第三話
墓場から泥だらけで逃げ帰ったコーデリアを待っていたのは、エレン・ルーの雷だった。
「身だしなみは心の鑑です。ヴェスパー邸の居候が、野良犬のような姿で廊下を歩くなど、あってはならないこと。さあ、顔を洗いなさい。お食事が冷めます!」
冷たい水で顔を洗わされ、着替えを済まされると、コーデリアはそのまま大きな食堂へと連行された。
てっきり台所の隅でエレンの監視のもと、冷えたスープでも啜るのだと思っていたコーデリアは、案内された場所を見て目を丸くする。
「……おじ様と一緒に食べるの?」
長い、というか長すぎるマホガニーのテーブルの端。そこには、背筋をピンと伸ばしたブラム・ヴェスパー卿が、彫刻のように座っていた。エレンは当然という顔で、ヴェスパー卿の向かい側の席を引く。
「食事は家族で摂るものです。たとえそれが、一時的な居候であっても。さあ、座って」
家族。そんな呼び方をされたのは初めてで、コーデリアの心臓が少しだけ跳ねる。けれど席に着いた瞬間に訪れたのは、ミスト・ヴァレーの霧よりも深い沈黙だった。
ヴェスパー卿は一切の無駄がない動きでナイフとフォークを動かしている。一言も喋らず視線も上げず、表情ひとつ変えない。ただ規則正しく、機械のようにスープを口に運んでいる。
あまりの静寂に耐えかねて、コーデリアの頭の中で、いつものやかましい空想がむくむくと鎌首をもたげた。
(……おかしいわ。こんなに喋らないなんて。普通、遠くから来た親戚の女の子には『道中は快適だったか』とか『嫌いな食べ物はないか』とか聞くものでしょう? それを、呼吸すら忘れているみたいに……)
彼女がじっとヴェスパー卿を観察していると、ある考えが稲妻のように脳内を駆け抜けた。
(そうよ、そうに違いないわ! ブラム・ヴェスパー卿は、本物の人間じゃないんだわ。彼は、かつて愛した人を亡くして悲しみに暮れた時計職人が、自分を慰めるために作った精巧な自動人形なのよ。背中の服の下には大きな真鍮のネジが隠されていて、毎晩エレンがそれを巻いているんだわ!)
一度確信すると、コーデリアの背後からどろりとした黒い霧が噴き出した。それは実体を持ってヴェスパー卿の背後へと這い寄り、彼女の想像のままに、空中に巨大な影のぜんまいネジを形作った。
キリ……キリキリ……。
幻聴のような金属音が響く。彼女の興奮に合わせて、影のネジは勢いよく回り始めた。さらに、ヴェスパー卿の袖口や襟元から、真っ黒な影の歯車がバラバラとこぼれ落ち、テーブルの上をカランカランと音を立てて転がっていく。
「ああ、大変! ネジが切れかかってるんだわ! 早く巻かないと、おじ様がスープに顔を突っ込んで止まっちゃう!」
コーデリアが叫び声を上げた瞬間、ヴェスパー卿の手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、自分のスープ皿の中にポチャンと落ちた影の歯車と、目の前で顔を真っ赤にしているコーデリアを、氷のような瞳で射抜いた。
「……エレン」
「はい、旦那様」
「この娘の頭の中には、よほど余計な部品が詰まっているらしい。……食事が終わったら、床を掃かせておけ」
彼はそう言い捨てると、再び何事もなかったかのように食事を再開した。怒鳴ることも、怯えて十字を切ることもなく、コーデリアは振り上げた拳の行き場を失ったような脱力感に襲われる。
(怒らないの? 怖くないの? ……それとも、わたしにそんなに興味がないのかしら。まるで、飛んでいるハエを追い払うような言い方なんだから!)
食事のあと、期待していた……あるいは覚悟していたお暇の宣告はなかった。代わりに彼女の目の前に突き出されたのは、無骨な箒と使い古された雑巾だった。
「ヴェスパー邸では、自分で散らかした影は自分で片付けるのが掟です。一箇所でも煤が残っていたら、夕食は抜きですよ」
お行儀を知らない少女にエレンの厳しい指導が始まった。けれど、彼女は一つ大きな計算違いをしている。
コーデリアにとって掃除は罰ですらなかった。これまでの親戚の家でも、孤児院でも、彼女は常に誰よりも多くの雑用を押し付けられてきた。彼女の指先は想像を具現化するだけではなく、床の汚れを効率的に落とす術も完璧に叩き込まれていたのだ。
エレンは後ろで腕を組み、口うるさく指示を出そうと構えていたが、次第にその言葉は途切れていった。コーデリアが通り過ぎた後の床は鏡のように光り、窓から差し込む薄い光を反射していたからだ。
「……終わったわ。どう、エレン。これなら影一つ、埃一つ落ちていないでしょう?」
「……ええ。驚きました。それなりに、筋は良いようですね」
「ふん。掃除なんて、想像力を使わないで済む一番退屈な仕事だもの。こんなの朝飯前よ!」
コーデリアはわざとらしく鼻を鳴らしたが、言ったそばから胸の奥がこそばゆくなる。役に立つ、と。その言葉を面と向かって言われたわけでもないのに、そう認められた気がしたのだ。
自分は厄介者でも、腫れ物でもなく、この館で使い物になる存在かもしれない。それは思いのほか、嬉しいことだった。




