↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
157/289

第百五十六話 京で満たせぬ欲

 天文十九年(一五五〇年)八月。


 松永久秀が三好長慶のもとへ戻ったのは、祝言から後日のことであった。


 京の空気は、阿蘇とは違う。

 湿り気も、匂いも、人の目の動きも違う。

 阿蘇では、客は驚き、商人は嗅ぎ、公家は笑みを作り、武家は沈黙した。


 京では、誰もが探る。


 笑っていても、黙っていても、礼をしていても探る。


 久秀は、その京の空気に戻ってきたはずだった。


 だが、胸の内にはまだ、阿蘇の夜空に咲いた火が残っている。


 赤い火。

 白い火。

 尾を引く火。

 山を震わせた祝砲。

 それは戦の火であった。


 城を焼き、兵を崩し、船を沈める火であった。


 だが、阿蘇はそれを祝言に使った。


 恐れを、祝いに変えた。


 それが、久秀には何より恐ろしかった。


     ◇


 三好長慶は、久秀の報告を聞く前から、何かを察していた。


 松永久秀は、軽々しく驚く男ではない。


 奇物を見た程度で顔を変える男でもない。


 豪奢な膳や珍しい器に、心を乱される男でもない。


 その久秀が、戻ってからしばらく口数を減らしている。


 それだけで、長慶には十分だった。


「松永」


「は」


「阿蘇は、どうであった」


 久秀は、すぐには答えなかった。


 部屋には長慶と久秀のほか、数人の近臣が控えている。


 長慶が目を向けると、その者たちは静かに下がった。


 襖が閉まる。


 ようやく、久秀は口を開いた。


「祝言にございました」


「それは知っておる」


「されど、祝言ではございませぬでした」


 長慶の目が、わずかに細くなる。


「では、何だ」


「市にございます」


「市か」


「はい」


 久秀は、膝の上に手を置いた。


「朝廷、幕府、三好、博多、堺、島津、九州諸家。すべてを一つ所に集め、飯を食わせ、器を見せ、火を見せ、氷を出した。あれは、阿蘇という家そのものを売る市にございます」


 長慶は黙って聞いていた。


「ただ豪奢なのではございませぬ。豪奢にするだけなら、大内もできます。堺の商人もできます。銭さえあれば、公家を集め、唐物を並べ、香を焚き、能を舞わせることもできましょう」


「阿蘇は違ったか」


「違いました」


 久秀は短く答えた。


「玻璃の器がございました」


「阿蘇の特産品か」


「一つ二つではございませぬ。主だった客へ出せるほどに揃えておりました」


「そこまでか」


「おそらく。少なくとも阿蘇の者は、宝を見せびらかすようには扱っておりませなんだ」


 長慶は、小さく息を吐いた。


「宝ではない、ということか」


「阿蘇にとっては、道具にございます」


 宝を道具にする。


 それは、銭があるという話ではない。


 職人がいるという話だけでもない。


 宝を宝のまま置かず、政に使うということである。


「他には」


「氷菓子が出ました」


「八月にか」


「はい」


 長慶の眉が動いた。


「氷室か」


「そう思いました。されど、ただ氷を削っただけではございませぬ。果汁と乳を合わせ、口に入れば溶ける。甘く、冷たい。しかも、それを溶かさず客へ運んだ」


 久秀は、あの器の中を思い出した。


 冷たい菓子。


 周囲の者が驚く中、阿蘇の者だけは平然としていた。


 その平然が怖かった。


「見えているのは菓子にございます」


 久秀は言った。


「ですが、隠れているのは仕組みです」


「仕組み」


「はい。どう冷やすか。どう運ぶか。どの器に盛るか。どの順で客に出すか。客が驚いた時、どの言葉で受けるか。すべてが整っておりました」


 長慶は、そこで初めて少し身を乗り出した。


「戦にも出るな」


「出ます」


 久秀は即答した。


「火薬も、船も、米も、薬も、同じように扱う家にございます」


 部屋が静かになった。


 それは、久秀が阿蘇を恐れているという意味ではなかった。


 見たものを、正しく測ったという意味である。


 長慶は、その重さを理解した。


     ◇


「兵はどうであった」


「静かでした」


「強い、ではなく静かか」


「はい」


 久秀は頷いた。


「槍の構え、鉄砲の置き方、門の立ち方。いずれも、騒がしくはございませぬ。勇ましさを見せる兵ではなく、命じられた場所で命じられるまで動かぬ兵にございます」


「常備の兵か」


「おそらく。少なくとも、祝言の警固に出ていた者は、国人の寄せ集めではございませぬ」


「厄介だな」


 長慶は静かに言った。


 国人は強い。


 だが、国人は家の腹で動く。


 常備の兵は違う。


 主の腹で動く。


 それを若い阿蘇惟種が持っている。


「それだけではございませぬ」


 久秀は続けた。


「火が上がりました」


「祝砲のことか」


「はい。火薬筒を用い、夜空へ火を咲かせました。祝砲も鳴りました。火消しは控え、水桶も置かれ、火薬を扱う者の動きも決まっていた」


「失敗は」


「ございませぬ。少なくとも、客の前では」


 長慶は、その言葉を聞き逃さなかった。


「客の前では、か」


「はい」


「失敗を隠す仕組みもあると見たか」


「分かりませぬ。ですが、失敗しても祝言を壊さぬ備えはありました」


 久秀は、あの夜を思い返した。


 誰もが火を見上げていた。


 公家は息を呑み、武家は黙り、商人は目を見開いた。


 その後ろで、阿蘇の者だけが火の行方と水の位置を見ていた。


 夢を見せる者が、夢に酔っていなかった。


「阿蘇は、恐れと憧れを同じ火で作りました」


「誰かも、そのようなことを言ったか」


「島津日新斎殿が」


「なるほど」


 長慶は短く言った。


 日新斎がそう見たなら、久秀の見方だけではない。


 阿蘇は祝っていた。


 だが、同時に脅していた。


 しかも、脅しに見えぬ形で。


     ◇


「惟種は、どう見えた」


 長慶の問いに、久秀は少しだけ答えを遅らせた。


 そこが、一番難しかった。


「若うございます」


「それは聞かずとも分かる」


「はい」


 久秀は頭を下げた。


「されど、若さだけではございませぬ。あれは、欲の形が違います」


「欲か」


「はい」


 長慶は、黙って続きを待った。


「公方様は、阿蘇惟種を気に入っておられます」


「見れば分かったか」


「はい。阿蘇も、公方様を嫌ってはおりませぬ。むしろ、好いているように見えました」


「ならば幕府を支えるか」


「そこが違います」


 久秀は静かに言った。


「阿蘇惟種は、公方様個人は大切に扱います。ですが、幕府を背負う気はございませぬ」


 長慶の視線が止まった。


「なぜそう見た」


「公方様は氷菓子を京でも出せと仰せになりました。阿蘇へ上洛せよとも、軽く仰せになった。惟種は丁重に受けておりました。されど、目は笑っておりませなんだ」


「京に絡め取られることを嫌ったか」


「はい。礼は尽くす。朝廷の筋も軽んじない。されど、幕府の御用聞きになる気はない。京で政を回す気も、畿内に根を張る気も見えませぬでした」


「では、何を欲しておる」


 長慶の声は静かだった。


 久秀は、そこで初めて小さく息を吐いた。


「分かりませぬ」


「松永が分からぬと申すか」


「申し訳ございませぬ」


「責めてはおらぬ」


 長慶は目を伏せた。


 分からない。


 それは、珍しい答えだった。


 だが、久秀が軽く言ったものではない。


「京を欲する者なら、京で縛れる。官位も所領も、幕府も同じだ」


「はい」


「だが、京を欲せぬ者は縛りにくい」


「しかも、欲がないわけではございませぬ」


「何ゆえそう思う」


「祝言で分かります」


 久秀は言った。


「あれほどの場を、ただ娘を迎えるためだけに作る男ではございませぬ。阿蘇は、銭がある。米がある。船がある。商人を動かせる。職人を動かせる。敵に回せば面倒、味方にすれば得。そう見せるための祝言にございました」


 長慶は黙った。


 久秀の言葉は、阿蘇惟種の腹を語っている。


 同時に、阿蘇が三好へ向けて見せた刃を語っている。


「あれは、畿内を欲していないのではございませぬ」


 久秀は声を落とした。


「畿内で満たせる欲を持っていないだけにございます」


 長慶の目が、わずかに動いた。


 その言葉は、部屋の空気を冷やした。


     ◇


「もう一つ、ございます」


「申せ」


「祝言の後、阿蘇惟種は織田三郎信長と会っております」


 長慶は、すぐには動かなかった。


 尾張。

 織田。

 三郎信長。


 遠い名である。


 畿内にいる三好からすれば、本来なら今すぐ重く扱う名ではない。


 だが、久秀はそれを報告した。


 ということは、軽くない。


「内容は」


「掴めておりませぬ」


「誰が同席した」


「確かなところでは、甲斐宗運。平手政秀。阿蘇惟豊も途中で入ったと聞きます」


「惟豊もか」


「はい」


「祝言の後に」


「祝言の後にございます」


 長慶は、ここで初めて眉を寄せた。


 祝言の後。


 それは軽い時間ではない。


 客を捌き、主家の内で礼を済ませ、新婦を迎え、重臣を労うべき時間である。


 そこに、尾張の若者を呼んだ。


「なぜだ」


「分かりませぬ」


「また分からぬか」


「はい」


「尾張織田は、阿蘇にとって何だ」


「遠国の一勢力にすぎませぬ」


「ならば、型通りに遇すればよい」


「そのはずにございます」


「だが、会った」


「はい」


 長慶は、指先で膝を一度だけ叩いた。


 軽い音だった。


「織田三郎は、何者だ」


「うつけと呼ばれております。尾張織田信秀の嫡男。奇矯、粗暴、礼を欠く。されど、津島や熱田の商いを見る目はあると聞きます」


「商いか」


「はい」


「阿蘇が見たのは、そこか」


「あるいは」


 久秀は慎重に言葉を選んだ。


「阿蘇惟種は、織田家ではなく、織田三郎そのものを見たのやもしれませぬ」


 長慶は、わずかに笑った。


「遠国のうつけに、か」


「はい」


「阿蘇の鬼童が、祝言の後に」


「はい」


「それを軽く見るわけにはいかぬな」


 信長が恐ろしいのではない。


 阿蘇惟種が、信長を見たことが恐ろしい。


 そこを、長慶はすぐに理解した。


「松永」


「は」


「尾張を見る」


「織田を、でございますか」


「違う」


 長慶は短く言った。


「阿蘇の糸が、尾張で何を絡め取るかを見る」


 久秀は、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


「津島、熱田、堺。荷の流れを見よ。阿蘇の商人が尾張へ入るなら、必ず銭と紙が動く。鉄砲や火薬だけを見るな。帳を見よ」


「帳にございますか」


「阿蘇は帳で国を縛る家だ」


 長慶は、思い出すように言った。


 府内の乱が、燃え広がらなかった。


 大友の名を残し、旧臣を分け、民を動かさず、理を握った。


 その報せは、すでに長慶のもとへ届いている。


「槍より先に、帳が来る」


 長慶は言った。


「尾張へ帳が入れば、織田三郎は変わる」


「はっ」


「斎藤にも、今川にも、尾張の内にも目を置け。だが、騒ぐな」


「なぜでございます」


「今騒げば、こちらが恐れていると見える」


 長慶は冷静だった。


「尾張の若者を三好が恐れるなど、馬鹿げている。だが、阿蘇が見た火を放置するのも馬鹿だ」


 久秀は、わずかに口元を動かした。


「では、恐れず、侮らず」


「そうだ」


 長慶は頷いた。


「火種は、踏めば消えるものと、踏めば足に燃え移るものがある」


 久秀は、阿蘇の夜空を思い出した。


 火が空へ上がった。


 皆が見上げた。


 だが、阿蘇の者だけは、火の落ちる先を見ていた。


 阿蘇惟種は、尾張に火を置いたのかもしれない。


     ◇


「方針を定める」


 長慶は言った。


 久秀は姿勢を正した。


「阿蘇とは、今は争わぬ」


「はっ」


「畿内に兵を入れさせるな。だが、敵にもするな」


「はい」


「公方様は丁重に扱う」


 久秀の目がわずかに動いた。


「公方様を、でございますか」


「そうだ」


 長慶は淡々と言った。


「阿蘇は幕府を欲せぬ。だが、公方様を気に入っておる。ならば、公方様を粗略にすれば、阿蘇に口実を与える」


「御意」


「公方様は京におわす。面目は立てる。だが、政と兵は三好が握る」


「自由には」


「させぬ」


 長慶の答えは早かった。


「丁重に囲う」


 久秀は、深く頷いた。


 丁重に囲う。


 それは三好らしい言葉だった。


 剥き出しの脅しではない。


 礼の形を取りながら、実を握る。


「幕府は壊さぬ」


 長慶は続けた。


「少なくとも、今は」


「幕府を」


「残す」


「されど」


「分かっておる。わしも、幕府をありがたがっておるわけではない」


 長慶は、少しだけ冷えた笑みを浮かべた。


「だが、幕府が消えれば、空白ができる。空白には、誰かが入る」


「阿蘇が」


「あるいは、阿蘇が使う誰かが」


 久秀の脳裏に、織田三郎の名が浮かんだ。


 尾張の火。


 阿蘇が置いたかもしれぬ火。


「ならば、幕府は残す。中身は三好が握る。公方様の面目は立て、阿蘇の介入の口実を消す」


「はっ」


「堺を見よ」


「阿蘇商人にございますな」


「禁じるな」


 久秀は顔を上げた。


「禁じませぬか」


「禁じれば、堺は不満を持つ。商人は、利を塞ぐ者を嫌う」


「では、許す」


「許す。だが、見る」


 長慶は言った。


「荷を見よ。人を見よ。誰が玻璃を買い、誰が火薬を欲し、誰が阿蘇の紙を扱い、誰が尾張へ流すかを見よ」


「承知」


「阿蘇の技は盗め」


 久秀は、そこでわずかに笑った。


「それは、得意にございます」


「だろうな」


 長慶も少しだけ笑った。


「だが、技だけだ」


「制度は入れぬ」


「そうだ」


 長慶は声を落とした。


「阿蘇の技は欲しい。筒も、船も、玻璃も、氷の仕掛けも、火薬の扱いも欲しい。だが、阿蘇の政をそのまま入れれば、三好の腹が裂ける」


「国人、寺社、商人、家臣団」


「すべてが揺れる」


 長慶は続けた。


「阿蘇は民を直接見る家だ。帳で人を数え、蔵を改め、道に灯を置き、商人を太らせる。よい政だろう。だが、よい政だからこそ危うい」


 久秀は頷いた。


「三好の下にある者が、阿蘇式を望みますな」


「そうだ」


 長慶の目は冷静だった。


「民が望む政ほど、支配者には毒になる時がある」


 久秀は、その言葉を胸に刻んだ。


 長慶は、阿蘇をただ恐れているのではない。


 見抜いている。


 阿蘇の恐ろしさは、兵ではない。


 民がそちらを向くことだ。


     ◇


「阿蘇は九州へ戻す」


 長慶は言った。


「戻す、でございますか」


「そうだ。朝廷にも幕府にも、そういう形を取らせる」


「九州静謐の任」


「うむ」


 長慶は頷いた。


「阿蘇殿は九州を治める重き役を担う。畿内の静謐は三好が支える。互いに分を守る。それが天下の安寧である」


「きれいな言葉にございます」


「きれいな言葉はよく効く」


「阿蘇も、表向きは拒みにくい」


「畿内に興味がないなら、なおさらな」


 久秀は、深く頭を下げた。


 長慶の策は、一本につながっていた。


 敵にせず、入れず、禁じず、見張る。


 技は取る。


 だが、阿蘇そのものは入れない。


「修理大夫様」


「何だ」


「それで、阿蘇は止まりましょうか」


 長慶は、しばらく答えなかった。


 庭の方へ目を向ける。


 京の庭は整っている。


 石があり、苔があり、松がある。


 水の音もある。


 だが、阿蘇の夜空に咲いた火はない。


 久秀は、そう思った。


「止まるかどうかは分からぬ」


 やがて、長慶が言った。


「だが、今こちらから動けば、阿蘇を畿内へ呼び込む」


「はい」


「ならば、今は呼ばぬことが勝ちだ」


 久秀は、静かに頭を下げた。


「御意」


「松永」


「は」


「阿蘇を見よ」


「はい」


「品ではない。人を見よ。船ではない。港を見よ。菓子ではない。冷やす仕組みを見よ。火ではない。火を祝いに変える心を見よ」


 長慶の声は静かだった。


「そして、惟種が何を欲しておるのかを見よ」


 久秀は、しばらく顔を上げられなかった。


 何を欲しているのか。


 それが分からない。


 京では測れない。


 官位では測れない。


 所領では測れない。


 幕府でも測れない。


 阿蘇惟種は、何を見ている。


 民か。

 国か。

 天下か。


 それとも、久秀たちにはまだ名もない何かか。


「承知いたしました」


 久秀は、ようやく答えた。


     ◇


 その夜、久秀は自らの宿所へ戻った。


 火は小さく、灯は揺れている。


 阿蘇の灯とは違った。


 阿蘇の館では、夜の道に灯が置かれていた。


 客のために。


 警固のために。


 火事と悪事を見逃さぬために。


 京にも灯はある。


 だが、阿蘇の灯は意味が違う。


 夜を飾るためではない。


 夜を治めるための灯だった。


 久秀は、座ったまま目を閉じた。


 玻璃。

 氷菓子。

 祝砲。

 火の花。

 静かな兵。

 商人の目。

 公方様の笑み。


 惟種の困った顔。


 そして、祝言の後に呼ばれた織田三郎。


 すべてが、一つの絵の中に入っているようで、まだ形にならない。


 ただ、一つだけ分かる。


 阿蘇は、畿内を欲していない。


 少なくとも、今は。


 だが、それは安心にはならない。


 畿内を欲していない者が、畿内を変えぬとは限らない。


「京で満たせる欲を、持っていないだけか」


 久秀は、誰にともなく呟いた。


 その言葉は、夜の中へ落ちた。


 返事はない。


 だが、阿蘇の夜空に咲いた火だけが、まぶたの裏でまだ消えなかった。


     ◇


 翌朝。


 三好長慶のもとから、いくつかの文が出た。


 堺へ。

 兵庫へ。

 淡路へ。

 近江へ。

 尾張筋を知る商人へ。


 文面は、いずれも穏やかだった。


 阿蘇を敵とするものではない。


 織田を咎めるものでもない。


 公方様の面目を立て、商いを安んじ、海路の乱れを戒めるだけの文である。


 だが、その裏で目が動く。


 荷を見る目。

 人を見る目。

 噂を見る目。

 帳を見る目。


 三好は、阿蘇と戦わないことを決めた。


 同時に、阿蘇を見続けることも決めた。


 久秀は、その文の控えを見ながら思った。


 戦わぬというのは、安心ではない。


 刀を抜かぬというだけで、戦は始まっている。


 阿蘇は祝言で戦をした。


 ならば三好も、礼と文と商いで戦う。


 その先に、いつか火が上がるかは分からない。


 だが、火種はもう置かれている。


 九州に。

 畿内に。


 そして、尾張に。


 久秀は、筆を取った。


 尾張織田。

 津島。

 熱田。

 織田三郎信長。


 それらの名を、静かに書きつける。


 まだ小さい火である。


 だが、阿蘇惟種が祝言の夜にわざわざ見た火だ。


 小さいまま終わると考えるほど、久秀は愚かではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
織田側、三好側からの視点で書かれているが、どちらも阿蘇に対する評価が同じで「市でこざる」は、正直ないかなと。 視点を変えても内容が同じだと、物語が薄っぺらい感じになってしまう。三者三様の評価を別視点で…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。