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バレンタインの言い訳(ある生徒の日記より)  作者: 本好きひよこ


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バレンタインの言い訳

 バレンタインに菓子を持ち込んで何が悪いんだ!という主張を、ずいぶん気取って書いたものです。

(いってしまえば長ったるい言い訳だ。)

 きっかけは、至極くだらないものだった。ただ、己が犯した罪について訊かれ、くだらないと考えて無視した。何が悪いのだ、と反論まで考えて、その上で無視することにした。

 なんとなく、社会に屈してしまうようで厭だったのである。規則に則って、秩序の中で、これからずっと生きていかなければならないのだ、と暗に示されているようで、気に食わなかったのである。思ってもいない反省の言葉を並べて何になる?何が変わる?そう思わずにはいられない。意義を見出せない。

 だから私は今なお、その罪自体を、糾弾されている罪自体を、罪であると思っていない。そのこと自体に罪悪感を抱いたり、悔いたりはしていない。

 しかしながら、どこか胸にしこりがあるようには感じている。罪悪感という感情自体はもっている。だがそれはその罪自体に対するものではない。では、一体なんなのだろうか。

 友がおとなしく糾弾されたからか。まるでその背が、

「お前は卑怯者なのだ。」

とでも言っているようだったからか。高尚な理由を並べ立てても、怒られたくないがゆえに逃げたという思いがあるのだろうか。

 私は、その罪自体によって糾弾されるいわれはないと思っている。それが規則でだめだと言われていようと、いいじゃないかと思っている。繰り返すが、つまり私はその罪自体を悪いものだとは考えない。

 ただ、糾弾を「無視する」という己の選択に、罪悪感を抱いているのではなかろうか。それが、いろいろと考えてみた結果だった。

 無視するということはすなわち、戦闘放棄と同じである。そして、その対象をより高いところから見下ろして、対応する価値なしと断じているということでもある。

 その選択は、果たして「誠実」であったのか。糾弾する大人に対して、ではない。そのくだらなすぎる罪の、是非に対して、つまりはその論自体に対してである。私はそれに、真剣に向き合ったのか。いや、そもそも真剣に向き合う必要があったのか。

 大人からの評価は未来に必要である。したがって、このことに関しては、大人にしたがって怒られに行くのが「処世術」であり、正解だった。

 くだらないと見下した存在の評価が必要、つまり自分はその存在よりも下、と社会的には言われている。当たり前であるが。

 すでに述べたように、私はこれが気に食わなかったのである。とにかく厭だった。別に、対象の大人が嫌いなわけではない。組織をまとめる者としては、まあそれも一つの解なのだろう。うえからの圧力が、面倒臭いのだろう。

 ただそれを理解する一方で、それがどうしようもなく厭なのである。たとえそれが、善良なる苦労人を少しばかり困らせることになろうと、自分の評価が少し下がろうと、厭だったのである。それに屈した己をつくるのが、ただ素直に反省するいいこちゃんに成り下がるのが、どうしようもなく厭だったのである。

 かなりわかりづらいことを述べてきた。残念ながら、私自身よくわからない。ただ、厭なのである。


 そしてまた、このようなことを述べながらも、私は明日言い訳をしようと考えている。そういう私も存在する。

 なぜかといえば、先に述べた罪悪感と、そしてこの問題が起こってから全ての人の目が怖かったからである。「お前は逃げた」「罪人だ」と訴えているようにみえて、まあ多分気のせいだろうから、私の意識の問題だろう。罪悪感が、そういう気にさせていると考えるのが自然だ。蝶を盗んだすぐ後の、誰もが知るあの少年のような感じだ。


 だから、わからないのである。私は、社会的な正解者になりたいのか。それとも、自分自身にとっての正解者になりたいのか。

 極論、怒られにいっていれば楽だったのだろう。不特定多数の中の一人として目立たず怒られ、少しばかり不快な時間を過ごしながら、しかしどこかすっきりとして、またどこか気持ちの悪いまま思ってもいない誓いの言葉を述べるのだ。私が悪かったです、もうしません、と。

 そうしたい自分がいるようで、しかし「ダサい」だとか、「くだらない」だとかいう自分もいる。大人に屈していいのか?お前も、処世術を扱う者の一人に成り下がっていいのか?と。思ってもいない言葉を並べる、真の嘘つきになっていいのか?と。

 怒られていいのは、きっと素直な者だけだ。ああと頷き、改心できる、清廉潔白な人間だけだ。それ以外は怒ったって意味がない。残念ながら私はそちら側であるから、反骨精神の塊であるから、こうやって反論の言葉を書き連ねているのである。大人からすれば言い訳に過ぎないこれを、書いているのである。


 私は悪人が好きだ。悪役が好きだ。既存の正義に自らの意志を持って立ち向かうその気概が、それを貫き通す強さが好きだ。

 しかし、今の私はそうではない。行かないという選択をした時点で、わたしは悪党ではない、聖人でもない。聖人なんてくそくらえだが、悪党にはなりたい。 しかし悪党というのは、無視するのではなく立ち向かうのである。世の正義に、己の正義を持って立ち向かうのである。

 私はそれをしていない、しようとしていない。

 立ち向かうのは、それはそれでダサくも見えるのだろう。しかし、こうやってほぼ誰にも見せないつもりで本音を書き連ねている私は、それよりもダサい。悪党のダサさは確かに格好悪いが、しかし悪党自身からすれば格好いいし、私から見ても格好いい。

 しかし、貫き通す悪党足らず、簡単に折れる聖者たらず、その中間で揺れ続け、うまいところで落とし前をつけようとしている私は、格好悪い。私から見ても、他人から見ても、格好悪い。

 私は明日、理由を述べるべきなのだろうか。怒られに行かなかった理由を、正直に述べるべきなのだろうか。そうやって、聖者になるべきなのだろうか。

 それとも、己の選択を貫き通して、反論するなり無視を突き通すなりして、私の考えを示すべきか。


 至極滑稽で、くだらない話だ。罪の内容も滑稽で、そして私の悩み事も滑稽で、滑稽だらけのこの文章。最後まで読めたあなたは、心底すごいと思う。なにしろ書いた私でさえ、途中でリタイアしたくなるから。まあ、それは個人的な感情からくるものなのかもしれないが。エッセイとも、作文とも、なんともいえぬボロボロのこれは、一体何なのだろうなぁ。


 笑えるのは、その罪の内容というのが、「学校で菓子を食べた」(それも一応、昼食の時間に)であるということ。そしてその日が、バレンタインであったということ。笑えてこないだろうか?

 規則とは何なのだろう。罪とは何なのだろう。案外、くだらない問題にこそ答えが転がっているのだろうか。とりあえず、ここに一つ盛大な反論を置いて、当日の悔いは終わりとしたい。

「規則には例外がつきもの」である。




二日目。

 あの騒動から一日経ち、私は一度学校に行ってきた。結果から言おうか。私は何もしなかった。教師に正直に弁明することも、言い訳することもしなかった。

 まあまず、そもそも機会がなかった。教師に話しかけられる機会が、である。そして第二に、やはり私は怖気付いた。めんどくせぇなぁ、と訴える自分が昨日よりもうるさく囀っていた。

 これで自分の評価は下がるのだろうか、チョコを食べている時、担任と目があった気がするんだよなあ。

 今日のお昼ご飯の時、前に座る担任の目が痛かったような気がするんだよなあ。めんどくさいなぁ。

 今の気持ちを正直に吐露すれば、こんな感じだ。未だ私の中で「こうする」という対応は決まっていない。たぶん、教師の視線に居た堪れなくなれば言い訳を述べるのだろうし、そしてその最中に心の中では「滑稽だ、ダサいぞお前」と誰かが囁くのだろうし。明日の担任の出方次第であろうな。

 ただ、一つ。今の私がヴィランになり得て、しかも無視したという行動を肯定する方法がある。担任と目を合わせて、大胆不敵に笑うことである。明日はそれを目指そうと思う。






少し経ってから。


 かの事件から、数日が経った。これまで書いてきたものを少し見返してみたが、やはり滑稽である。それに、今出てくる「滑稽」は、当日や翌日のそれと違って、どこか冷めている。強がりの言葉ではなく、本当にそれをくだらないと感じて投げ出す言葉だ。

 厭だ、ものすごく。いったい何が?もちろん、自分がそういう言葉を吐いたことが、である。まるで大人になったみたいで、癪に障るではないか。

 しかし、そこについて記すのが主題ではない。ここでは、開き直った後の感想でも書いてやろうと思っていたのである。書き出してみると、自分への愚痴が出たものだから驚いた。不思議なものである。

 さて、前項にて、私は「大胆不敵に笑う」と言った。しかしながら、明確にそのような機会が訪れることはなかった。担任が私にあからさまな疑惑の目を向けることは、なかったのである。

 なので、私は担任ににやりと微笑んでやることにした。相手が訝しんでこずとも、態度で示しておくことぐらいはできる。

 相手が後で私の行動を思い返して、堂々としていればそれで勝ちなのだ。くだらないと思っていることを示せるのだ。

 こうやって強がってみたが、しかし実際にはチクチクとした思いがなかったわけではない。

 いわば、蝶を盗み、挙句壊したというのに、怒鳴られることすらなく悪漢となってしまった彼のような心持ちであった。

 もとより示しているように、罪自体を悔いてはいないし、それで怒ることなどくだらないと思っている。怒られに行ったってどうせ改心などしないのだから、意味がないと思っている。

 ただ、それで己の意を示せたかが不安であったのである。そしてもっといってしまえば、ただの臆病者と目されるのが嫌だったのである。本質として、対して変わらぬというのに。

 今振り返れば、行かないという決断をした時の私の心の大半を示していたのは、正義感ではない。ただの、恐怖心だ。怒られたくないわけでもない、侮辱を受けたくないわけでもない。ただ、怖かった。これといった理由はない、いや、それを言語化することはできない。

 私は罪を悪いとは思わない、怒られに行く必要はないと思う。

 だがそれとは別に、相手をバカらしく思う気持ちとは別に、何かしらの不安があったはずなのである。

 一体何だったのやら、見当がつかないのである。

 


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