第三十話 冬の評定
天文十五年(1546年)二月
阿蘇の二月は、まだ冬である。
朝の水は冷たく、吐く息は白い。山の影は長く、館の板敷きは足裏から冷えを吸い上げてくる。だが、そんな季でも評定の座は熱を持つ。春を待つばかりでは家は太らぬ。冬のうちに決め、割り振り、動かすべきを定めるからこそ、春に間に合う。
その日、惟種はいつもより早く評定の間へ入った。
もう端の端ではない。
だが、まだ中央でもない。
惟豊が許した通り、近くではある。
見て、聞き、必要な時だけ口を開く位置だ。
座にはすでに、甲斐 宗運、田代 宗傳、一門衆、在地の有力どころが並んでいた。高森、北里、光永の若手は表には出ぬが、間の外で控えている気配がある。評定は表で行われる。だが今の阿蘇は、表だけで回る家ではもうなかった。
阿蘇 惟豊が座に着くと、ざわめきがすっと収まった。
「始める」
低い一声だった。
「今季の評定は、去年のまとめと、春からの定めが主だ。余計な飾りはいらぬ。銭と人と山と兵、どこへどう回すかを決める」
いつも通りの惟豊だ。
短く、重い。
宗運が板と帳面を前に進み出た。
「では、まず去年の実りより」
光永が作った見やすい板が広げられる。前より整理されていた。数ではなく、流れで見せるための板だ。
宗運は、一つずつ確認していった。
「試し田は、予想以上に上首尾。収穫の増えは村ごとに差がありますが、よく出たところでは二割を超え、条件の良いところではさらに伸びる見込みがございます」
ざわ、と小さく空気が動く。
二割増。
口で言うのは簡単だが、米に直せば大きい。
「農具の改良、とくに扱きと選別の手間減りが効いております。作付けの筋も乱れておりませぬ。村の不満も、今のところ抑えられております」
一門の一人が言う。
「来年も同じだけ伸びるか」
宗運は即答しなかった。
「同じ伸びをすべてで見るのは欲張りです。されど、広げれば総量は増えます」
ここは慎重に言う。
盛りすぎぬ。
だが弱くも言わぬ。
「次」
惟豊。
「市にございます」
宗運は板をめくった。
「門前の新市は、いまや定期の賑わいを超えつつあります。飴、玻璃、鍛冶物、山の産が流れ、商人の出入りも増えました。境目戦のあと、阿蘇へ移ろうとする者も出ております」
「道は」
別の家臣が問う。
「橋と渡しは戻しました。新たに押さえた地も、まず道を通すことを優先しております」
惟種は、その言葉を聞きながら内心で少しだけ頷いた。
勝ってから道を戻す。
そこまで含めてようやく勝ちだ。
それがもう、家の中で前提になっている。
宗運は続けた。
「飴は広く売る。玻璃は高く売る。この分け方も効いております。銭が動き始め、家中でも“阿蘇は商いで太れる”という見方が生まれております」
年嵩の者が言う。
「関や役を、そこまで軽くするつもりか」
惟種が少しだけ顔を上げた。
宗運が、こちらを見る。
言え、という目だ。
「全面に、ではありませぬ」
惟種は言った。
「だが、来る者が得をし、売る者が残る形は要ります。取るばかりでは市は育ちませぬ」
年嵩の者は、ふむ、とだけ言った。
反対ではない。
もう、若君の口から出る新しい話にいちいち驚く段ではなくなっている。
「次」
惟豊。
宗運は今度、別の板を出した。
「軍にございます」
評定の空気が、少しだけ張った。
「境目戦は勝ちました。館を落とし、土地と民を吸い、年貢道も押さえました。勝ちそのものより、勝ったあとを崩さず回せたことが大きい」
権兵衛格の武辺者が低く言う。
「兵の損耗は」
「軽うございます」
「追いすぎなかったからだな」
「はい」
宗運はうなずく。
「それと」
ここで宗運は、ほんの一拍置いた。
「若君御出馬の効果も、小さくはございませぬ」
座のいくつかが、惟種を見た。
鬼童。
その名をここであからさまに出す者はいない。
だが、皆知っている。
「若君の名が兵の間に立ち、そこから村へ落ちた。恐れと期待の両方を持たれております」
惟豊がそこで初めて、惟種を見た。
「重くなったな」
「はい」
惟種は素直に答えた。
「軽く使えば、こちらが潰れます」
惟豊の口元がほんの少しだけ動いた。
それで十分だった。
「南は」
惟豊が次を促す。
宗運は、日新斎来訪のくだりを簡潔にまとめた。
「島津とは友和の糸が通りました。敵意なきこと、言葉と品の往来、将来の縁を保つところまでは進んでおります。日新斎殿みずから来訪され、鉄砲一挺を先行の投じ物として残されました」
ざわめきが起こる。
島津の日新斎が来て、鉄砲まで置いた。
その重みは家中にも十分伝わる。
一門衆の一人が問う。
「そこまで南へ寄ってよいのか」
「寄るのではございませぬ」
宗運の声は平らだった。
「結ぶのです」
短いが、強い。
「島津は今のところ、こちらを叩く利より結ぶ利を見ております。こちらも同じです」
惟種はその言葉を聞きながら、やはり宗運はうまいと思った。
媚びてもいない。
虚勢でもない。
ただ利として置く。
「では」
惟豊が言う。
「今年の骨を申せ」
ここからが本題だ。
去年の成果確認ではなく、
今年、阿蘇家が何を国の骨にするか。
宗運は板を入れ替えた。
「今年の骨は、四つ」
指を折る。
「田。市。山。火です」
“火”という言い方で、何人かがわずかに顔を上げた。
「田と市は続けて広げる。これはもう申すまでもない」
「うむ」
惟豊。
「山は黒川を先に進めます。長陽は道と試掘、永水は遅れて追う。坑道は問題なく機能しており、排水、運搬、送風とも、今のところ大きな破綻はございませぬ」
山の話になると、場の顔つきがまた変わる。
石高だけでなく、鉄そのものを押さえるというのは、家の形を変える話だからだ。
「そして火」
宗運は、ここだけ少し声を低くした。
「鉄砲一挺を得たことで、鍛冶場の仕事が一段変わります。分解して理を確かめ、部位ごとの弱みを見て、試し筒を作る。だが、銃だけでは足りぬ。火薬が要る」
宗傳が、そこで花音衆の板を出した。
「塩硝は丘で育てます」
またざわつきが起きる。
「丘、だと」
「古土を待たぬ。硝石丘法にて、二年で使えるところまで持っていく方針にございます」
惟種は、ここも自分で言うべきだと思った。
「硫黄は阿蘇山から取れる。木炭も焼ける。塩硝だけが足りぬ。ゆえに、今から育てる」
年嵩の家臣が怪訝そうに言う。
「糞と土の山であろう。病が出るぞ」
「出させぬ」
惟種は即答した。
評定の空気がすっと静まる。
「そのために、場を分ける。居住地から離す。飲み水の上へは置かぬ。作業の場と食う場を分ける。病人を入れぬ。出入りを限る」
宗運が続ける。
「この管理は、わたくし預かりといたします」
何人かが、はっきりと顔色を変えた。
つまり、これは普通の作業場ではない。
宗運の裏手が入る。
そこまで重要だと宣言したのだ。
「花音衆、と名を付けます」
宗傳が板を見せる。
花音衆。
風雅なようでいて、場に漂うものは風雅から遠い。
「火薬材料の管理、衛生の管理、出入りの管理、配薬と蔵の管理まで、花音衆に担わせる」
惟豊が問う。
「厳しすぎるか」
宗運は首を振った。
「厳しくして、ようやく足ります」
誰も反論しなかった。
花音衆の話のあとでは、もう“やりすぎ”とは言いにくい。
火薬は兵を強くする前に、家を吹き飛ばすものでもあるからだ。
「兵の方は」
惟豊が促す。
宗運が今度は、森羅衆の板を出した。
「二年後を目途に、百の常備鉄砲隊を置きます」
今度のざわめきは、先ほどより大きかった。
「百もか」
「百でよいのです」と宗運は言う。
「三百では維持が重い。五十では足りぬ。百なら揃えて抱えられる」
惟種が続ける。
「名は森羅衆」
「森羅」
「山、土、木、火、風。万の理を束ねて撃つ兵だ」
場の中には、その名に戸惑う者もいた。
だが、嫌悪はない。
むしろ、得体の知れぬものに名が付いて、少し収まりがよくなった顔もある。
「森羅衆は常備だ」
惟種ははっきり言った。
「農繁期でも解かぬ。平時は警固、訓練、試射、整備、火薬番を行う。戦時はひと塊で動く」
武辺者の一人が低く問う。
「百で足りるか」
「今は足りる」
惟種が答えるより早く、宗運がそう言った。
「数で威を見せるのでなく、揃いで勝つ兵です。装薬、火縄、玉薬、号令、再装填、全部を揃える。雑に集めた二百より、揃った百の方が強い」
その言い方に、場の何人かが納得した。
人数の多さより、統制。
それは武辺者にもわかる理だ。
「今年は、その枠を空け、候補を選び、訓練の土台を作る年となります」
宗傳が補う。
「すぐ百を立てるのではなく、今年は人・道具・火薬・帳面の筋を揃える、と」
「うむ」
惟豊が頷いた。
話は、ここまでで十分に重かった。
田。市。山。火。
ただの思いつきの寄せ集めではなく、家の骨として並んでしまっている。
ここで惟豊が、ようやく全体を締めた。
「よい」
短いが、座の中心が定まる声だった。
「これまで、惟種の言は試しとして扱ってきた」
場が静まる。
「だが、もう違う」
惟豊は評定座を見渡した。
「これより先、ここに並んだ筋――田を広げ、市を育て、山を開き、火を育てる筋は、若君の思いつきではない」
一拍。
「阿蘇家の方針とする」
それは、重かった。
惟種は、その言葉を聞きながら、胸の奥で何かが少しだけ沈むのを感じた。軽くなるのではない。逆だ。責が本当に形になって落ちてきた感じだ。
一門衆も、重臣も、もうそれを聞いた。
若君の案ではない。
家の方針だと。
宗運が、そのまま実務へ落とす。
「では割り振ります。田は宗傳。市は門前衆と連携し、取りすぎぬよう見る。黒川は山の耳と鍛冶を付ける。花音衆はわたくし預かり。森羅衆の候補は、春までに名を挙げます」
「島津へは」
惟豊が問う。
「返礼を絶やしませぬ」
宗運。
「ただし、内を見せすぎぬ。糸は太くするが、首は預けぬ」
「よろしい」
惟豊はそこで、最後に惟種を見た。
「惟種」
「はい」
「ここまでの筋、違えず進められるか」
惟種は、座にいる全員の視線を感じた。
もう逃げる段ではない。
いや、初めから逃げるつもりはなかった。
ただ、今日からはその重さが違う。
「進めます」
短く答えた。
「ただし、広げすぎれば崩れる。ゆえに、今年は土台を固める年にします」
惟豊の目がわずかに細くなる。
「よい」
それで十分だった。
評定は、そのあと細かな割り振りと、春までに要る人と銭の計算へ入っていった。
だが骨はもう決まっていた。
外はまだ寒い。
田は眠り、山は固く、火薬丘はまだただの仕込みにすぎない。
だが、阿蘇家の中ではもう春の仕事が動いている。
評定が終わったあと、座を立ちながら宗傳が小さく言った。
「若君」
「うむ」
「もう後には戻れませぬな」
惟種は少しだけ笑った。
「戻る気はない」
宗傳も、わずかに笑った。
「それでこそ」
宗運は何も言わなかった。
ただ、惟種の横を通る時に一度だけ視線を向けた。
その目はいつも通り静かで、だが少しだけ厳しかった。
家の方針になった。
ならば失敗は家の失敗になる。
そのことを、あの人はもう何も言わずとも伝えている。
評定の間を出ると、二月の光は思ったより白かった。
冷たいが、どこか先を感じさせる光だ。
惟種は廊下の先に立ち、庭の向こうを見た。
田。
市。
山。
火。
全部を握るのはまだ先だ。
だが、家として進む筋は決まった。
その筋の先に、二年後の森羅衆百がいる。
さらにその先に、阿蘇が九州でただの一勢力ではなくなる形がある。
冬の空は高く、風は冷たかった。
だが惟種の胸の内には、鍛冶場の火と同じ色の熱が、静かに残っていた。




