↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
160/289

第百五十九話 早すぎた文

 天文二十年(一五五一年)三月。


 山口の春は、まだ冷えていた。


 梅は咲く。

 風も、冬の鋭さを少しずつ失っている。


 だが、大内の館にある空気は春へ向かわなかった。


 文の者は、武の者を疑う。

 武の者は、文の者を軽んじる。

 寺社は様子を見る。

 商人は、荷の流れを止めぬ者が誰かを見ている。

 国衆は、次に立つ者の影を探り始めている。


 そこへ、さらに一つの火種が入った。


 珠光姫である。


 大内義隆の娘。

 その姫が、阿蘇へ預けられた。


 表向きは友誼。

 西国静謐。

 大内と阿蘇の橋。


 だが、山口でその言葉をそのまま受け取る者は少ない。


 文の者は、阿蘇筋が入れば武の者は軽々しく動けぬと見る。

 武の者は、大内の姫を肥後へ差し出したと見る。

 商人は、博多の荷が止まるかどうかを見る。

 寺社は、大内の名が山口に残るか、阿蘇に移るかを見る。


 誰もが、同じ火を違う名で呼んでいた。


 大内の屋根が、揺れている。


 陶隆房は、その揺れの中心に座っていた。


     ◇


 隆房の前には、文が置かれている。


 阿蘇惟種からの文であった。


 封は丁寧。

 文面も乱れていない。

 礼は尽くされ、友和の言葉もある。


 だが、隆房は笑わなかった。


「友和、か」


 声には冷えたものがあった。


 向かいに座る江良房栄は、黙っている。


 隆房は文へ目を落とした。


 阿蘇は大内家を軽んじるものにあらず。

 陶殿を敵と見るものにもあらず。

 大内の内は、大内の忠臣が収めるべきもの。

 阿蘇は九州の家にて、軽々しく山口へ兵を入れるものではない。


 ただし。


 珠光姫の身。

 博多の荷。

 大内の名。


 この三つを損なうならば、その限りにあらず。


 隆房は、その箇所を何度も読んだ。


 文字は穏やかである。

 だが、穏やかな文字ほど腹を隠す。


 阿蘇惟種は、そういう男だ。


「江良」


「は」


「どう読む」


 房栄は文を受け取り、静かに目を通した。


 一度目は礼の文として。

 二度目は政の文として。

 三度目は、刃として。


 やがて、文を畳む。


「阿蘇は、義隆様を救うとは書いておりませぬ」


 隆房の目が、少しだけ細くなる。


「続けよ」


「隆房様を討つとも書いておりませぬ。置いたのは、線にございます」


 房栄は、指を三つ折った。


「珠光姫。博多の荷。大内の名」


 隆房は黙って聞いていた。


「この三つを越えぬ限り、阿蘇は山口へ兵を入れぬ。そう読めます」


「読める、ではない」


 隆房は低く言った。


「そう読ませたいのだ。阿蘇惟種は、わしにそう読ませるため、この文を書いた」


「おそらくは」


 房栄は頭を下げた。


 隆房は、文を膝の上に置いた。


「面白くない」


 阿蘇が義隆を救わぬこと。

 陶を敵と断じていないこと。

 山口の内は山口で収めよ、と読めること。


 それだけなら、陶にとって利である。


 だが、そこに珠光姫がいる。


 大内義隆の娘。

 大内の血。

 しかも、阿蘇へ預けられた女である。


「義隆様は、何をなさるおつもりであったか」


 隆房は、誰に問うでもなく言った。


 房栄が答える。


「阿蘇の影を山口に落とすおつもりだったのでしょう」


 隆房は鼻で笑った。


「その通りだ」


 笑いに温かさはない。


「珠光姫を阿蘇へ預ける。婚姻の儀を済ませる。阿蘇惟種を大内の縁者にする。その影で、わしらを押さえる」


 隆房は、文の上に指を置いた。


「悪い手ではない」


 房栄の目が、わずかに動いた。


「阿蘇は九州を太らせている。博多も見ている。朝廷も幕府も、阿蘇を軽んじてはおらぬ。そこへ大内の血を預ければ、山口の者どもは考える」


 文の者は阿蘇を頼る。

 商人は荷を守るため阿蘇を見る。

 寺社は大内の名がどこへ残るかを探る。

 武の者は、陶隆房が動けば阿蘇が出てくるかもしれぬと疑う。


 義隆が狙ったのは、それであった。


 阿蘇の影を山口へ落とす。

 落とした影で、陶を抑える。


 隆房は、その手を正しく読んでいた。


 だからこそ、顔は冷えていた。


「もう少し早ければ、効いたかもしれぬ」


 房栄は何も言わなかった。


「あと一年早ければ。いや、せめて半年早ければ、山口の者どもも阿蘇の影に怯えたであろう」


 隆房の声が低くなる。


「だが、今は遅い」


 部屋の外で、風が鳴った。


「もう山口は、婚姻で戻るところにはございませぬな」


 房栄が静かに言った。


 隆房は頷いた。


「その通りだ」


     ◇


 義隆は、まだ大内の当主である。


 その事実を否む者はいない。


 だが、家中の目は、すでに義隆だけを見てはいなかった。


 宴。

 文。

 公家。

 寺社。

 雅。


 それらを愛することは、悪ではない。


 だが、国が荒れる時、兵を持つ者は別のものを見る。


 蔵。

 米。

 兵。

 敵。


 そして、主の背。


 その背が遠いと思えば、武の者は不安になる。

 不安が怒りになる。

 怒りが理を得れば、刃になる。


 隆房は、すでにその刃の重さを知っていた。


 抜く気でもいた。


 そこへ阿蘇が入った。


 珠光姫が阿蘇へ移った。

 惟種から文が来た。

 山口には、阿蘇の影が落ち始めた。


「江良」


「は」


「阿蘇へ人を遣るべきと思うか」


「腹を探るために、でございますか」


「そうだ」


「不要かと存じます」


 隆房は、わずかに口元を動かした。


「なぜだ」


「すでに腹は出ております」


 房栄は文を見た。


「阿蘇は、義隆様の御命を守るとは申しておりませぬ。山口へ兵を入れぬとも書いております。ただし、線を越えれば別だと」


「うむ」


「ならば、こちらが確かめるべきは阿蘇の腹ではございませぬ」


「何だ」


「こちらが、その線を越えずに山口を収められるかどうかにございます」


 隆房は、しばらく房栄を見ていた。


 やがて、低く笑う。


「よい答えだ」


 房栄は頭を下げた。


「恐れ入ります」


「阿蘇へ使者を出せば、山口に何が起こる」


「阿蘇の影が濃くなります」


「そうだ」


 隆房は文を指で叩いた。


「義隆様が望んだものを、こちらから太らせることになる」


 阿蘇へ使者を出す。

 それは、陶が阿蘇の顔色を窺ったという形になる。


 文の者は阿蘇を大きく見る。

 商人は陶より阿蘇を測る。

 寺社は、義隆の策が効き始めたと見る。


 それではならない。


「阿蘇へは行かぬ」


 隆房は言った。


「文だけで十分だ」


 房栄は、静かに頷いた。


     ◇


 文だけで十分。


 それは、安心という意味ではなかった。


 むしろ逆である。


 阿蘇惟種は、こちらへ線を置いた。

 その線を読める者なら、次に何をすべきか分かる。


 婚姻の儀が済む前に、山口を収める。


 それしかない。


 珠光姫は、すでに阿蘇にいる。

 だが、まだ正式に阿蘇惟種の女となったわけではない。


 婚姻の儀が済めば、話は変わる。


 阿蘇は義隆の縁者となる。

 その後に刃を向ければ、陶は別の名を負う。


 珠光姫の父を討った者。

 阿蘇の縁者を害した者。

 大内の血を脅かす者。


 まだならば違う。


 まだ、阿蘇は大内の血を預かっただけである。

 まだ、義隆と阿蘇の縁は結び切っていない。

 まだ、山口の内は山口で収められる。


 隆房は、そこまで読んだ。


 惟種の文が、そう読ませた。


「義隆様は、急がれたのだろうな」


「はい」


 房栄が答える。


「阿蘇と婚姻の儀を結び、山口の腹を固め直す。隆房様を押さえ、文の者を安心させ、商人には博多の荷を見せる」


「悪い手ではない」


「悪い手ではございませぬ」


「だが、遅い」


 隆房の声に、迷いはなかった。


「山口は、すでにそこまで戻れる場所ではない」


 房栄は、深く頭を下げた。


「では」


「支度を急ぐ」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 房栄の目が、わずかに鋭くなる。


「いつにございますか」


「早いほどよい」


「阿蘇の婚姻の儀より前に」


「当然だ」


 隆房は言い切った。


「婚姻が済んでからでは遅い」


 房栄は、しばらく黙っていた。


 それから、低く言った。


「ただの乱では足りませぬ」


「分かっている」


 隆房は答えた。


「山口を荒らすのではない。山口を収める」


「義隆様の御名は」


「辱めぬ」


「珠光姫は」


「触れぬ。阿蘇にいる以上、なおさらだ」


「博多の荷は」


「止めぬ」


「大内の名は」


「残す」


 房栄は、そこで初めて深く息を吐いた。


「ならば、阿蘇の線は越えませぬ」


「越えぬ」


 隆房は静かに言った。


「だが、線の際までは踏む」


 房栄の目が、わずかに動いた。


「阿蘇の線を恐れて、手を緩めるつもりはない。珠光姫には触れぬ。博多の荷も止めぬ。大内の名も残す」


 隆房の声が、さらに低くなる。


「だが、義隆様の周りに集まる者は散らす。文の者は黙らせる。迷う国衆は先に押さえる。寺社も商人も、口実を与えぬ範囲で縛る」


「……阿蘇に兵を出す名分を与えぬまま、山口を奪う」


「奪うのではない」


 隆房の返しは早かった。


「保つのだ」


 房栄は、口を閉じた。


 隆房は文へ目を落とす。


「義隆様を討ちたいのではない。義隆様のままでは、もはや大内が保たぬ」


 その声には、怒りだけではないものがあった。


 失望。

 惜しみ。

 そして、自分を忠臣と信じようとする者の冷たさ。


「大内を壊すためではない。大内を残すための刃だ」


 そう言い換えた時、隆房の腹は決まっていた。


     ◇


 房栄が、文箱を寄せた。


「まず、誰を押さえますか」


「文の者は、義隆様の近くへ集まりすぎぬようにせよ」


「寺社は」


「荒らすな。寺社を焼けば、阿蘇に口実を与える」


「商人は」


「博多の荷は止めぬと伝えよ。山口が荒れても、荷は流す。そう聞けば、商人は静かに見る」


「国衆は」


「迷う者から先に声をかける。遅れる者は、勝ち馬を見る」


「毛利は」


 隆房は、そこで少し沈黙した。


「毛利は見る」


「動きますか」


「すぐには動かぬ。だが、見ている」


 房栄は頷いた。


「阿蘇と同じにございますな」


「違う」


 隆房の返しは早かった。


「阿蘇は遠い。遠いからこそ名分で動く。毛利は近い。近いからこそ、利で動く」


「では、毛利には」


「利を見せる。ただし、太らせすぎるな」


 房栄は、その一言を胸に刻んだ。


 陶隆房は怒っている。

 だが、怒りに酔ってはいない。


 阿蘇の文を読み、義隆の狙いを読み、山口の荒れを見て、毛利の腹まで測っている。


 この男は、乱を起こす気でいる。

 しかし、それを乱のままにはしない気でいる。


 山口を収める刃にするつもりでいる。


     ◇


 隆房は、もう一度阿蘇の文を手に取った。


 友和の言葉。

 礼の言葉。

 線を置く言葉。


 どれも整っている。


 整いすぎていた。


「惟種め」


 隆房は小さく呟いた。


「若いくせに、嫌な文を書く」


 房栄は何も言わない。


「義隆様を救うとは書かぬ。わしを敵とも書かぬ。だが、珠光、博多、大内の名は守ると置く」


 隆房は文を畳んだ。


「つまり、今ならまだ山口の内で済む」


 房栄が静かに言った。


「婚姻の儀が済む前ならば」


「ああ」


 隆房は頷いた。


「だから急ぐ」


 その声には、もう迷いがなかった。


「江良」


「は」


「阿蘇へ行く必要はない」


「承りました」


「支度を急げ」


「はっ」


「義隆様の手は、悪くはなかった」


 房栄が顔を上げる。


 隆房の声は冷えていた。


 だが、そこにはほんのわずかに、主君への惜しみのようなものもあった。


「悪くはなかったのだ」


 隆房は、もう一度言った。


「ただ、遅すぎた」


     ◇


 その日の夜、山口のいくつかの屋敷で、静かな使いが動いた。


 兵を集める声ではない。

 旗を掲げる動きでもない。


 ただ、文が動いた。

 人が動いた。

 耳のよい者が呼ばれた。

 迷っていた者へ、短い言葉が届いた。


 博多の荷は止めぬ。

 寺社は焼かぬ。

 大内の名は残す。

 珠光姫には触れぬ。


 そして、山口は山口で収める。


 その言葉は、刀よりも静かに広がった。


 陶隆房は、まだ兵を挙げてはいない。


 だが、火はもう移っていた。


 義隆は阿蘇を使おうとした。

 阿蘇の影で、山口をもう一度縛ろうとした。


 手は悪くなかった。


 しかし、山口はすでに、その影を待てるほど静かではなかった。


 阿蘇惟種が陶隆房へ向けて送った友和の文。


 それは、山口の火を鎮めるためのものだった。


 だが、その文は今、史実よりも早すぎる結果を生み出そうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。