第三十八章 研究所の取引、契約という盾と首輪
――紙は嫌い。でも紙がないと守れない。悔しいけど、現実はいつも悔しい
(視点:ナルディア)
ファナークの廊下は、戦闘の匂いを許さないみたいに白かった。
白い床。白い壁。白い光。
さっきまで血も出ない機械を殴っていたのが嘘みたいに、空気が整っている。
でも、あたしの腕の中には、美優がいる。
冷たい身体。
冷たいのに、さっき握り返してきた手。
その矛盾が“生きてる”証拠で、胸が痛い。
「……医療区画へ」
アーマッドが、淡々と指示する。
淡々なのに、歩調は速い。
速い歩調は感情だ。
この人は感情を出さない代わりに、速度で出す。
源一郎は、ぶっきらぼうに言った。
「外装、あとで直す。今は中身だ」
「中身って言うな! 美優は中身じゃ――」
「中身が大事だって意味だ」
「……それなら、許す」
「許すな。お前が許す側じゃねえ!」
「ムカつく!」
角を曲がった先に、GDC腕章の人間がいた。
当たり前みたいに――待っていたみたいだ。
ここは研究ステーション。腕章のヤツがいないほうが不自然だ。
でも、それが腹立つ。
「技術協力者の状態は、どうですか?」
職員が淡々と聞いてきた。
淡々が嫌だ。
淡々は、ときどき残酷の仮面になる。
「起動は維持している。干渉痕あり。リセット未遂」
アーマッドが、短く答えた。
職員の目が一瞬だけ光る。
興味。
あるいは、欲、か。
「……ならば、直ちに保全手順に従って――」
「従わない」
アーマッドが即答した。
声は低く、突き刺さる調子だった。
「彼女は、チームの保護下だ。接触は、同席のみと決まっている。記録を残す」
前に交わした密約の条件。
条件は盾だ。
でも盾は、持ち方を間違えると首輪になる。
職員が、眉を寄せた。
「これはファナーク内の重大インシデントです。研究所としては――」
「研究所としての都合は、後回しだ」
淡々と言い切る。
淡々が、今日はいちばん頼もしい。
医療区画の前で、別の人物が現れた。
白衣を着ている。
でも、GDCの腕章じゃない。
ファナークの研究者の偉い人――そんな顔つきの男だった。
「主任研究員、この方達です」
GDCが、その研究者――主任研究員に向かって言う。
「……君たちが、例のチームか?」
主任研究員が告げた。
声が柔らかい……油断を誘うタイプの声色だ。
「技術協力者……いや、“機怪人形”の個体を見せてほしい。保全と解析が必要だ」
「“個体”って言うな」
あたしが噛みつくと、主任研究員は、少しだけ驚いた顔をした。
驚いた顔をするのが上手い。
上手いから信用できない。
「言葉の問題ではない。安全の問題だ。彼女は、グラブール由来の――」
「だからって、奪う理由にならない」
あたしの声は、熱を含んでいる。
熱い声は雑になるが、雑になったら負ける。
分かってるのに、止まらない。
源一郎が、ぶっきらぼうに割って入った。
「言葉で揉めてる間に、また攫われる。……書類出せ。口じゃねえ」
「書類?」
主任研究員が目を細めた。
「権限の話だ。お前が“必要”って言うなら、必要の根拠を出せ。ここは研究所だろ。論文じゃなくてもいい。規定でも契約でもいい。紙で出せ」
ぶっきらぼうなのに、言ってることが正しい。
それが腹立つ。
主任研究員が、少しだけ笑った。
「……面白い。整備士が法務を語るのか」
「整備は、締結書や法定基準も読む」
「定義が変!」
あたしが言うと、源一郎は面倒そうに肩をすくめた。
「現場は、定義を変える」
「現場万能説やめて!」
アーマッドが、一枚のデータを提示した。
薄い板みたいな透明端末に、契約条項が表示される。
「彼女は“技術協力者”として登録されている。移管ではない。貸与でもない。協力だ。つまり、身柄は、チームが保持する」
主任研究員は、画面を読み、眉をひそめた。
“知らなかった”表情だ。
でも本当に知らなかったかは、分からない。
こういう連中は、大体、知ってるふりをするのだ。
「……誰がこんな条項を」
すると、GDC職員が淡々と応えた。
「GDC内部で合意済みです。緊急時共同対処条項も含まれます」
共同対処――その言葉が、首輪の音を鳴らす。
美優が、あたしの腕の中でわずかに動いた。
瞼が、うっすら開く。
焦点が合わない目で、あたしを見る。
「……ナル……」
「いる。いるよ。大丈夫!」
大丈夫じゃないのに、大丈夫って言った。
でも言わないと、美優が沈むから。
沈んだら、バーロックの言葉が勝つ気がする。
主任研究員が言った。
「ならば、協力者としての義務も発生するな。説明、検査、ログ提供が必要だ。拒否権は限定的なはずだ」
その瞬間、美優が小さく言った。
「……条件を、つけさせてください」
全員の視線が、美優へ向いた。
美優は、息を吸った。
呼吸はしない身体なのに、“息を吸うふり”をするのだ。
それが人間の仕草で、胸が痛い。
「ムゥ・アルシウムの……安定化手順。……シャドー・マターの扱い……元からある記憶で、知っています」
主任研究員の目が光った。
やっぱり欲だった。
欲を隠せないのが、こいつらの弱さだ、と思った。
「……シャドー・マターによるサイキックの実用利用か?」
美優が、頷く。
「教えられる。……でも、権利の移管はしない。だから、監視付きで、期限付きで説明する。質問は記録して。……それと」
美優は、一瞬だけ迷って、でも言い切った。
「精神干渉の検査は、しない。……嫌だから」
嫌。
その一言が、ものすごく人間的だった。
だからこそ、強かった。
主任研究員は、口を開きかけた。
でも、アーマッドが先に言った。
「本人の同意がない限り、やらせない」
GDC職員が、淡々と続けた。
「条項上も同意が必要です。違反すれば、内部監査が入ります」
内部監査。
GDC相手に効く数少ない武器――紙の武器だ。
悔しいけど、頼もしい。
主任研究員は、一度だけ目を閉じた。
負けを飲み込む仕草だった。
でも、開いた目は、完全には負けなていなかった。
研究者は負けても、次の勝ち方を考える。
それが怖い。
「……分かった。条件を受ける。だが“共同対処”は必要だ。暴走した場合――」
「暴走って言うな!」
あたしが噛みつくと、主任研究員は冷静に言った。
「現実の言葉だ」
嫌いな言葉。でも、確かに、現実だ。
アーマッドが、言う。
「暴走という言葉は、使わない。緊急時は、共同対処。だが、停止の権限は共有しない。判断は、チームが持つ」
GDC職員が淡々と補足した。
「緊急時の定義を条項に明記します。行使は記録されます。……口実には、させません」
口実。
その言葉だけは、少し信用できた。
GDCも、全部が敵じゃない。
でも、全部が味方でもない。
嫌な現実だ。
源一郎が、ぶっきらぼうに言った。
「条件は俺が書く。……変な文言入れたら、あとで締め直す」
「締め直すって何!?」
「配線と同じだ」
「配線万能説!」
美優が、ほんの少しだけ笑った。
笑うと、胸が軽くなる。
軽くなるのに、油断はできない。
油断した瞬間に奪われるって、もう学んだ。
医療区画の奥へ通される前に、アーマッドが小さく言った。
「ナルディア」
「なに」
「君は、この件を忘れるな。バーロックは逃げた」
あたしは拳を握った。
「忘れない。絶対に」
美優が、かすれた声で言う。
「……わたしも」
その“わたしも”が、嬉しいのに怖い。
彼女はもう、守られるだけの存在じゃない。
彼女は自分で、もう戦いの一員に入っている――それは強さで、同時に危うさでもある。
廊下の白い光の下で、あたしは思った。
紙は盾になるけど、盾は、ずっと握っていると手が痺れる。
痺れた手で誰かを守ろうとすると、落とすだろう。
だから、落とさない。
落とさせない。
次は、こっちが先に見つける。
――バーロック。
逃げてもいい。
でも、逃げ切れると思うな!




