第十三章 神様の死、そして本能
村へ戻る道は、行きよりも長く感じた。
実際の距離は変わらないのに、マリンスノーが落ちる速度が遅く見え、暗闇の厚みが増したように感じる。神殿が崩れ、淡い光が海へ溶けたときから、私の感覚はずっと「後ろ」を気にしていた。
何かが追ってくる気配ではない。もっと曖昧で、もっと厄介な感覚だ。空気が変わる前兆に似ている。
エルは、いつもなら先を泳いで振り返り、勝手な説明を始めるのに、今日は私のすぐ横を黙って泳いでいた。尾鰭の動きが小さく、必要以上に水を掻かない。無駄な勢いがないというだけで、彼女が相当こたえているのだと分かった。
私は、声をかけるべきか迷ったが、言葉が軽くなりそうで、しばらく黙った。
村の灯りが見えた。洞窟の入口付近に集まる影が多い。畑でマリンスノーを掬う人魚たちが散っているはずなのに、みんな内側へ寄っている。私は少し不安を感じた。この集団も、不安があって集まっている。集まった不安は、次の瞬間には怒りへ変わる。
洞窟の入口へ近づくと、ざわめきが聞こえた気がした。
音響というより、ライトの揺れと尾鰭の動きの乱れが「騒がしさ」を伝える。村人たちが互いに距離を詰め、目を見開き、口を開いている。話しているはずなのに、私は聞こえない。深海はいつもそうだ。最も重要な声ほど、遠い。
誰かが私に気づいた。視線が一斉にこちらへ向く。その視線には、好奇心よりも先に緊張が混じっていた。
私は、武装をオフのままにし、両手を下げ、ゆっくり近づいた。
長老が、前へ出た。試験艦へ行く前より目が開いていた。
「……戻ったか」
私は、頷いた。
「神殿は崩れた。主さまは……もう戻らない」
長老の顔から、血の気が引いたように見えた。実際には、血の色など分からないが、表情の筋肉が固まるのが分かる。周囲の村人がざわめき、誰かが一歩引いた。その動きが連鎖し、群れが二つへ割れる――、マルモ人と、〈先住者〉とに。
私は、その瞬間、はっきり理解した。ここには最初から二つの「集団」があったのだ。仲良く並んでいたから、私は一つの共同体だと思い込んでいた。しかし、並んでいたのは「混ざっていた」のではなく、「並べられていた」だけだった。
〈先住者〉側の代表格らしい個体が、長老ではなく私へ向けて話しかけた。言葉は方言混じりの〈先住者〉語だが、発音が奇妙に整っている。学習した言語だと分かる。
『天から来た者よ。神殿で何をした?』
両方のグループの視線が、さらに鋭くなる。
私は、短く息を吐き、説明を始めた。神殿の内側で見たこと、キーフラスという〈先住者〉の人格が残っていたこと、その人格が自らを終わらせるように艦を自己分解させたこと。村の共存が、神殿の主による調整に支えられていた可能性があること。私は、推測と事実を分けて語ったつもりだった。しかし、語れば語るほど、彼らの目に宿る感情が複雑に絡まっていくのが分かった。
長老が、私に低い声で言った。
「主さまは……自分で眠りに入ったのか」
「そうだ。私が殺したわけではない。ただ、私は中へ入った。結果として、終わりを早めた可能性はある」
私は、そこで、言葉を止めた。これ以上の正直さは、ここでは刃になる。私は、責任を否定できないが、責任を背負うだけで彼らを救えるわけでもない。
洞窟の入口付近で、誰かが小さく叫んだ。
『だから言ったべ! 天の客人は災いだって!』
別の声が、続く。
『違う! 天から来た者がいなければ、主さまが弱ってることも分からなかった!』
言葉が交差し、視線が交差し、交差が摩擦を生む。
摩擦は、熱になる。そして、熱は、怒りになる。
――私は、その速度が、あまりに速いことに背筋が寒くなった。これは単なる動揺ではない。何かが、反応の閾値を下げている。
〈先住者〉側の集団が、微妙に位置を変えた。マルモ人側と距離を取りながら、互いに背中を守るように並ぶ。自然な防御陣形だ。
私は、そこで、長老の言葉を思い出した。「近づくと心が変になる」。神殿の近くの影響ではない。神殿が消えたことで、抑えられていた「本来の反応」が戻ってきたのだ。
私は、一歩前へ出た。誰かが私を止めようとする前に、私はできるだけ大きな身振りをせず、声を張り上げる代わりに、落ち着いた調子で言った。
「聞いてくれ! 神殿の主がいなくなった以上、ここは以前と同じではいられない。しかし、今ここで互いを敵と見なせば、どちらも生き残れない」
マルモ人型の村人から疑いの視線が向く。〈先住者〉型の側からは、計算するような視線が向いた。
私は、続けた。
「君たちは同じ場所で同じ資源を使い、同じ狭い洞を共有している。文化が違えば、同じ距離で暮らすこと自体がストレスになる。今までストレスが表に出なかったのは、神殿の主が調整していたからだ。調整が消えた今、摩耗は急に“憎悪”に変わりやすい」
私は、一度だけ息を吸い、次の言葉を選んだ。ここで言うべきことは、綺麗事ではない。生存のための現実だ。
「だから距離を取れ。分離して暮らせ。完全に断絶する必要はないが、接触の密度を下げろ。争いが起きそうになったら、引く仕組みを作れ。引くことは敗北ではない。生存の手段だ」
ざわめきが一瞬止まった。止まったのは同意ではない。意外だったのだ。私は「仲良くしろ」と言うと思われていたのかもしれない。しかし、仲良くしろという命令は、いまの彼らにとって油だ。火に油を注ぐ。
マルモ人の長老が、ゆっくり頷いた。
『……距離を取る。昔の話にも、そんな知恵はあったべ。しかし、主さまが止めてくれてたから、わしらは忘れてただな』
〈先住者〉側の代表格が、少し遅れて言った。
『距離は、資源効率を低下させる。しかし、破壊はもっと効率が悪いわ。分離案を検討する』
言葉は機械的だが、そこに「拒絶」がないことが重要だった。
私は、少しだけほっとした。解決ではない。しかし、暴発は避けられるかもしれない。
そのとき、エルが前へ出た。さっきまで黙っていたのに、急に勢いを取り戻したように見えた。
しかし、その勢いはいつもの無鉄砲さとは違う。目が少し潤んでいるように見えた。彼女は両手を広げ、マルモ人側と〈先住者〉側とを指さすようにして叫んだ。
『ケンカだめ! だってね、ケンカするとね、マリンスノーがへる! みんな食べられない! それでね、イライラして、もっとケンカする! エル、それ知ってる!』
私は、思わずマルモ人の長老を見る。長老の口元が、ほんの僅か緩んだ。
エルの理屈は単純だが、循環としては正しい。争いは資源を減らし、資源不足が争いを増やす。だから止めなければならない。倫理ではなく循環として語るのは、今の場に合っている。
〈先住者〉側の一体が、ぼそりと呟いた。
『……単純な者の言葉は、時に最短の解になるわ』
エルは、聞こえなかったのか、聞こえても意味が分からなかったのか、首を傾げて私を見上げた。
『巨人さん、エル、ちゃんと喋れた? 難しい言葉、使ってない?』
「十分だ。今はそれが一番いい」
エルは、少し誇らしげに笑い、すぐに笑顔が揺らいだ。
『でもね……神殿の人、ほんとに起きないの? エル、ちゃんと謝ってない。枕にしたこととか、勝手に歌ったこととか……』
私は、答えに詰まった。謝りたかったのだ。彼女は無知で、軽率で、それでも関係を大切にしていた――大切にしていたからこそ、喪失が重い。
「起きない。しかし、君が覚えていることが、謝る代わりになる。忘れなければ、それは無駄にならない」
私は、自分の言葉が綺麗すぎるのではないかとも思った。
しかしエルは、しばらく考え、うんと頷いた。
『じゃあ、覚える。エル、忘れっぽいけど、がんばる』
長老が咳払いし、場を締めた。
『今日は、ここまでだべ。みなの集、距離を取るだ。言葉が荒くなる前に、散るんだべ。明日、境界と約束を決めるべ。神殿の主さまがいなくても、生きる道を作れるべ』
群れがゆっくり解けていく。完全には解けず、視線はまだ硬かった――しかし、今すぐの衝突は避けられた。
私は、わずかに息を吐いた。喉の奥に残っていた鉄の味が、少しだけ薄くなった気がした。
その夜、私は洞窟の外縁で、コープニックの中から簡易修理を続けた。
バラストの微小亀裂を埋め、推進器の出力偏差を補正し、ドリルの位相リングを調整して摩耗を抑えるようにした。作業は単調で、単調だからこそ、頭の中にキーフラスの言葉が何度も浮かぶ。
――願いは、善意でも世界を壊す――
私は、神殿を壊したわけではない。しかし、私は、神殿に触れた。触れたことで村の均衡は崩れた。触れなければ崩れなかったかもしれない――そう考え始めると、どこまでが責任で、どこまでが必然なのか、境界が曖昧になっていく。
曖昧は、人の心を蝕む……長老はそれを知っていたのか。
私は、工具を置き、暗い海を見た。海は、何も答えない。答えないからこそ、私は自分で答えを作るしかない。
「この星を、早く去るべきだ……」
私は、独りごちた。外部者であり、ここに残れば残るほど、彼らは私を次の「調整者」として見始めるだろう。私は、キーフラスの後継者になれないし、なるべきでもない。私は、ただの冒険者だ。そして、冒険者がやるべきことは、危険の存在を知り、それを無闇に拡散しない形で扱うことだ。
だが、すでに道はできている。
キーフラスが隠した、『願掛け装置』は、どこかにある。座標は不明だが、そういったものが「ある」という情報は、私の中に残った。私が生きて帰れば、その情報は外へ出る可能性がある。そうしたら、誰かが探す。探せば、誰かが見つける。そして、誰かが願う。
私は、拳を握りしめ、ゆっくり開いた。
自分の手が、いま何を掴んでいるのか分からなかった。掴んでいるのは鍵なのか、刃なのか、それとも、誰かの痛みの残り香なのか。
……背後で、エルが小さく言った。
『巨人さん、明日ね、エル、ちゃんと境界の線ひくの手伝う。線ひくの、得意。前にね、長老のヒゲに線ひいて怒られた』
「……それは手伝いとは言わない」
『でもね、線は線だよ?』
私は、短く笑ってしまった。笑った瞬間、自分の中の重さが少しだけ解けた。
エルの軽さがなければ、私はとっくに深海の圧力に潰されていたかもしれない。
私は、告げた。
「分かった。明日は頼む。ただし、長老のヒゲには触るなよ」
『はーい。ヒゲは我慢する!』
その返事を聞きながら、私は、決めた。
明日、最小限の支援をしたら、私はこの星を離れる。彼らが自分で歩くための距離を作り、その距離の中で、彼ら自身の秩序を育ててもらう。
私は、深海の静けさの中で、ゆっくりと次の航路を思い描いた。




