第十章 謎の村の長老
長老は、私を見つめたまましばらく動かなかった。
深海の薄暗い空間で、彼の目だけが妙に澄んで見える。皺の刻まれた頬も、剥げた鱗も、ここで積み重なった時間の厚みを物語っているのに、視線だけは鋭かった。
私は、軽く頭を下げ、できるだけ落ち着いた声で話を続けた。
「私は、氷の上から来ました。この星の探査をしています」
長老は小さく頷き、低い声で言った。
「そうだずが。こっだなどこには、何もねえけどなはぁ……」
村の人魚たちが、洞窟の入口近くで息を潜めている。彼らは言葉を交わさず、視線だけで互いの反応を確かめているようだった。怖がっているというより、異物を前にしたときの警戒と好奇心が入り混じっているようだ。
私は、ライトの照度をさらに落とし、両腕を下げた姿勢のまま静止した。
その横で、エルだけは落ち着きがなかった。彼女は私と長老の間を忙しなく泳ぎ、片方の顔を見ては、もう片方の顔を見て、落ち着かなそうに尾鰭を揺らしている。
『長老! 巨人さんだよ! 氷の上から落ちてきた!』
『落ちてきたんでねぇ。降りてきたんだど』
『え? 違うのけ? でも氷の上って高いべ? 高いどころから来だら、そりゃー落ちるつーだべょ?』
長老は一瞬だけ目を細め、そしてため息をついた。
私は、内心で助かったと思った。長老が「怒る」より先に「呆れる」顔を見せたからだ。呆れはまだ対話が成立している証拠でもある。
『エル、少し静かにしてけれ』
エルは、私の方に向き直った。
『えー、でもね、エルが説明しないとね、長老はね、すぐ“難しい顔”になるの。難しい顔になるとね、話が長くなるの』
『……それは当たってるだどもはぁ』
長老がぼそりと返し、周囲の村人の何人かが小さく笑った。私は息を吐いた。緊張がわずかにほどけた。ここには「笑い」がある。少なくとも、今この瞬間は。
……私は、長老へ向き直り、要点を整理して話し始めた。氷の上からの探査目的、深海に沈む巨大構造物の反応、そしてここへ降りる途中で番人のような機械に襲撃されたこと。コープニックが損傷を受け、修理素材を探していること。できるだけ誇張せず、余計な推測も挟まずに話した。
長老は、黙って聞いた。言葉を遮らないが、目は私の顔ではなく、時折コープニックの外装へ移っている。機械の状態を見ているのだろう。私は探査者として、観察されるのに慣れているつもりだったが、長老の視線にはどこか、センサーで測定されるような、居心地の悪さがあった。
私が、話し終えると、長老はしばらく考えるように沈黙した。
洞窟の奥では、マリンスノーがゆっくり舞っている。空気のないはずの深海で雪が降るように見えるその光景が、妙に現実感を薄めていく。私は、自分が宇宙船で来たことを忘れそうになった。
長老が、口を開いた。
『神殿に、近づいては、いかんと言われてるべ』
短い言葉だったが、言い切るような強さがあった。エルが、ぴくりと反応し、私の方を見た。
『神殿、だめなのけ?』
長老は、エルへ視線を向け、少しだけ声を柔らかくした。
『だめだ。けんど……いまの話を聞ぐと、お前さんは、もう近づいてしまったべな」
私は、頷いた。番人に襲われた地点から考えても、神殿の防衛圏に入った可能性が高い。私は、長老の目を見て言った。
「私は、行かなければならない。あれが何で、何を守っているのかを知る必要がある」
『知る必要ってなんだべ? 帰れねぇほどの必要か?』
長老の問いは、責める調子ではなかった。むしろ本気で、私の意志を確かめている。私は少し言葉に詰まり、正直に答える。
「必要かどうかで言えば……私にとっては、必要だ。あそこに残っているものが、放置すべき危険かもしれない。そうなら、知った者が責任を取るべきだ」
自分で言いながら、胸の中に重みが落ちた。「責任」という言葉は、簡単に口にするほど軽くない。しかし、私は、ここで退くと、のちにもっと重い形で後悔すると直感していた。
長老は、私を見つめ、ゆっくり頷いた。
『……ふむ。天の客人は、ただの物好きでねぇようだべ』
そのとき、エルが口を挟んだ。
『物好きってね、エルも好きだよ! 物、好き! マリンスノーも好き! あとね、光る石も好き!』
「エル、いまはそういう話でねぇ!」
『え? じゃあ、好きじゃない話?』
長老は、またため息をつき、私は思わず口元が緩むのを抑えた。場が和むのは助かるが、長老の話の核心は、別だ。私は、姿勢を正した。
「神殿とは何だ? あなた方にとって、どんな意味がある」
長老は、洞窟の奥へ視線を向けた。言葉を選んでいるようだった。
『あれは……昔からそこにあるべ。神さまが眠っているところだと、言い伝えられてきただ。わしらは、神殿に近づがねぇ。近づぐと、タコさ出るべ。近づぐと、運さ悪くなるべ。近づくと……心が、変になるべ』
「心が、変になる?」
『怒りっぽぐなっだり、疑い深くなっだりするべ。仲が良かったはずなのに、急に嫌いになるべ。そういうのさが、起ぎる』
私は、背筋に薄い冷たさが走るのを感じた。心理の変調を「場所」のせいにする伝承は、いくつかの星で聞いたことがある。電磁場や超低周波、あるいは情報素子の影響で、神経系や認知に干渉する例もある。
私は、慎重に言葉を選んだ。
「神殿の近くで、争いは起きたことがあるか?」
長老は、黙り、次にゆっくり首を振った。
『起きそうになったことは、あるべ。しかじ……神殿の主さまが止める』
私は、眉をひそめた。
「主さま?」
エルが、得意げに頷く。
『そうそう! 神殿の人! えっとね、たぶんね、すっごいえらい! あとね、すっごい眠い!』
「お前は、眠いしか言えんのか?」
『だってね、眠いって大事だよ? 眠いとね、悪いことしない』
長老は、一瞬だけ言い返せず、口を閉じた。
私は、そこで、村人たちの表情に微妙な変化があることに気づいた。笑っている者もいるが、笑いの端に疲労が混ざっている。神殿の主が「止める」という言い方は、感謝と同時に、依存を含んでいる。
私は、さらに問いを重ねた。
「主さまは、姿を見せるのか?」
『見せねぇ。声だけだべ。夢に出ることもあるだ。しかし、誰も神殿の中へ入ったことはねぇだ。入ったら戻んねぇ、って話もあるべ』
私は、唇を引き結んだ。入って戻らない。典型的な禁忌の語りだ。しかし、今回の禁忌の裏には、〈先住者〉の遺物がある。伝承の形をとった危険情報は、しばしば正しい。
長老は続けた。
『お前さんは、神殿の船を探してると言っだな。だったら、行ぐしかねえべ。しかし、勝手に行かせるわけにゃいかねぇべ』
私は、頷いた。
「条件があるなら聞く」
長老は、私をじっと見た。
『帰ったら話さ聞かせてぐれ。神殿の中で何を見たか、な。神さまは何者なのか。わしらは、ずっと曖昧なまま生ぎできたんだべ。曖昧のままが楽なときもあるべ。しかし……最近、少しずつ、揺れてきたべ』
「揺れてきた?」
『小さな喧嘩が増え、笑い方が変わって、疑いが増えたんだべ。わしは、神殿の主さまが弱っているんじゃねぇかと思っとる』
私は、喉の奥が硬くなるのを感じた。神殿の主が「弱っている」。もし、それが人工知能の制御系だとしたら、劣化や電力低下、あるいは自己修復機構の限界が来ている可能性がある……彼らの生存が制御に支えられているなら、制御が弱まると、即座に破綻へ繋がる。
エルが、不安そうに尾鰭を揺らした。
『長老、神殿の人、死ぬの?』
『死ぬって言葉を使うな! ……だが、眠りが深ぐなることは、あるべ」
『眠りが深いとね、起きないよね……』
エルの声が、先程よりもより小さくなった。無知で明るい彼女が、不安という感情を言葉にできず、ただ「眠り」という理解できる概念で考えているのだろう。
長老は、一度咳払いし、話題を変えるように手を振った。
『もう一づ。神殿へ行くなら、道具が要るべ。鍵もいる。エル、持ってごい」
『え、エルが? えっと……どこに置いたっけ……』
『だがら、お前ぇは……』
長老が言いかけて、止める。村人たちが、慣れたように笑った。エルは、慌てて泳ぎ出し、洞窟の奥へ消えた。私は、その後ろ姿を見ながら、彼女が案内役として本当に機能するのか不安になったが、今さら変えようもない。
長老は、私に目を戻した。
『神殿の近くで、タコに捕まったら、抵抗しすぎるな。抵抗すると壊れる。壊れだら、神殿の主さまが怒る』
「怒るのか?」
『怒るっていうよりは……きっと、悲しむべ。わしは、そう思っとるだ』
悲しむ。長老の口から出たその言葉が、妙に重かった。神殿の主が単なる防衛機構なら、悲しむはずがない。これは――この人魚達のような人工知性体がいるのだろうか?
そう推測していると、エルが戻ってきた。両手に小さな結晶片を抱えている。抱え方が雑で、危うく落としそうだ。
私は、思わず身を乗り出した。
『あった! ほら! これ! えっとね、これが“鍵”。長老が大事にしろって言ったの。エル、前にね、光ってきれいだから、枕にしたの!』
「枕にしたのか?」
『うん。痛かった! でもね、夢がキラキラした!』
長老が、低い声で言った。
『お前ぇは、ほんまに……』
私は、結晶片を受け取り、表面の微細構造をスキャンした。|光の位相を変化させる格子が描かれている。それも単なる回路ではなく、光学素子になるタイプだ。これは、ジャープッカ系のアクセスキーとして、十分あり得る。
私は、慎重に結晶片をケースへ収納し、長老へ頭を下げた。
「許可をもらえるなら、私は、行く」
『行げ。しかし、帰ってけぇ。帰ってきて、話すんだべ。そりゃ、わしらのためだけじゃねぇ。お前さん自身のためでもあるべ。見たものを、自分の中だけに閉じ込めると、心が壊れる」
私は、一瞬だけ返答に迷った。私は、冒険者として、見たものを記録し、持ち帰り、売買し、評価し、また次へ行くという仕事をしているのだ。その習慣がある。しかし、長老の言葉は、探査の技術ではなく、精神の健康維持の話だった。彼は、何を危惧しているのだろうか……? 分からなかったが、私は、小さく頷いた。
「分かった。戻ったら話す」
長老は、満足そうに頷き、私へ背を向けかけて、ふと思い出したように付け加えた。
『それと……神殿の主さまのごとを、軽く扱うでねえょ。あれは、わしらがこの海で生ぎるための、最後の支ぇだで』
私は、胸の中でその言葉を反芻した。最後の支え――もしそれが折れれば、村はどうなるのか――長老の言葉の重さを、今さらのように感じた。
エルは、私の横に来て、こっそり囁いた。
『巨人さん、だいじょうぶ? 怖い?』
「怖くない、と言えば嘘になるな」
『じゃあね、エルが応援する! えっと……“がんばれー! タコに負けるなー!”』
「うおっほん」
私は、思わず笑いそうになり、咳払いで誤魔化した。
私は、結晶片の入ったケースを確認し、コープニックの戦闘ログを再チェックした。
そして、神殿へ向かった。




