第三十五章 怒りの再起動、マイクロマシンの逆襲
――研修生? 知らない。いまのあたしは怒ってる。あと少しだけ賢くなる
意識が戻った瞬間、最初に来たのは光じゃなかった。
匂いだった。
消毒。
樹脂。
そして、微かに焦げた金属。
ホテルの綺麗な匂いの下に、戦闘の匂いが混ざっている。
混ざっているのが、いちばん嫌だ。
「……美優」
声が出た。
出たことで、現実が確定する。
奪われた。
目の前で。
しかも、ファナークの中で。
身体を起こそうとして、重さに引き戻される。
鉛みたいな重さ。
スタンの残痺れだ。
筋肉が遅い。神経が遅い。
意識だけが先に走って、身体がついてこない。
「……っ、くそ……!」
そのとき、こめかみの奥が“ちくり”とした。
針で刺されたみたいな小さな刺激だった。
次の瞬間、熱が走った。
血が巡る。
視界の焦点が合う。
耳が世界を取り戻す。
痺れが、異常に速い速度で引いていく。
「……え?」
あたしは、手を握って開いた。
動く。ちゃんと動く。
指先まで神経の働きが戻った。
戻り方が、異様に早かった。
――冒険者用のナノマシンだ。
GDCが導入している、緊急生体補助用の装備だ。
以前、ウィッチーズ・ファミリーに襲われたときに、治療で使ったのより、数段階強力なヤツで、冒険者の研修前に、あたしも打っている。
毒、麻痺、ショック、循環不全、そういった症状を検知して、勝手に補正する。
勝手に、ってところが腹立つのに、いまはありがたい。
「……入ってたんだ、ほんとに」
感心している場合じゃない。
感心の次は、怒りの再点火。
「美優を返せ……!」
あたしは、立ち上がった。
膝が少し笑った。
でも笑ってる場合じゃない。
あたしが笑うのは、ツッコミの時だけだ。
室内を確認する。
枕が、床に落ちていた。
美優が抱えていた枕だ。
それが残っているのが腹立った。
“人だけを抜く”手際の良さが、もっと腹立つ。
机の隅に微細な粉があった。
迷彩のコーティング片かもしれない。
床にほ、とんど見えない擦過痕。
引きずってはいない。抱えて運んだんだ。
運ぶ側が人間じゃない、アンドロイドだ。妙に腕が長くて、完全には人型じゃなかった気がする。
そして――端末。
通信が、まだ変だ。
圏外じゃない。
なのに、繋がりにくい。
妨害の残りだろうか?
追撃戦で感じた“あの妨害”と、同じ匂いだ。
「……同じやつら?」
あたしの喉の奥が熱くなる。
怒りが燃料になる。
でも、燃料は操縦しないと爆発する。
深呼吸。
吐いて、もう一度吸う。
粉塵じゃない空気を、肺の奥まで入れる。
それでも、胸の奥のざらつきは消えない。
――冷静に。
怒りで突っ込んだら、美優が死ぬ。
いや、美優は、本当の意味では、死なないだろう。
でも“壊れる”かもしれない……それは、一番嫌だ。
あたしは、端末を起動した。
ホテルの監視ログ――アクセス権なし。
ファナークの内部記録――権限が足りない。
くそ。ここは研究ステーションだ。
綺麗な顔の裏に、硬い鍵がある。
「チッ……!」
そのとき、艦内回線が一瞬だけ通った。
シラトリの声が、短く割り込む。
『異常電磁パルス:局所。発信源推定:補給区画側。確度:中』
中。
腹立つ言い方。
でも、方向は出た。
「補給区画……!」
同時に、外部回線も回復する。
妨害が“薄く”なる。
向こうが運び終えた証拠。
運び終えるまで妨害して、運び終えたら要らなくなる。
つまり、もう美優は、この部屋にいない。
あたしは呼び出しを投げた。
「アーマッド! 源一郎!」
ワンコールで繋がった。
繋がる速度が、逆に怖い。
向こうも、何かを察していた証拠だ。
『状況を言え』
アーマッドだ。声が冷たい。
冷たいのに、安心する。
この人の冷たさは、怒りじゃなく統制だ。
「美優がさらわれた! 光学迷彩のアンドロイド! スタンで気絶させられた! 妨害もあった!」
『……分かった。位置は?』
「ホテル区画。だけど、シラトリの推定だと、補給区画側が発信源!」
『こちらも戻る。単独行動はするな』
「……するけど、死なない程度にする!」
『死ぬな』
短い命令。
短い命令ほど重い。
次に、源一郎がでた。
『生きてるか』
「生きてる! でも怒ってる!」
『怒ってるのはいい。場所を言え』
「ホテル。美優は連れ出された。抱えて運んだ痕跡がある。迷彩片がある。補給区画が怪しい」
『了解。……ナノマシンで戻ったか』
「戻った。だから走れる」
『走るな。走ると転ぶ。転ぶと死ぬ』
「それ、前にトーマスに言ってたやつ!」
『トーマスじゃねえ。お前に言ってる』
「ムカつく!」
『ムカつくなら生きろ』
最悪に正しい。
あたしは、端末を握り直した。
ばっと冒険者用のスーツを着て、バイザーをつける。
そして“冒険者登録”の緊急権限を開いた。研修生だけど、使える。
こういうときにだけ、便利だ。
便利なのが悔しい。
「……緊急救難コード、使用」
ホテル区画の一部ロックが緩む。
完全解除じゃないけど、隙間ができる。
その隙間で、動ける。
廊下に出た。
綺麗な廊下だから、足音が響く。
響く音が、いまは味方だ。
補給区画へ向かう途中、壁面モニタに一瞬、ノイズが走った。
これは、妨害源が近い証拠だ。
確度が上がる。
「……こっちだ」
あたしは、走らず、早足で進む。
走ると転ぶ……転ぶと死ぬ。
ムカつくけど正しい。
そして、補給区画の入口に着いた。
古い気密扉だ。
ロックを開けようとする。
研究ステーションの裏側は、表より頑丈だった。
「開けろ……!」
端末で緊急権限を入力する。
ロックが一段だけ緩んだ。
隙間ができる。
隙間に手を入れ、指先で内側のレバーを探る。
指が切れそうになった。
でも、美優のほうが大事だ。
――開いた。
中は暗かった。
貨物、冷蔵コンテナ、配管だけが見える。
でも、微かな“重さ”を感じた。
見えない。
でも、いる。
迷彩は光を消しても、圧を消せない。
「……出てこい!」
声が低くなる。
震えはない。
震えがないのが自分でも、怖い。
怒りが、震えを食べている。
「美優を返せ。今なら……壊さない」
交渉じゃない。
脅しだ。
脅しが自然に出る自分が、少しだけ嫌だ。
でも、嫌でもやる。
空気が、動いた。
足音が、遠ざかる。
「逃げる気?」
あたしは追う。
追いながら通信で二人に投げた。
「補給区画に入った! まだ近い! 迷彩、足音は取れる!」
その瞬間、背後で――金属が擦れる音がした。
換気口の、嫌な音じゃないほうの擦れ。
アーマッドが来た。源一郎も、すぐ来るだろう。
そう確信できる音だった。
でも、それでも。
いま動けるのは、あたしだけ。
あたしは、歯を食いしばって、暗い区画の奥へ踏み込んだ。
「……探して、取り返す。絶対に」
怒りで視界が赤い。
でも、赤い視界の中で進むべき方向は見えている。
――美優。
もう二度と置いていかせない。




