第十五章 エピローグ 願いを扱う手
アンダーソン二世号が氷殻惑星ビーブ3αの重力圏を抜けると、船体にまとわりついていた冷気の感触が、少しずつ剥がれていく気がした。
もちろん感触など錯覚で、実際には外壁の温度と船内の空調が一定値へ戻っているだけだ。それでも私は、自分の神経がようやく「帰還」を認め始めたのだと理解した。
操縦席の前に、航路と星図が淡く表示される。ここから先はいつも通りの宇宙だ。真空、微小重力、通信の遅延、補給の計画、燃料の残量。数字と手順の世界に戻れば、深海の沈黙は薄れるはずだった。しかし、薄れなかった。あの沈黙は、音ではなく記憶に住みついた沈黙だった。
私は、一度、ログを開いた。コープニックの戦闘記録、神殿内部のセンサー波形、ホログラムの音声データ、バイオコンピュータの柱の脈動パターン。証拠は揃っている。私は調査者として、これを整理し、評価し、必要なら売却することすらできる。しかし、指先が止まった。売却という選択肢が、今は刃のように見えた。
私は、ディスプレイを閉じ、目を閉じた。バイオコンピュータの柱の鼓動が、まだ耳の奥で鳴っている気がした。同期しないように呼吸を崩したあの感覚が、身体のどこかに残っている。
船内の通路を歩き、格納庫へ向かった。自分の身体を動かすことで、思考を一度切り離したかった。格納庫の照明は白く、清潔で、無機質だ。深海の薄暗さとは対照的で、だからこそ心が落ち着くはずだった。しかし、落ち着かなかった。照明が明るいほど、暗闇の輪郭がはっきりすることがある。
私は、工具棚の前で立ち止まり、エルから渡された白い球を取り出した。マリンスノーを圧縮して固めたもの。ケースの中で、微細な粒子が淡く光っている。食べ物としては粗末だ。栄養としては限定的だが、地球人でも食べられることが、分析データから分かっている。しかし、贈り物としては重い。彼女は、あの海で生きるための資源を、私に分けた。それは信頼というより、習慣的な優しさだったのかもしれない。彼女は「誰かが帰る」ことに慣れていないはずなのに、帰る者に渡すものを知っていた。
私は、その白い球を掌に乗せ、しばらく眺めた。ひとくちで食べるな、と彼女は言った。むせるから、と。理屈は雑だが、面倒見は良い。私は思わず口元を緩めかけ、すぐに表情を戻した。笑うと、別れが軽くなる気がしてしまう。軽くならないと分かっているから、笑いが怖い。
そのとき、船内通信が鳴った。自動受信の近距離ビーコンだ。私は反射的に身構えたが、警告音ではない。通常の信号だ。艦載AIが淡々と告げる。
「近傍宙域に、民間航行体の識別信号。救難ではありません。情報交換要求です」
私は、眉をひそめた。こんな外縁で情報交換を求める船など、ろくな目的を持っていないことが多い。しかし無視すれば、逆に相手の興味を引く可能性もある。私は短く考え、最低限の受信だけを許可した。
スクリーンに、簡素なメッセージが表示される。
『ビーブ3α付近で、異常なセンサー反射が消えた。何か知っているか? 対価は払う』
私は、息を止めた。反射が消えた。神殿が自己分解したことで、金属反射が弱まり、外部観測で「消えた」ように見えたのだろう。つまり、すでに誰かが「そこに何かあった」ことを追っている。道は、私が話す前から生まれている。宇宙は広いが、噂とデータは広い宇宙を縮める。
私は、返信せず、通信を切った。切った瞬間、心臓が一拍遅れて強く脈打つ。私は自分が恐れているのは、相手ではないと理解した。恐れているのは、自分が答えを持っていることだ。答えを持てば、使いたくなる。使えば、道が太る。太った道は、人を運ぶ。
キーフラスの声が、記憶の中で響いた。
望みは軽くなくても世界を壊す。
私は、格納庫の床へ腰を下ろし、しばらく動けなかった。冒険者としての習慣が私を突き動かす。「記録を残せ」「報告しろ」「危険を共有しろ」。しかし、その習慣は万能ではない。危険を共有することが危険になることがある。情報が兵器になることがある。ここで、私が正しい行動をとるとしたら、それは「正しさ」を捨てることかもしれない。
私は、手帳端末を開き、ログのうち最も危険な部分にアクセスした。神殿内部の詳細地形、アクセスキーの動作波形、ガーディアンの反応パターン、心臓柱の制御信号。これらは、第三者に渡れば「攻略手順」になる。警告ではなく地図になる。私は歯を食いしばり、削除プロセスを起動した。
削除には二段階ある。第一段階は暗号化と断片化で、復元に時間をかけさせる。第二段階は物理領域への上書きで、復元可能性をさらに下げる。私は、それを淡々と実行した。淡々としか実行できなかった。ためらえば、手が止まる。止まれば、私は道を残す。
進行バーが伸びる間、私は掌の白い球を握っていた。エルの贈り物を握りしめながら、私は世界の別の部分を削除している。滑稽で、残酷で、そしてたぶん必要なことだ。
削除が完了すると、端末が静かに知らせた。私はしばらく画面を見つめ、それから端末を閉じた。胸の中に、小さな空洞ができた気がした。記録を捨てることは、証拠を捨てることだ。調査者としての自分を、少し殺したことになる。しかし、殺さなければならない自分もある。
私は、次に、別のファイルを開いた。個人的な記録だ。誰にも売らず、誰にも渡さず、ただ自分のために残す。そこに、短い文章を書き始めた。
『ビーブ3αの深海には、二つの村があった。
その共存は、古い〈先住者〉の技術者の残した調整に支えられていた。
調整は終わった。村は距離を取り、自分で秩序を作り始めた。
私は、座標を持たない危険の存在を知った。
危険は、知っただけで道になる。
だから私は、道を太らせない。』
私は、書きながら、自分が「誓い」に似たものを作っていると感じた。祈りではない。願いでもない。自分の手を縛るための文だ。キーフラスが「技術者が最も嫌う語」を自分に貼り付けたように、私は「冒険者が最も嫌う行為」を自分に課す。報告しない。共有しない。売らない。沈黙を選ぶ。正義の形ではないが、刃を封じる形ではある。
***
その夜、私は短い睡眠を取った。
夢は見なかった。正確には、夢を見たかどうか覚えていない。覚えていないということが、救いだった。深海の夢は、醒めた後も濡れたまま残るからだ。
数日後、補給拠点の外縁で私は一通の匿名通信を受け取った。短い映像データだ。送り主は不明。映像は粗く、ノイズが多い。それでも私は、画面の中に映るものを見て息を呑んだ。
深海の洞窟の入口だ。蛍光粒子の境界線が淡く光り、その手前で、エルが両手を広げて何かを説明している。遠くて言葉は聞こえない。しかし、彼女の動きが大きく、少し不器用で、そして生き生きしていることが分かる。マルモ人と〈先住者〉の村人が、少し距離を置きながら、それでも同じ画面の中に収まっている。
映像は数秒で途切れた。続きはない。送り主も名乗らない。意図が分からない。しかし私は、その数秒が何よりの報告だと感じた。彼らは生きている。支えを失っても、枷を外しても、生きる道を作り始めている。
私は、画面を閉じ、静かに白い球を取り出した。エルの贈り物だ。私は彼女の忠告どおり、ひとくちで食べないように、少しだけ欠けさせて口に入れた。
味は、ほとんどしない。冷たく、わずかに塩気があるだけだ。むせるほどではない。ただ、喉の奥に微細な粒子が残り、しばらく息を整えたくなる。私はその感覚を、しっかり覚えようと思った。覚えることが、私にできる最低限の誠実さだ。
私は、操縦席に戻り、航路の修正を行った。次の目的地は、あまり人が寄りつかない宙域にした。人が少ない場所は孤独だ。しかし孤独は、道を太らせない。道を太らせないことが、今の私の仕事になった。
窓の外に、星々が流れていく。星の光は、願いと関係なく光る。だからこそ、人は願いを持つ。願いが生まれるのは自然だ。
私はゆっくり息を吸い、吐いた。心臓の鼓動に同期しないように、呼吸のリズムを少しだけ崩しながら。
(了)
これで第二部は終わりです。明日から、またナルディアが登場する新パート『ナルディア、再び』を投稿します(7章予定)!




