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コーデリアは好きに生きることにした  作者: 櫻まど花
コーデリア・レイス、霧の谷にて
9/12

第九話

「オーロラ、ごめんね。今日は一緒に行けないのよ」


 足元で「みゃあ」と不満げに鳴き、ワンピースの裾を甘噛みするオーロラを、コーデリアは屈み込んでそっと宥めた。


「あなたはここで、おじ様とエレンとお留守番していて。……大丈夫、ちゃんとお土産話をたくさん持って帰るから。わたしが今日、何人の人に挨拶できたか、数えておくわ」


 オーロラを抱き上げ、その柔らかな額に一度だけ口づけをしてから、彼女はベッドの上に用意していたバスケットを腕にかけた。

 中には石板と、昨日まで何度も読み返した初級の教本、そしてエレンが「お友達ができたら分け合いなさい」と持たせてくれた、甘い香りのするランチが入っている。


 階段を降りると、玄関ホールにはすでにリーヴァイが立っていた。彼はいつになく真面目な顔で時計を確認していたが、コーデリアの姿を見つけると、口端だけをわずかに持ち上げた。


「ようやく来たね。リボンを結ぶのに一時間もかけたのか? ……まあ、悪くないよ。君が思っているよりは、ずっと普通に見える」


「……普通って、素晴らしい褒め言葉ね。ありがとう、リーヴァイ」


 学校までの道のりは、コーデリアの目にひどく奇妙で、それでいて愛らしく映った。霧の向こうから現れるねじれた街灯は、まるでこちらを覗き込む細長い首の巨人のようだし、道端に咲く濡れた野花は、朝露の瞳で「おはよう」と囁いているように見える。


「ねえ、リーヴァイ。あの木の枝、大きなカマキリの手みたいじゃない?」


「君の想像力は相変わらず忙しいね。ほら、足元が騒がしくなってるぞ」


 コーデリアはハッとして自分の影を見た。彼女の豊かな想像力に呼応するように、影は彼女の意志を離れて勝手に膨らみ、カマキリの鎌のような鋭い形に変化して地面をひっかこうとしていた。


「あっ、ごめんなさい……!」


 慌ててポケットのノートを広げ、頭の中のカマキリを文字にして閉じ込めようとする。リーヴァイは溜息をつきながらもさりげなく彼女の隣を歩き、その背中で影が道行く人の目に触れないよう遮ってくれた。


「落ち着いて。君の頭の中の怪物は、そのノートにだけ住まわせておけばいいんだ」


 やがて霧の向こうに、古びた木造の校舎が見えてきた。扉をくぐり、教室に足を踏み入れた瞬間、コーデリアの全身に突き刺さるような視線が注がれる。


「ねえ、あの子……」


 影が出てる? 揺れてる? 変なの?

 コーデリアは冷たい指先でバスケットの持ち手をぎゅっと握りしめた。今すぐこの場から逃げ出したい衝動を抑え、石のように硬直して俯く。


「見たことない顔だ。新しく来た子?」


「……それより、なんでリーヴァイと一緒にいるの?」


 しかし視線の正体は、彼女が恐れていた怪物への恐怖ではなかった。単に、この閉鎖的なミスト・ヴァレーに現れた見たことのない転校生への純粋な好奇心。

 そして普段はあまりに愛想のないリーヴァイが、知らない女の子を連れて現れたという、学校中の子供たちにとって最大級のゴシップへの関心だったのだ。


「ほら、行くよ。席は空いてるところに座ればいい。窓際がいいなら急げ。人気だぞ」


 リーヴァイはそんな周囲の喧騒などどこ吹く風で、戸惑うコーデリアの肩を軽く小突いて歩き出した。


 初めての授業。コーデリアが緊張とともに開いたのは、まだ手垢のついていない初級の教本だった。ふと周りを見渡すと、同じ年格好の生徒たちは、もっと厚みのある中級の教本を使いこなしている。


(早く、早く追いつかなくちゃ。おじ様に自慢に思ってもらえるくらい、たくさん勉強するわ)


 気負えば気負うほど教本の中の文字は生き物のように動き出し、頭の中ではいくつもの空想が連鎖していく。歴史の年号は古い王国の悲劇へ、文法の例文は異国の騎士の台詞へと、勝手に書き換えられていくのだ。


 休み時間を告げる鐘が鳴った。沸き立つような想像力が指先に溜まり、影が今にも不気味な形を成して床を這い出そうとする。コーデリアは慌ててノートを開き、必死にペンを走らせた。


「……ねえ、それ、あなたが書いたの?」


 不意に頭上から声をかけられ、コーデリアは飛び上がらんばかりに驚いた。気づけば、数人の女の子たちが好奇心に満ちた瞳で彼女のノートを覗き込んでいたのだ。


「物語を書いているのね。なんて美しい描写かしら」


「続きはどうなるの? もしかして、このお城の怪物は……」


 コーデリアの頬がジャムのように赤く染まる。同じ年頃の女の子たちから、こんなにも純粋な賞賛を贈られたのは初めてだった。

 けれどコーデリアが言葉に詰まっていると、輪の外から冷ややかな声が響いた。


「大げさな物語ね。現実にはありもしないことばかり。そんな空想に浸って、授業にも追いつけないなんて。ここは学校よ、おままごとの場じゃないの」


 声の主は気の強そうな焦茶色の髪の少女だった。彼女はくすくすと肩を揺らし、蔑むような視線をコーデリアに向ける。コーデリアはノートを抱え込み、不安に胸を締め付けられた。足元の影が、彼女の動揺に呼応して震え始める。


 ノートのおかげで影を抑えられるようになった。でも普通の女の子は、空想が溢れそうになって、慌てて紙に閉じ込めたりしないの? わたしって、やっぱり変なの?


 コーデリアはそれでも、影が暴走する前に、震える声でどうにか言い返した。


「……想像は大きい方が、世界はもっと楽しく見えるでしょう? 心の中にだけは、誰にも邪魔されない自由な世界があってもいいと思うわ」


 その言葉に、隣にいた少女が加勢するように頷く。


「そうよ、ベアトリス。意地悪はやめて。……どうせあなた、リーヴァイが彼女を送ってきたのが気に入らないだけでしょ?」


「な、なによそれ! 関係ないわよ!」


 言い返すベアトリスの剣幕にコーデリアは肩を縮めたが、それからの昼休みは、まるでおとぎ話の続きのように穏やかだった。

 先ほど加勢してくれた少女ミリエルと、おっとりとした笑顔が印象的なロザリーの二人と、校庭の隅にある大きなポプラの木の下でランチを囲むことになったのだ。


「そのランチクロス、刺繍がすごく丁寧ね。誰の趣味? 絶対几帳面な人がいる家よね。中身も期待していい?」


 ミリエルは身を乗り出してバスケットを覗き込んだ。指先でそっと縁をつつきながら、感心したように目を細める。


「エレンが持たせてくれたの。お友達ができたら、半分は誰かと分け合いなさいって」


「じゃあ、これはその誰かからのお返しよ。私のこのハチミツ漬けのナッツと交換しましょう」


 ロザリーが差し出してくれたナッツの瓶を受け取り、三人で笑いながら食べ物を交換し合う。足元の影は地面に落ちるポプラの葉の影にすっかり紛れ込み、微動だにしない。


「あなたの物語、続きが気になるわ。ねえ、あの怪物、実は可哀想な子なんでしょう?」


「ええ、そうよ。どうしてわかったの? ……怪物はね、元は人間だったの。優しかったのに、でも誰も信じてくれなかったの」


「やっぱり!」


 ミリエルが声をあげた。


「そんな気がしたの。だって、読んでて怖いっていうより、なんだか寂しい感じがしたもの」


 ロザリーも小さく頷く。


「私も空想って好きよ。夜寝る前に、天井の木目が森に見えるの。枝が重なって、小道があって……」


「森に?」


「ええ。でも朝になると、ただの天井に戻るの。だから夜だけの秘密」


 特別な告白というより、思いついたことをぽつりと話しただけ、という口ぶりだった。それがかえって、コーデリアの胸のうちに沁みていく。空想は、自分ひとりの奇妙な癖ではないのかもしれない。

 夜の天井を森に変えてしまう子もいれば、怪物の孤独を思い浮かべる子もいる。ただそれだけのことなのだと、二人は何でもない顔で教えてくれたのだ。

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