第八話
霧深い灰色の湖面には蓮の葉が広がり、その間を縫うようにして小さなボートが音もなく進んでいく。ボートの真ん中には、籐で編まれたカゴ。その中でオーロラが「早く魚をよこせ」と言わんばかりに、期待を込めた短い鳴き声を上げた。
「楽しみにしてて、オーロラ。今、立派なご馳走を釣ってあげるから」
コーデリアは真剣な面持ちで釣竿を握りしめていた。隣ではリーヴァイがあくびを噛み殺しながら、手際よく仕掛けを整えている。
「……駄目だな。君の殺気が竿に伝わって、魚が全部泥の中に逃げてるぞ」
「殺気なんて心外だわ! これは純粋な献身と愛の力よ。ねえ、オーロラ?」
オーロラが「みゃあ」と気のない相槌を打ったその時、コーデリアの浮きが鋭く水中に引き込まれた。
「きたわ!」
コーデリアが勢いよく竿を引く。けれどかかっていたのは魚ではなく、湖底に沈んでいた大きな水草の塊だった。重みに耐えきれず、ボートがぐらりと大きく揺れる。
「わっ、ちょっとリーヴァイ、揺らさないでよ」
「僕のせいにするなよ。欲張って得体の知れないものを釣り上げるからだろ。ほら、貸して。外してやるから」
「いいわよ、自分でできるわ。……ああっ!」
リーヴァイが手を伸ばした瞬間、コーデリアは意地になって竿を引いた。大きな水しぶきが上がり、引きちぎれた水草がリーヴァイの肩に飛び散る。彼の清潔なシャツは泥水と藻で見るも無惨な姿になってしまった。
「…………。コーデリア、わざとか?」
「ごめんなさい! わざとじゃないのよ、手が滑っただけ……。でもリーヴァイ、なんだか今のあなたは湖の怪物みたいで素敵だわ」
「不名誉だな……」
コーデリアが堪えきれずに声を上げて笑うと、彼女の足元から遊び心に溢れた小さな影たちが飛び出し、リーヴァイの周りで魚の形をして跳ね回った。
「君の想像力は相変わらず独創的だ。……服を乾かす手間が増えたよ」
リーヴァイは呆れてため息をつき、そばにあったコーデリアのハンカチで勝手に拭った。それから自分の釣った銀色の魚を、ひょいとオーロラのカゴに放り込んでやる。
「ほら、お前の獲物だよ、オーロラ。お前の飼い主はあてにならないから僕のを食べるといい」
「あ、ずるいわ! わたしが釣るはずだったのに!」
コーデリアは口を尖らせて文句を言いながら、ふとワンピースのポケットを確かめた。そこにはリーヴァイからも贈られた、少し角の擦り切れたノートがお守りのように収まっている。
最近の彼女は、胸の奥から溢れ出しそうになる色彩豊かな想像力や、言葉にできない不安を感じると、すぐさまそれをノートに書き留めるようにしていた。頭の中を駆け巡る物語をペンで紙に閉じ込めると、不思議と足元の影が暴れ出すことはなかった。
ここにきて数ヶ月。ヴェスパー卿が呼び寄せた名医は、「この病は心因性のものだ」と説いた。つまり完治は難しくとも、心を凪いだ状態に保つことができれば、共生していくことはできるのだと。
その言葉通り、今のコーデリアの足元にある影は穏やかな湖面のように静かに揺れている。何よりの特効薬は、この館に居場所があるという安心感だった。
「どうかした? また影が騒いでいるのか」
リーヴァイがボートを漕ぎ出す手を休めて首を傾げた。コーデリアは小さく首を振って、ノートを愛おしそうに指先でなぞった。
「ううん。少し、書き留めておきたいことが思いついただけ。……今日のあなたはやっぱり湖の怪物じゃなくて、オーロラの恩人なんだってこと」
「……何だそれ。そんなの書かなくていいよ」
リーヴァイは照れ隠しに顔を背け、力強くオールを漕ぎ出した。水面を滑るボートの影が、岸辺へと伸びていく。
帰れば、エレンと一緒にベリーのジャムを作る約束だ。館を包む霧は相変わらず深かったけれど、今のコーデリアには、その向こうにある温かいキッチンの灯りが見える気がしていた。
◆
午後の館の一室。テーブルの中央には、午前中にエレンと煮詰めたばかりのベリーのジャム。ヴェスパー卿は、借家人たちから届いた修繕依頼や地代の報告書からようやく目を離すと、椅子に深く腰掛け、スコーンにその赤いジャムをひと匙載せた。
「……ジャムの加減も悪くない。よくできている」
「お仕事、忙しいのに。ありがとう、おじ様」
コーデリアははにかみながらスコーンを割り、輝くベリーのジャムをあふれんばかりにのせた。彼女が大きく口を開けてその素朴な味を楽しんでいると、ヴェスパー卿が不意に彼女を見据える。
「コーデリア」
なんだろう、と彼を見上げた瞬間、予期せぬ言葉が降ってきた。
「学校へ行ってみなさい。……手続きはすべて済ませてある」
コーデリアはあやうく吹き出しそうになり、喉に詰まりかけたスコーンを慌てて飲み込んだ。胸の奥が熱くなり、激しく咳き込む。
「が、学校……?」
「そうだ」
ヴェスパー卿はただ淡々と冷めかけた紅茶に手を伸ばしただけだった。その一言がコーデリアの心にどれほどの波紋を広げたか、彼はすべてを見透かしているようだった。
「でも、もしまたわたしが何かしてしまったら……。あの日みたいに、誰かを怖がらせて、おじ様まで……」
「今は十分良くなった」
コーデリアはたまらず視線を落とした。膝の上に広がるワンピースの布地を指先が白くなるほどぎゅっと握りしめる。
喜びよりも先に、鋭い不安が胸を突き刺す。自分が一歩外へ出れば、またあの恐ろしい影が、自分でも制御できない怪物が、誰かを傷つけてしまうのではないか。
「リーヴァイもいる。この館で私やエレンとだけ過ごしていては、教えられることも限られる。君にはもっと多くの言葉が必要だ。……嫌か」
「……ううん」
コーデリアは、ポケットの中にあるノートに触れた。リーヴァイがくれた、あの真っ白だった頁を埋めていく喜び。俯いたまま、彼女は小さく震える声で、ずっと心の奥底に閉じ込めていた本音を漏らした。
「……本当は、ずっと行ってみたかったの。他のみんなみたいに、朝になったらカバンを持って、誰かと笑いながら道を歩いてみたいって」
いつも窓の外を眺めながら、遠くで響く快活な声を無関係な世界の音だと切り捨てていた。けれど本当は、羨ましくて仕方がなかったのだ。
汚れた服を気にせず駆け回り、夕暮れになれば「また明日」と手を振る。そんな当たり前すぎて誰も気づかないような日常の欠片を、彼女は喉から手が出るほど欲していた。
「ならば行っておいで。君をこの館の中に閉じ込めておくことは、私の本意ではない」
「……はい、おじ様」
コーデリアは、まだ少し震える手でスコーンを口に運んだ。
見たこともない霧の向こう側の世界。そこにはきっと、ノートのページを埋め尽くすほどの新しい物語が待っているはずだ。




