弱くては困りましょう」
「武具を揃えても?」
「神威を守るために必要でしょうな」
惟種と宗運が顔を見合わせた。
「使えるな」
「使えます」
惟豊が咳払いした。
二人が父を見る。
「悪い顔をしておるぞ」
「そうでしょうか」
「二人ともだ」
宗運が何事もなかったように顔を戻した。
「ともかく、名目だけではございませぬ。実際に祭礼、社領、街道、館を守らせます」
「その上で訓練する」
「はい」
嘘ではない。
役目を本当に持たせ、そのうえで戦になれば最も早く動ける兵にする。
「森羅衆は」
惟豊が問う。
「その百人から育てます」
惟種が答えた。
「今は鉄砲が一挺しかない。まず常備兵百人を抱え、鉄砲が一挺、二挺、五挺、十挺と増えるたびに、扱える兵も増やしていく」
「二年後には」
惟種は言った。
「百挺。百人」
武辺者の一人が低く笑った。
「本当に揃えば、面白い」
「揃える」
惟種は迷わなかった。
◇
「火薬の方は」
別の家臣が問う。
宗運の顔が変わった。
「そこから先は、ここでは申しませぬ」
座が静まる。
「そこまで伏せるか」
「伏せます」
宗運は平らな声で答えた。
「火薬は、兵を強くする前に家を焼きます。さらに作り方そのものが外へ出れば、阿蘇にとって損にございます」
「家として進めることだけは決める」
惟種が補った。
「人里から離し、出入りを限る。火を扱う場所を分け、飲み水へ影響させぬ。場を守る者と帳面を持つ者も置く」
「細かな手立ては」
宗運が続けた。
「わたくし預かりといたします」
何人かが顔を見合わせた。
宗運の裏手へ預ける。
それだけで、この話が普通の作業場ではないことは伝わる。
前月、惟種たちの間で名を付けた花音衆についても、この場で細かく明かすつもりはない。
何を、どう作るのかまで知る者は、少なくてよい。
「よかろう」
惟豊が言った。
それで終わった。
◇
評定も終わりに近づいたところで、惟豊が座を見渡した。
「これまで」
皆の目が当主へ向く。
「惟種の言は、試しとして扱ってきた」
惟種も父を見る。
水飴、玻璃、田、市、山、鍛冶。
一つずつ小さく始め、駄目なら止め、使えるなら広げてきた。
「だが」
惟豊は帳面へ目を落とした。
条件のよい田では五割を超える実りが出て、領内全体でも二割増を狙える見込みが立った。商いと産業では年間二十万貫もの銭が動き、そのうち六万貫ほどを新しいことへ回せる。
鉄が出て、玻璃が売れ、人が寄り、ついには田から切り離した兵まで現実の話になった。
「もう、試しで済ませる段ではない」
評定の間が静かになる。
「田を増やす。市を育てる。山を開く。鉄を作る。銭を回す。人を育てる。兵を抱える」
惟豊は一つずつ言った。
「これらを」
一拍。
「これらを、これよりは惟種一人の策とはせぬ。阿蘇家の方針とする」
惟種は、思っていた以上にその言葉を重く感じた。
嬉しい。
もちろん嬉しい。
だが、それ以上に重かった。
これまでは自分が言い、試した。
失敗すれば、やめることもできた。
だが今日からは、家が動く。
人が動く。
銭が動く。
結果が出なければ、失敗するのは自分一人ではない。
「惟種」
「はい」
「どうする」
短い問いだった。
だが、意味は分かった。
このまま進むのか。
本当に阿蘇家を、自分が思い描いた方向へ動かすのか。
惟種は少しだけ息を吸った。
「進めます」
迷わなかった。
「ただし」
「何だ」
「今年は、土台を固めます」
「ほう」
「銭ができたからといって、全部使い潰しませぬ」
「では、何へ使う」
惟種は宗運を見る。
宗運が僅かに眉を上げた。
「人です」
座の何人かが顔を上げる。
「文官、鍛冶、山師、商人、兵。それに、教える者です」
惟種は続けた。
「これから先、わし一人が知っていても意味がありませぬ」
この言葉は、以前よりもずっと自然に出た。
「阿蘇に、できる者を増やします」
惟豊はしばらく息子を見ていた。
やがて。
「ようやく、銭の使い方が分かってきたようだな」
「前から分かっております」
「本当か」
「本当です」
「玻璃の工房を作った時は、銭を全部突っ込もうとしたであろう」
「あれは必要な投資です」
「山も同じことを申したな」
「必要でした」
「鉄砲も」
「必要です」
惟豊が少し笑った。
「まあよい」
宗運も横で、僅かに口元を緩めていた。
◇
評定が終わった。
人が順に座を出ていき、宗運と宗傳はそのまま帳面を抱えて次の話へ向かう。
惟種は一人、少しだけその場へ残った。
目の前には、まだ帳面がある。
二十万貫が動き、そのうち十四万貫ほどが原料や人、設備、再投資へ消える。
残る六万貫。
米と年貢は別だ。
一年前の自分なら、六万貫も自由に動かせると聞けば、何でもできると思ったかもしれない。
だが、今は違う。
朝廷や幕府への働きかけ、人材育成、兵、鉄砲、大筒、職人町、港、造船所。
使い道はいくらでもある。
国を大きくするというのは、ただ金を貯めることではない。
金を使って、次の金を生む仕組みを作ることだ。
水飴に使った銭が玻璃へつながり、玻璃で得た銭が鍛冶と山へ流れ、山と鉄が新しい仕事を生んだ。
市が人を呼び、その人がまた銭を生む。
ならば、二十万貫まで来たことに満足する理由などない。
惟種は帳面の数字を、もう一度見た。
二十万。
(次は)
六万貫を何に使うか。
それも大事だ。
だが、もっと大事なことがある。
(この二十万貫を)
惟種の口元が、ゆっくり上がった。
(次は、どうやってもっと増やすかだな)
外はまだ冬だった。
だが、惟種の頭の中では、もう次の銭が動き始めていた。




