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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百四十九話 九州を太らせる

 祝言の熱が、少しずつ阿蘇の館から引いていく。


 来賓の多くは帰路につき、残った者たちも、それぞれの宿所で荷をまとめ始めていた。


 だが、阿蘇は休めない。


 祝言は終わった。


 だが、祝言によって始まったものがある。


 島津は阿蘇の内へ入った。

 九州の南は、島津が支える形となった。

 大友は名を残し、龍造寺も残した。

 相良、名和、鍋島、旧大友の者たちも、それぞれ新しい立場を持つ。


 ならば、決めねばならない。


 これから九州を、どう治めるかを。


     ◇


 評定の場には、主だった者たちが集められた。


 阿蘇惟豊。

 阿蘇惟種。

 甲斐宗運。

 甲斐親英。

 田代宗傳、北里政久をはじめとする阿蘇の重臣たち。


 島津貴久。

 日新斎。


 相良晴広。

 名和行興。

 龍造寺家宗。

 鍋島信房。

 鍋島種茂。


 さらに、旧大友方からは吉弘、吉岡、臼杵の名代も控えている。


 龍造寺家宗は、まだ顔色が悪かった。


 隆信に斬られた傷は塞がっている。

 だが、長く座るには苦しげで、背筋もわずかに硬い。


 その背後に、鍋島信房が控えていた。


 信房の顔は厳しい。

 だが、家宗を見る目には、以前よりも深い責任が宿っている。


 種茂は少し離れた位置で、複雑な顔をしていた。


 龍造寺隆信は死んだ。

 家宗は生きた。

 龍造寺は残った。


 だが、元通りではない。


 残された家は、これから新しい形で立たねばならない。


     ◇


 惟豊が最初に口を開いた。


「まず、皆に伝える」


 その一言で、座が静まった。


「これより阿蘇は、惟種を前面に出す」


 誰も大きく驚かなかった。


 島津貴久は静かに頷き、日新斎は目を伏せた。

 相良晴広も、名和も、鍋島信房も、表情を変えない。


 むしろ、そうであろうな、という空気だった。


 すでに阿蘇を動かしているのは惟種である。

 皆、それを知っている。


 惟豊は続けた。


「わしは、当主としての名と重しは残す。だが、政、兵、銭、人の差配は、少しずつ惟種へ渡す」


 惟種は、静かに頭を下げた。


「父上」


「催事、面会、諸家との顔つなぎ。そうしたものは、わしも続ける」


 惟豊は淡々と言った。


「隠居というには早い。だが、御隠居に近い立場になると思え」


 宗運が深く頭を下げる。


「承知しました」


 日新斎が、穏やかに笑った。


「なるほど。火を前へ出し、山は後ろに控えるということですな」


 惟豊は少しだけ口元を動かした。


「火が燃えすぎぬよう、山も見ておく」


「それは大事にございます」


 惟種は、少しだけ嫌そうな顔をした。


「皆、わしを火扱いする」


 宗運がすぐに言った。


「昨日、尾張の火を拾われた方が何を申されますか」


「拾ったわけではない」


「呼びました」


「……そうだったな」


 座に、わずかに笑いが漏れた。


 重い評定の始まりに、少しだけ空気が緩んだ。


     ◇


 惟種は、広げられた九州の地図を見下ろした。


「ひとつ、先に定める」


 その声で、座が再び静まった。


「これより先、九州に独立して勝手に兵を動かす家は置かぬ」


 場の空気が変わった。


 島津。

 相良。

 名和。

 龍造寺。

 大友。


 名は残る。

 家も残る。

 だが、その意味が変わる。


 惟種は、地図の上に手を置いた。


「島津は島津として残す。相良は相良として残す。龍造寺も、大友も、名和も残す」


 一拍置いた。


「されど、各々が勝手に兵を出し、勝手に税を取り、勝手に裁き、勝手に他国と結ぶ時代は終わりだ」


 誰も口を挟まない。


 惟種は続けた。


「九州は、阿蘇家中として治める」


 その言葉は、静かだった。


 だが、重かった。


 それは同盟ではない。

 かといって、ただの降伏でもない。


 家を残したまま、国の形を変えられるということである。


 だが、座に異論は出なかった。


 出せなかったのではない。

 出す意味がなかった。


 相良も、名和も、すでに分かっている。

 阿蘇の外から阿蘇を真似ることは、できない。


 帳面を整えるにも、人がいる。

 硝石を作るにも、火薬を扱うにも、銭と職人と守るべき場がいる。

 道を通し、蔵を建て、港を締め、商いを太らせるにも、ひとつの家だけでは足りない。


 阿蘇のやり方は、道具だけ盗めば真似られるものではなかった。

 人、銭、法度、帳面、兵、商人、寺、職人。

 それらを束ねる仕組みそのものが、阿蘇の力であった。


 ならば、外に立って真似損なうより、内に入ってその仕組みを使う方がよい。


 それは屈辱ではない。

 少なくとも、家を残したい者にとっては、生き残る道だった。


 龍造寺は内から裂けたばかりである。

 鍋島は、その裂け目を縫い合わせるだけで精一杯だった。

 旧大友の者たちは、名を残されるだけでも十分な立場である。


 そして島津だけは、なお別格の家だった。


 だが、その島津も、加世を阿蘇の正室として送り、南九州差配という役を得る。

 阿蘇の外で牙を剥くより、阿蘇の内で南を預かる方が、はるかに実がある。


 日新斎は、座の空気を見ていた。


 不満がないわけではない。

 面目もある。

 家の誇りもある。


 だが、不満と離反は別である。


 阿蘇はすでに、硝石を作り、火薬を蓄え、大筒を据え、南蛮式の大船を造っている。

 硝石で冷やした氷菓子を出し、石炭の灯をともして夜を明るくし、田を増やし、商いを太らせ、病にまで帳面を伸ばしている。


 その上に、朝廷と幕府の名がある。


 ここで背けば、ただ阿蘇に逆らうだけではない。

 朝廷の筋に背き、幕府の筋に背き、九州の商いから外れ、火薬と医と銭の流れを失う。


 しかも、勝てぬ。


 勝てぬ謀反ほど、愚かなものはない。


     ◇


 惟種は言った。


「家名を奪うのではない。役目を与える。土地を知る者が、その土地を治める。だが、阿蘇の法度、阿蘇の帳面、阿蘇の軍令、阿蘇の裁きの下で治める」


 宗運が、地図の上に札を置いていく。


 南九州。

 肥後南方。

 海辺。

 肥前。

 府内、豊後。


「日々の村裁き、小さな争い、山川の差配、寺社との折衝、旧臣の取り立て。そうしたものまで、いちいち阿蘇が奪うつもりはない」


 惟種は、座を見渡した。


「土地のことは、土地を知る者が一番よく分かる」


 何人かが、静かに頷いた。


「だが、死罪、所領争い、他家に及ぶ訴え、兵の動き、蔵の開閉、港の大きな荷、他国との文。これは阿蘇へ上げよ」


 宗運が続けた。


「任せることと、勝手にさせることは違います」


 その言葉に、座の空気が固まった。


 惟種は言った。


「阿蘇の法度に従う家には、道を通す。蔵を貸す。医者を送る。商人を入れる。火薬を配る。飢えれば米を回す」


 そこで、声を少し低くする。


「だが、法度を破る家には、それらを渡さぬ。兵を向ける前に、まず国が痩せる」


 誰も笑わなかった。


 それが脅しではなく、事実だと分かったからである。


 惟種は言った。


「島津貴久殿を、南九州差配に任ずる。薩摩、大隅、日向の安定、伊東・肝付旧領の再編、南の軍事と統治を見よ」


 貴久は、深く頭を下げた。


「島津は、南九州差配の任、謹んで拝命いたします」


 それは同盟者の返答ではなかった。


 阿蘇の内で役を受ける者の返答であった。


 だが、島津の面目を捨てた返答でもない。


 日新斎も続いた。


「島津は、阿蘇の下に置かれるのではございませぬ」


 座の者たちの視線が日新斎へ向く。


 日新斎は、静かに言った。


「阿蘇の内に入り、南を支えまする」


 貴久も頷いた。


「そのための婚儀にございます」


 惟種は、貴久と日新斎を見た。


「島津の面目は守る」


「ありがたく」


「だが、南の兵を預けることと、九州全軍を島津へ預けることは違う」


「無論にございます」


 貴久はすぐに答えた。


「九州全体の軍令は阿蘇本家より出る。島津は南を支える柱として働きます」


「それでよい」


 惟種は頷いた。


 これで島津の立場は明確になった。


 阿蘇に潰された家ではない。

 阿蘇に並び立つ別国でもない。


 阿蘇の内へ入り、南を支える家である。


 島津にとっても、それは悪い話ではなかった。


 南九州差配とは、島津が南を奪われることではない。

 阿蘇の名と力を背に、南を預かるということである。


 外に立てば、阿蘇と競わねばならない。

 内に入れば、南の柱として立てる。


 日新斎は、その差を見誤るほど若くはなかった。


     ◇


 惟種は次に、相良晴広を見た。


「相良晴広殿を、肥後南方差配に任ずる。人吉、球磨、南肥後、山道、川筋、薩摩へ通じる道を見よ」


 相良晴広は、深く頭を下げた。


「相良、肥後南方差配の任、謹んで承ります」


 その返答に、迷いは少なかった。


 相良は、阿蘇に近い。

 近いからこそ、阿蘇の力を見てきた。


 阿蘇のやり方を外から真似ることはできぬ。

 だが、阿蘇の内に入れば、山と川を治める相良の力は活きる。


 晴広は、それを選んだ。


「山と川は、国の背骨だ。そこが乱れれば、人も米も動かぬ」


「心得ました」


 惟種は名和の当主へ向く。


「名和を海辺差配に任ずる。八代、宇土、海辺の道、船の出入りを見よ。荷に紛れる間者、港に潜む商人、勝手な船出を許すな」


 名和の当主も、深く頭を下げる。


「海辺差配の任、拝命いたします」


 名和にも、異論はなかった。


 海を持つ家であればこそ、分かる。

 阿蘇の船、阿蘇の帳面、阿蘇の火薬、阿蘇の商人。

 それらの流れから外れた海辺など、ただの危うい浜でしかない。


 阿蘇に縛られることより、阿蘇の外に置かれることの方が恐ろしい。


「海は銭を運ぶ。だが、敵も運ぶ」


「承知しております」


 次に、龍造寺家宗と鍋島信房である。


 惟種は、傷の癒えきらぬ家宗を見た。


「龍造寺家宗殿、鍋島信房殿」


「はっ」


 家宗は、やや苦しげに頭を下げた。


 信房も深く頭を下げる。


「龍造寺と鍋島を、肥前差配に任ずる。肥前の再建、有馬・大村残党の押さえ、港と道の警固を見よ」


 家宗は、静かに言った。


「龍造寺は、阿蘇の裁きに従います。肥前差配の任、謹んで拝命いたします」


 信房が続けた。


「鍋島は、龍造寺を支え、肥前を乱さぬよう努めます」


 惟種は頷いた。


「隆信は死んだ。だが、龍造寺を焼くつもりはない」


 家宗の肩が、わずかに震えた。


「家宗殿は傷を癒せ。信房殿は龍造寺を支えよ。種茂は、阿蘇と龍造寺の間をつなぐ」


 種茂が頭を下げた。


「はっ」


 龍造寺は、もはや勝手に兵を動かす家ではいられない。


 だが、それは家を奪われるということでもなかった。

 阿蘇の下で肥前を預かる。

 その形でなら、龍造寺は残る。


 家宗にとって、それは痛みを伴う救いだった。


 惟種は、旧大友方の名代へ視線を移した。


「旧大友の者たちは、隼人を支えよ。府内と豊後は、阿蘇直轄のもとで補佐させる」


 吉弘の名代が頭を下げる。


「承知いたしました」


「大友の名は残す。だが、兵と蔵は阿蘇が見る。二度と義武のような旗を立てさせぬ」


 吉岡の名代も頭を下げた。


「異存ございませぬ」


 宗運が静かに言った。


「隼人様を守ること。それが旧大友の者に残された大義にございます」


「はっ」


     ◇


 惟種は、そこで全員を見渡した。


「各方面には、阿蘇目付と勘定役を置く」


 座にわずかな緊張が走る。


 目付。

 勘定役。


 それは、阿蘇の目と手が各家の内へ入るということだった。


「人別帳、村帳、軍役帳、疱瘡帳、蔵の帳。すべて阿蘇へ上げよ」


 誰も反論しなかった。


 反論すれば、面目は立つかもしれない。


 だが、その後に何が残るのか。

 火薬も来ない。

 医者も来ない。

 商人も遠のく。

 阿蘇の船も、蔵も、道も使いにくくなる。


 面目だけで、国は太らない。


 皆、それを知っていた。


 惟種は続ける。


「朝廷、幕府、畿内、大内、南蛮、博多、堺への文は、阿蘇を通す。勝手な軍事同盟、勝手な婚姻、勝手な誓紙は許さぬ」


 名和の当主が息を呑む。


 相良晴広も、わずかに目を伏せた。


 それは、もはや独立した国人ではないという宣言だった。


 しかし、同時に、家を残す道でもある。


 惟種は言った。


「任せることと、勝手にさせることは違う」


 宗運が続けた。


「阿蘇の法度に従う限り、家名と面目は守ります。所領も、働きに応じて安堵いたします。されど、法度を破り、民を乱し、勝手に兵を動かす者は、差配の任を解きます」


 日新斎が、小さく頷いた。


「分かりやすい」


 貴久も続いた。


「島津は、その筋に従います」


 相良晴広も頭を下げた。


「相良も従います」


 名和、龍造寺、鍋島、旧大友の名代も続く。


 それは、同盟諸侯の返答ではなかった。


 阿蘇家中として、役目を受ける者たちの返答であった。


     ◇


 惟種は、改めて地図へ目を落とした。


「では、これより先の話をする」


 声は若い。


 だが、座の者たちはもう、その若さだけを見てはいない。


「阿蘇は、しばらく大きく外へは動かぬ」


 その言葉に、何人かが顔を上げた。


「三年は、まともに外征へ動けぬと思ってほしい」


 相良晴広が問う。


「三年、でございますか」


「そうだ」


 惟種は頷いた。


「九州は取った。だが、治まったわけではない。戦で勝つことと、国が回ることは違う」


 宗運が地図の上へいくつかの札を置いた。


 府内。

 博多。

 肥後。

 肥前。

 日向。

 大隅。

 人吉。

 八代。

 島津。


「五年だ」


 惟種は言った。


「五年で、九州を阿蘇の手法で回る国にする」


 日新斎が、目を細めた。


「阿蘇の手法とは」


「帳面だ」


 惟種は即答した。


「道だ。蔵だ。港だ。病の帳だ。人の帳だ。裁きの筋だ。兵と米の数え方だ。商人を逃がさず、民を痩せさせず、降る者を使い、乱す者を斬る。その仕組みを九州に行き渡らせる」


 貴久が静かに言う。


「南も、同じく」


「そうだ」


 惟種は貴久を見た。


「島津には南を任せる。だが、阿蘇の法度と帳面の形は通す」


「承知しております」


「民を乱す者、蔵を勝手に開く者、降った者を理由なく斬る者は、阿蘇も黙らぬ」


「心得ております」


 日新斎が、深く頷いた。


「南も、ただ島津が広げればよい時代ではなくなりましたな」


     ◇


 次に、惟種は中央への対応を話した。


「朝廷からは、疱瘡の件で求めが来る」


 その言葉に、座が静まる。


「阿蘇はこれを進める。だが、京に持っていく前に、まず九州で形を作る」


 宗運が補足した。


「疱瘡帳、病人の隔離、看病役の分け方、衣や寝具の扱い、薬草と薬品の集積、医者の育成。これを各地へ広げます」


 惟種が続ける。


「それに加えて、牛馬の疱を調べる。厩、馬市、牛を多く飼う地、乳を扱う者。疱瘡にかかって軽く済んだ者。すべて記録する」


 日新斎が、感心したように息を吐いた。


「病まで帳に取るか」


「取る」


 惟種は言った。


「見えぬ敵ほど、数えねばならぬ」


 相良晴広が、静かに頷いた。


「それは、各地の寺にも関わりますな」


「そうだ」


 惟種は答えた。


「寺を敵に回すつもりはない。病人を看る者、死者を送る者、民へ言葉を届ける者として、寺の力は必要だ」


 宗運が続けた。


「ただし、病を隠す寺、流行を知りながら人を動かす寺は罰します」


「寺の領分は侵さず、しかし病では従わせる」


 日新斎が呟いた。


「難しゅうございますな」


「難しい」


 惟種はあっさり認めた。


「だから、三年は外へ動けぬ」


     ◇


 幕府の話になると、惟種の顔が少し曇った。


「公方様は、たぶんうるさい」


 宗運が、何とも言えぬ顔で懐から文を出した。


「すでに文が来ております」


「早いな」


「早うございます」


「何と」


「上洛を望む、と」


 惟種は、深く息を吐いた。


「やはりな」


 貴久が、少しだけ笑いをこらえた。


 日新斎は遠慮なく笑った。


 惟種は宗運を見る。


「京取次でいなせ」


「そのための京取次にございます」


「阿蘇が動くのは、九州に関わる件、公方様の御身に危難がある件、それと朝廷の大事に限る」


「そのように文面を整えます」


「公方様を傷つけぬように」


「承知しております」


 惟種は、心の底から思った。


 義藤は嫌いではない。


 だが、本当にうるさい。


     ◇


 次は、人の帳であった。


 惟種は言った。


「人別帳を進める」


 座が少しざわついた。


「村ごと、町ごとに家数を取り、人を記す。名寄帳、村帳、役帳を整える。逃げた者、来た者、死んだ者、生まれた者を数える」


 相良晴広が問う。


「それは、年貢のためにございますか」


「それもある」


 惟種は隠さなかった。


「だが、それだけではない。間者を減らすためでもある。流民を見つけるためでもある。病の広がりを見るためでもある。兵を無理なく出すためでもある」


 名和の当主が、ゆっくり頷いた。


「海辺では、人がよく出入りいたします」


「だからこそだ」


 宗運が続ける。


「港の宿、商人の泊まり、職人の移動。すべて一度に縛れば商いが死にます。ゆえに、流れは止めず、名を残す」


「流れを止めず、名を残す」


 鍋島信房が呟く。


「間者対策でございますな」


「そうだ」


 惟種は頷いた。


「祝言で阿蘇は見せた。見せたからには、盗みに来る者も増える」


 宗運の声が少し冷えた。


「火薬場、玻璃の工房、船の作り場、疱瘡の記録、氷室、薬の倉。これらには立ち入りを制限します」


 貴久が言った。


「南でも同じく進めます」


「頼む」


 惟種は答えた。


「技は国を太らせる。だが、漏れれば国を焼く」


     ◇


 学校の話になると、何人かが不思議そうな顔をした。


「寺子屋を広げる」


 惟種は言った。


「だが、寺の領分を侵さぬ。寺の力を借りる。読み書き、数、帳面、衛生、農具の扱い、商いの基礎。まずは学べる者から学ばせる」


 日新斎が問う。


「武士だけではなく?」


「商人や職人の子もだ」


 座がまた少しざわついた。


 惟種は構わず続けた。


「数を数えられる者が増えれば、帳面は正しくなる。字が読める者が増えれば、触れが届く。薬の使い方を読める者がいれば、人が助かる」


「寺は嫌がりませぬか」


 相良が問う。


「嫌がるところもある」


 惟種は答えた。


「だから、寺を潰して作るのではない。寺子屋の延長だ。寺に役を与え、銭も出す。寺が民を教えるなら、阿蘇はそれを支える」


 宗運が補う。


「ただし、阿蘇の帳面に背く教え、病を隠す教え、民を乱す教えは許しませぬ」


「甘いようで、厳しい」


 日新斎が笑う。


 惟種は肩をすくめた。


「甘さを支える仕組みが要る」


 その言葉に、宗運だけが少しだけ目を動かした。


 昨夜、尾張の火に語った言葉である。


     ◇


 内政の話は、さらに続いた。


 道を直す。

 橋をかける。

 水路を掘る。

 蔵を増やす。

 港の荷改めを整える。

 府内と博多を結ぶ商いを太くする。

 南では島津が日向と大隅を整え、北では阿蘇が肥前と豊後を締める。

 相良、名和、龍造寺は、それぞれの差配地を安定させる。


 だが、それは各家が勝手に国を作ることではない。


 阿蘇の法度の下で、阿蘇の帳面を使い、阿蘇の目付に見られながら、それぞれの地を預かるということである。


 惟種は最後に言った。


「三年は、根を張る」


 座の者たちは黙って聞いていた。


「五年で、九州を太らせる」


 その言葉には、不思議な重みがあった。


 戦で取った地を、ただ支配するのではない。


 太らせる。


 米を増やし、人を増やし、道を通し、病を減らし、商いを回す。


 それは、すぐに手柄になる話ではない。

 首も取れない。

 武名も上がらない。


 だが、それができれば、九州はもう簡単には崩れない。


 日新斎が、ぽつりと言った。


「阿蘇は、戦の後が恐ろしい」


 惟種は、日新斎を見た。


「戦の後に国が痩せれば、勝った意味がありません」


「まことに」


 日新斎は深く頷いた。


     ◇


 評定が終わりに近づいた時、宗運が一つの文を取り出した。


「最後に、周防、長門について」


 座の空気が変わる。


 大内。


 祝言には来なかった家である。


 惟種が言った。


「大内義隆殿か」


「はい」


 宗運は文を広げた。


「山口の内に、不穏がございます」


「荒れているのか」


「いえ」


 宗運は首を振った。


「まだ、荒れてはおりませぬ」


 そこで言葉を切る。


「ですが、荒れる兆しがございます」


 座が静まった。


 陶隆房。


 その名を、誰もすぐには口にしなかった。


 阿蘇は陶とも筋がある。

 大内義隆とも友誼がある。


 軽々しく、どちらかを敵とは言えない。


 宗運は慎重に続けた。


「文治を重んじる者、武を求める者。その間の溝が深うございます。今はまだ火ではない。ですが、乾いた薪が積まれております」


 惟種は、地図の西を見た。


 周防。

 長門。

 山口。

 博多へつながる海。


 九州の外だ。


 だが、無関係ではない。


 大内が乱れれば、博多が揺れる。

 博多が揺れれば、阿蘇の商いも揺れる。

 さらに朝廷、幕府、西国の勢力図も変わる。


 貴久が静かに言った。


「大内が崩れれば、西の海が揺れますな」


「そうだ」


 惟種は頷いた。


「ただし、今はまだ動かぬ」


「三年は内を固める、でございますな」


「そうだ」


 惟種の声は重かった。


「だが、目は離すな。博多の商人、寺、海の者、山口へ出入りする者から、米、銭、武具、兵糧の動きを拾え」


 宗運が深く頭を下げる。


「承知しました」


「大内にも、陶にも、礼は欠くな」


「はい」


「火がつく前から水をかければ、こちらが火付けに見える。だが、燃えた後で慌てれば、博多まで焼ける」


 日新斎が、低く笑った。


「動かぬと言いながら、見てはいる」


「見ているだけだ」


 惟種は言った。


「今はな」


     ◇


 評定は終わった。


 だが、誰も軽い顔ではなかった。


 九州を取った。

 祝言も済んだ。

 島津も内に入った。


 だが、それは終わりではない。


 始まりである。


 人を数える。

 病を数える。

 米を数える。

 道を直す。

 寺を使う。

 学校を作る。

 間者を防ぐ。

 機密を守る。

 京をいなす。

 大内を見張る。


 戦より地味で、戦より長い仕事が、これから始まる。


 惟種は、評定の場を出る前に、もう一度地図を見た。


 九州全土が、そこに描かれている。


 広い。


 そして、まだ荒い。


「五年」


 惟種は小さく呟いた。


 宗運が隣で言う。


「短うございますな」


「分かっている」


「ですが、若君ならそう申すと思っておりました」


「なら止めろ」


「止めても、聞かれませぬので」


 惟種は何も言えなかった。

今回の話で、島津は阿蘇に臣従し、阿蘇家中として南九州を預かる立場になりました。

ただ、家の上が腹を括ったからといって、下の者たちまですぐに納得するわけではありません。旧勢力、土豪、港の者、そして島津の末端にも、それぞれの面目と事情があります。

阿蘇の手が南へ入る時、当然ながら火種は生まれます。

では、その火を惟種は阿蘇家はどう消すのか。

刀だけではない、阿蘇らしいやり方を書いていく予定です。

次回も楽しみにしていただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
天然痘で亡んだ文明と言えばアステカ・インカですが持ち込んだスペイン人に対して全く抵抗力がなかった事から牛馬を飼育する文明にある程度抵抗力があった事は分かっていたみたいです。剥がれた瘡蓋から数年後まで感…
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