第一話
ミスト・ヴァレーへ続く道は、世界から色が吸い取られたかのように色彩に乏しかった。外にはカラスの羽のような黒い森が広がり、薄汚れた羊の群れのような灰色の霧がどこまでも続く。
汽車を三つ乗り継ぎ、最後に乗り込んだ郵便配達人の馬車は、ガタガタと骨の折れるような揺れ方をした。
「お嬢ちゃん、あそこに見えるのがヴェスパー卿の屋敷だ。あそこまで行けば、霧も少しは晴れるかもしれんが……まあ、あそこはあそこでおかしな噂が絶えん場所でね」
配達人の言葉に、コーデリアは返事をする代わりに、膝に抱えた鞄の取っ手を強く握りしめた。鞄の中には彼女の全財産が入っている。擦り切れたワンピースが二着と、古びた小さな櫛が一つだけ。とはいえそれは紛れもなく、彼女がこの世界で持ちうるすべてだった。
コーデリアが不安を覚えると、すぐ隣に積まれていた大きな郵便袋が、まるで意思を持っているかのようにモゾリと不気味な動きを見せた。彼女の想像力が不安と混ざり合い、制御を失った影となって周囲に漏れ出しているのだ。
「……だめよ、落ち着くの」
コーデリアは慌てて深く息を吸い込み、冷たい空気を肺いっぱいに満たした。目を閉じ、頭の中で数を数える。一つ、二つ。膨らみかけた影を心の内側へと無理やり押し戻すと、郵便袋はようやくただの布の塊に戻った。
やがて霧の向こうに、鋭いナイフを逆さまに突き立てたような時計塔が見えた。コーデリアの遠縁の遠縁だという方の屋敷──ヴェスパー邸。
鉄の門が重々しい音を立てて開く。馬車が止まった先で出迎えたのは、銀髪を一筋の乱れもなくまとめ、黒いドレスを纏った女性だった。
「あなたがコーデリア・レイスね。よくいらしたわ。……ええ、事情は承知しています」
エレン・ルーと名乗った家政婦の言葉は、ミスト・ヴァレーの霧よりも冷ややかだった。彼女の視線はコーデリアの顔を通り越し、彼女が降りた地面にこぼれ落ちた真っ黒な足跡に注がれている。
「旦那様がお待ちです。荷物は私が。……それと、余計なものは持ち込まないでくださる? 絨毯を汚されるのは好みませんの」
コーデリアの不安が形を成したそれをエレンは不快そうに一瞥すると、手招きで館の中へと促した。
案内された奥の部屋で、主であるブラム・ヴェスパー卿は、椅子に深く腰掛けたまま顔を上げようともしなかった。
「……必要なものは部屋に揃えさせてある。エレン、案内しろ」
名前を呼ぶことも、顔を見ることも、ましてや遠い地からやってきた少女を労う言葉もない。まるで届くはずのない宛先不明の荷物が、手違いで屋敷の隅に置かれたかのような扱い。
三階の北側の部屋に案内され、重い扉が閉まると、コーデリアは鞄をベッドに放り投げた。窓の外の景色は、灰色の絵具をぶちまけたように何も見えない。
「……ふん。あのおじ様、わたしの顔も見ないなんて」
コーデリアは冷たい窓硝子に額を押し当て、唇を歪めた。
今まで、どの家でもそうだった。この病気を隠そうとして、怯えながら他人の顔色を窺い、それでも最後には「気味が悪い」と追い出された。
「……決めたわ。どうせここもすぐに追い出されるのよ。それまでの間、わたしはわたしの好きに生きさせてもらうわ。……このご自慢の屋敷を、わたしの空想でめちゃくちゃにしてやるんだから」
良い子のふりはもうおしまい。お利口さんのコーデリアは、さっきの霧の中に捨ててきたのだ。
彼女が怒りに震えながら宣言した瞬間、足元の影から真っ黒な蝶がふわりと羽ばたき、闇の中に消えた。
絶望を燃料にして燃え上がる、やけっぱちで鮮やかな意志。それがコーデリア・レイスがこの館で刻んだ、最初の鋭い鼓動であった。




