第十四章 別れのマリンスノー
翌日、深海の「朝」が来ても、光の変化は、ほとんどなかった。
時間の感覚は、村人たちの生活の区切りと、マリンスノーの積もり具合でしか測れない。
私は、コープニックの内部時計を見てから、わざわざそれを見たことを後悔した。数字は正確だが、ここで必要なのは正確さよりも、落ち着きだった。
洞窟の入口付近には、簡易な集会の場が作られていた。昨日のざわめきが嘘のように静かで、代わりに、全員が言葉を選んでいる気配が漂っている。緊張が消えたわけではない。緊張の形が変わっただけだ。衝突の熱が、警戒の冷たさへ戻っている。
長老は、昨日よりもさらに老けたように見えた。眠っていないのだろう。彼は私を見ると、小さく頷き、すぐに村人たちへ視線を移した。
『境界を決めるだ。距離を取るべ。近づく日と、近づかねぇ日さ決める。今日は、その始まりだべ』
言葉は簡潔で、余計な情緒がない。余計な情緒は、今は火種になる。
〈先住者〉側の代表格も前へ出て、機械的な調子で応じた。
『分離は、損耗を減らし、生存確率を上げるわ。相互接触のプロトコルを設計するべきね』
彼女は、キーフラスと同じ区、理屈っぽい感じはしたが、話は分かるのだろう。
私は、二者の言葉を聞きながら、昨日、自分が口にした提案が、今こうして現実に落とし込まれていくのを見ていた。提案したのは私だから、実装の初動だけでも支援すべきだろう。しかし、支援が過剰になれば、彼らはまた外部の「調整」に頼る。私は、その線引きを自分の中で、慎重に決めた。
エルが私の横へ泳いで来て、やけに真面目な顔をした。
『巨人さん、エルね、線ひくの、ほんとに得意なんだよ。昨日のヒゲの話はね、忘れて』
「忘れない」
『えー……』
私は、小さく息を吐いてから、エルに言った。
「線を引くのはいい。ただし、線は“相手を嫌う線”じゃない。“ぶつからないための線”だ」
エルは、首を傾げ、しばらく考え込んだ。
『ぶつからない線……。じゃあね、道の線だね。道があるとね、迷わない』
「そうだ」
たぶん、その理解で十分だ。私はエルに簡易のマーカーを渡した。昨日の修理の合間に作った、蛍光粒子を内包した微小カプセルで、海底に撒くと一定時間だけ淡く光る。アンドロイドに害がないように設計してある。境界線の視認性を上げるだけの道具だ。
エルは、もらった瞬間に嬉しそうに尾鰭を振った。
『わあ、これ、きれい! えっとね、これ、食べられる?』
「食べるな」
『うん。食べない。……たぶん』
「絶対に食べるな!」
『はーい』
そのやり取りを聞いて、近くの村人が小さく笑った。笑いはまだ残っている。残っているなら、崩壊ではない。私は少しだけ肩の力を抜いた。
***
境界線の作業は、思った以上に「作業」だった。地形は平坦ではなく、洞窟の入口や畑の区画、岩の割れ目、沈殿物の山など、生活動線が複雑に絡んでいる。
単に線を引くだけでは意味がない。互いが使う動線を尊重し、資源の採取と保管の場所を明確にし、接触が起きやすいポイントには緩衝帯を設ける必要がある。
私は、必要最小限の助言だけをした。例えば、畑の区画を時間帯で分けること。倉庫のように共有していた洞を、相互監視が働きにくい形へ改修すること。接触が必要なときは、必ず第三者を立てること。
そういう「仕組み」の提案だけを置き、決定は彼らに任せた。
長老は、時折私に視線を向けるが、頼り切ることはしなかった。彼は、苦い顔をしながらも、自分で決めようとしていた。〈先住者〉側も同じで、効率計算を口にしながらも、村人側の感情反応を無視しない姿勢を見せていた。昨日のまま爆発していたら、こうはならなかっただろう。ギリギリで踏みとどまったのだ。
昼の区切りが来たころ、境界線の骨格が出来上がった。
蛍光粒子の淡い光が、海底に曲線を描く。それは壁ではない。しかし、壁に近い効果を持つ。線が見えれば、線を越える前に迷うから、衝突は減る。迷いは、時に命を救う。
作業が終わると、長老が私に近づき、低い声で言った。
『天の客人よ。神殿の話を、もっと聞かせてくれ』
私は頷き、昨日の夜に整理した内容を、もう少し平易に話した。〈先住者〉の技術者キーフラスが残した人格、『願掛け装置』、恒久の平和が意味した絶滅、そして彼が村を作ったこと。座標は残されていないこと。神殿が自壊したのは、悪用を避けるための自己消去に近いこと。
長老は、黙って聞き、最後に短く言った。
「主さまは、罪を抱えて眠っていたんだべ」
私は、返す言葉が見つからなかった。抱えていたのは、罪だけではない。支えも抱えていた。枷も抱えていた。全部だ。全部を抱えたまま、彼は一万年をここで過ごし、最後に手放した。
……手放したことが正しいのか、私は、まだ判断できない。ただ、手放さなければ彼は終わらなかった。
エルが、少し離れた場所で私をじっと見ていた。目が合うと、彼女は慌てて近づき、小声で言った。
『巨人さん、神殿の人、ほんとに“いなくなった”の? エルね、昨日からずっとね、聞こえる気がするの。たぶん気のせいなんだけど』
「聞こえるって、何が」
『なんかね、怒ってない声。怒ってないけど、さみしい声。……でも、エル、耳がいいわけじゃないよ。たぶんね、胸の中がうるさいだけ』
私は、胸が少し痛んだ。彼女は「喪失」を言葉にできない代わりに、「胸の中がうるさい」と表現した。無知な彼女なりの、正確な表現だ。喪失は、静けさではなく雑音になる。
「気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃなくてもいい。君が覚えている限り、彼は完全には消えない」
『覚える。エル、忘れっぽいけど、がんばる。えっとね、忘れないコツってある?』
「繰り返すことだ。毎日、一つだけ思い出せ。難しいことじゃなくていい。神殿の光とか、声の感じとか、枕にしたこととか」
『枕は……怒られるからやめて……』
「怒られない。今はもう、怒られない」
言った瞬間に、私は自分の言葉が残酷に聞こえた。怒られないというのは、許されたという意味ではなく、怒る相手がいないという意味でもある。エルは少し黙り、やがて小さく頷いた。
『うん。じゃあ、毎日ひとつ。マリンスノーを数えるのより、できそう』
長老が、私の肩越しにエルを見て言った。
「エル。今日は、よぐやったべ。……余計な線を引ぐな」
『余計な線って、ヒゲの線?』
「そうだべ!」
『うっ……』
村人たちの間に小さな笑いが起きた。
私は、最終的な修理素材の提供について、最後の確認を行った。村の縁に沈む金属片、古い構造材の破片、そして分子機械の補修用に使える微量元素の塊。長老は、必要分を分けてくれた。〈先住者〉側も、倉庫からいくつかの素材を持ち出し、黙って差し出した。互いに疑いが残る中でも、「外部者を帰す」という一点では一致していた。外部者が残れば、また均衡が歪むが、彼らもそれを理解している。
コープニックの分子機械が素材を咀嚼し、必要な元素を抽出していく。修理が進むほど、私は一つの事実をはっきり自覚した。この星で私ができることは、もうあまり残っていない。残れば残るほど、彼らの自立の芽を踏む。私は去らなければならない。
出発の準備が整ったころ、エルが私の前に立った。彼女は両手を背中に回し、何かを隠している。
『巨人さん、これ、あげる』
彼女が差し出したのは、小さな塊だった。マリンスノーを圧縮して固めたような白い球で、表面に微細な粒子が光っている。食料の貯蔵品だろう。私は驚いた。
「これは君たちの食料だ。受け取れない」
『でもね、巨人さん、帰るでしょ? 帰るのってね、長いでしょ? 長いとね、お腹すく。お腹すくとね、難しい顔になる。難しい顔になるとね、タコに負ける。だから、これ、いる!』
理屈は雑だが、気持ちは真っ直ぐだった。私は断り切れず、受け取ってケースに入れた。
「ありがとう。大事にする」
『うん。大事にして。食べるときはね、ひとくちで食べないで。ひとくちで食べるとね、むせる。エル、前にむせた』
「参考にする」
長老が、私に向けて短く言った。
『天の客人。もう一度言う。忘れるな。主さまの話を、世界のどこかで軽く扱うな』
「分かっている」
分かっている、と答えたが、本当は分かり切れていない。私は、ただ、自分が今抱えている情報が刃になる可能性を理解しているだけだ。どう扱うべきかの正解は、まだ手探りだ。
私は、コープニックを海底から浮かせ、氷の天井へ向けて上昇を始めた。マリンスノーが窓の外をゆっくり流れていく。雪のようで、灰のようにも見える。降り積もるものは美しく、同時に何かを覆い隠す。
エルが、下で手を振っている。彼女の動きは大きく、相変わらず少し不器用だ。それでも、彼女は笑っていた。笑うことで、別れを軽くしようとしているのだろう。軽くならないと分かっていても、軽くしようとする。私はその努力が痛いほど尊く見えた。
氷層が近づき、量子ドリルの光が回転する。無音の掘削が始まり、私は暗い海から氷の世界へ戻っていく。出口の直前、私は一度だけ振り返った。
深海は見えない。しかし、見えない場所に、二つの村がある。境界線を引き、距離を取り、試行錯誤を始めた村がある。神殿の支えを失い、それでも生きる道を作ろうとしている村がある。
そして私は、もう一つの「見えないもの」を抱えたままだ。
『願掛け装置』は、どこかに残っている。
座標はない。しかし、存在の事実がある。私はその事実を、世界にどう置くべきか分からない。持ち帰るだけで、道ができる。黙れば、自分の中で腐る。語れば、誰かが探す。探せば、誰かが願うだろう。
私は、氷を抜け、裂け目の底へ浮上した。薄い空気がコープニックの外殻を撫で、私の感覚を現実へ引き戻した。上には宇宙がある。冷たく、広く、無関心な宇宙が。
それでも私は、宇宙が無関心だからこそ、人が責任を負わなければならないのだと思った。
私はアンダーソン二世号へ戻り、離陸シーケンスを起動した。
別れのマリンスノーが、まだ胸の中で降っていた。




