8.仔猫をお仕置きする親猫
森の中は、さっきまでの湖畔とまるで違っていた。光が届かない。風も通らない。鳥の声が一度だけ鳴って、すぐに消えた。
岩尾は肩にかけたリュックを直しながら、ゆっくりと坂を下っていた。午後は一人でこの道を歩いていたのだが、予定にはなかった散策コース――というより、下山ルートを間違えたか? そんなふうに思っていた。
……はずだった。
かすかに歌声が聞こえた。前方に、小さな人影が見えた。
赤い帽子。小さな身体。1人でベビーカーを押している。子どもだ。男の子。
「坊主、赤ん坊連れて一人か?」
岩尾が声をかける。が、返事はない。
近づくと、子どもはふっと顔を上げた。無表情だった。母親の姿は、どこにもない。
「おいおい、まさか迷子か? 」
岩尾はしゃがみこんで、目線を合わせる。子どもは何も言わずに、ただじっと見つめ返してきた。
妙な気配だった。子どもの目の奥に“風がない”。普通の子なら、怖がるか、泣くか、逃げるか、安心するか、何にしろ心が動くはずだ。けれど、この子はどれでもなかった。
その胸に、何かが下がっている。
青い珠――静かな光を放っていた。ルルが青龍から得た、あの宝珠とよく似ている。
(……まさか)
岩尾は、ゆっくりと息を吐いた。
「なぁ、坊主」
穏やかな声を意識して出す。
「それ、いいもんつけてんな。キラキラ光って。ちょっと見せてくれねえか?」
男の子は、わずかに首をかしげた。
「……見るの?」
その声は、子どものものなのに――
背筋に冷たいものが走った。
「ああ。ちょっとだけでいい」
男の子は、そっと指で宝珠をつまむ。光が、ふわりと強くなった。岩尾の視界の端で、木々が揺れる。風は吹いていないのに。
耳の奥で、誰かの命令する声が聞こえた。
「どけ」
次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。地面が遠ざかり、音が波のように引いていく。足が一歩、勝手に動いた。
(……やられたか)
頭の奥で冷静な声がした。だが、意識は沈まない。身体の奥に、芯があった。熊男の相棒と鍛えた、獣人並みの根性――いや、鈍感さか。
「――効かねぇな」
岩尾は低く笑った。男の子の表情は、まったく変わらなかった。
岩尾は無造作に手を伸ばし、男の子から宝珠を取った。またさっきと同じめまいのような揺らぎを感じたが、またも踏ん張ってかわした。
その途端、男の子が岩尾の腕に噛み付いた。
男の子の歯が、がっちりと岩尾の腕に食い込んでいる。思ったよりも重い。力がある。こんな小さな子どもが、と思う間もなく血が滲んだ。
「ちょ、ちょい待ち!」
腕を引いても離さない。振りほどけば簡単に飛ばせるが――相手は子どもだ。岩尾は歯を食いしばり、腰を落とす。
「……よし、組み打ちだな」
男の子の背を取るようにして、地面に押し倒した。力を殺して、寝技に持ち込む。男の子の腕を軽く押さえ込みながら、低く言った。
「おい、坊主、落ち着け。話をしよう」
しかし、男の子は答えない。目が焦点を結ばず、空を見ていた。
そのとき、背後で――ガタン、と乾いた音がした。ベビーカーが倒れたのだ。
「うわっ」
慌てて手を離して振り向く。男の子の噛みつきが外れ、腕が自由になった。
風がふっと吹き抜ける。
どこからともなく、鳥の声が戻ってきた。
同時に――遠くで呼ぶ声がした。
「岩尾!」
「ケンゴーさん!」
ラウスとルルの声だった。結界のような何かが破れたのか。
「こっちだ!」
岩尾が叫ぶ。ラウスが林を突っ切って現れた。背中には葉と枝がくっついている。その顔には焦りと、獣じみた警戒が同居していた。
「その子どもだ! そいつがEOだ、気をつけろ!」
ルルも駆け寄り、青ざめた顔で男の子の帽子を拾い上げている。岩尾は頷き、再び男の子に手を伸ばす。
男の子は、ぐったりとしていた。気を失っているらしい。
「……大丈夫? 腕に血が」
ルルが息を詰めて尋ねる。
「大丈夫。ちょっと歯形がついたけどな」
岩尾が笑って、噛まれた腕を軽く振る。
ラウスが男の子の胸元を探った。
「宝珠は!?」
「今、俺が――」
岩尾の言葉が途中で止まった。
手のひらを開く。
そこにあるはずの、青い光は――なかった。
「……ない」
ラウスとルルが同時に顔を上げる。
風がまた吹いた。
倒れたベビーカーが、ゆっくりと起き上がるように傾く。
その横に、赤ん坊が座っていた。
いつの間にか、起きていたのだ。小さな両手で、何かを握っている。
青龍の宝珠。
その光が、赤ん坊の頬を青白く照らしていた。
そして、赤ん坊は――
にたぁ、と笑った。
頬の肉が不自然に吊り上がり、目の中が真っ白だった。黒目がない。いや、光が反射していないのだ。まるで、目というより“穴”。その奥で、何か別のものが覗いているようだった。
「まさか……この赤ちゃんが……」
ルルが声を失う。ラウスも息を呑んだ。
「……EO」
「らしいな」岩尾の低い声が続いた。
赤ん坊は、ころころと喉を鳴らすように笑った。だがその笑いには、どこにも幼さがなかった。
「――やっと、手に入れた」
甲高い声でそう言った瞬間、赤ん坊の身体がふわりと浮かび上がった。まだベビーカーの毛布をまとったまま、空中に浮かぶ。風が逆巻き、木々がざわざわと震えた。
「まさか、見た目で騙されるとはな」
赤ん坊の口元がねじれる。その声音は、赤子のものではなかった。ひどくかんに触る高い声。
「知能が低い。お前たち、人間の血を引く者はどこまで愚かだ」
ラウスが歯を食いしばる。
「ふざけんな、赤ん坊が喋ってんじゃねぇ!」
「赤ん坊ではない。まだ見た目に引きずられているのか」
そう言いながら、浮いたままの赤ん坊の手が上がる。――衝撃が走った。
空気が押し潰されるように沈む。ラウスとルルの身体が地面に叩きつけられた。まるで重力が十倍になったようだ。息を吸うことすら苦しい。
「ぐ……うっ!」
「ルル! 動くな……!」
ラウスが必死に声を絞り出すが、腕が動かない。
ルルも同じく、地面に頬を押しつけられながら、宝珠を見上げた。
赤ん坊が高く笑う。
「ハハハハハ! 醜いな。這いつくばる生き物どもめ!」
その声は、耳の奥を針で突くようだった。
もうダメだ――
ルルがそう思った瞬間、視界の端で何かが動いた。
ひょい、と。
赤ん坊の身体が持ち上がった。
あっけないほど自然に。
「だから俺には効かないんだってば」
岩尾だった。
片手で赤ん坊の服の背中をつまんで、ぶら下げている。まるで子猫でも持つように。
ラウスが唖然とした顔で叫んだ。
「お、おい岩尾!? なんで立ってんだよ!」
「いや、なんか知らんけど効かねぇんだよな。俺、変なワクチン打ったことあるし」
「その理屈なんだよ!」
岩尾は平然とした顔で、赤ん坊の手から宝珠をすっと取り返した。
「はい没収」
「……離せ!」
赤ん坊がジタバタ暴れるが、まるでぬいぐるみのように揺れるだけ。
「だから効かねぇって言ってんだろ。お前、知能が低いんだな」
「貴様――!」
「いや、赤ん坊に“貴様”って言われても怖くねぇし」
完全に岩尾無双だった。ラウスもルルも、ただ唖然として立ち上がるしかない。
「仔猫をお仕置きする親猫みたい」ルルが呟く。
「えっと……これ、どうすんの?」とラウス。
「保育園には持ってけねぇな」と岩尾。
しばらくぶら下げた赤ん坊を見下ろし、ため息をついた。
「離せぇ! その宝珠は我らのものだ……!」
EOベイビーが甲高く叫んだ。
「青龍の血など邪魔でしかない! だから奪えぬのだ……あの女の血が、それを拒む!」
ルルが思わず呟く。
「やっぱり、わたしの血が……」
「黙れ!」
EOベイビーの白い目が光る。
「我らは宝珠を要する。あれがなければ、“門”が――」
言いかけて、ぴたりと口を閉じた。
その顔が、妙に冷静だった。先ほどまでの激情が、嘘のように消えている。
「……“門”が、なんだ?」ラウスが眉をひそめる。
EOベイビーは、わずかに笑った。
「――教える理由がない」
その瞬間、体が淡く光を帯びる。
ラウスが手を伸ばすより早く、空気が歪んだ。
「おい、待て!」岩尾が声を上げたが、遅かった。
赤ん坊の身体がふっと軽くなり、手の中に服だけが残る。
地面に落ちかけた小さな体が、ぱっと光って――消えた。
「……おい」
岩尾の手に残されたのは、毛布と小さな服だけ。
「あいつ、自分で逃げやがった」ラウスが低く呟く。
岩尾が肩をすくめた。
「都合の悪いことになると転移か。赤ん坊にしてはサバイブ力高ぇな」
ルルは唇を噛み、宝珠を抱きしめる。
「“門”……あの子、何を言おうとしたのかしら」
ラウスが小さく頷く。
「わからねぇ。でも、あいつらが宝珠を必要としてるのは確かだ」
その青い光が、かすかに震えていた。




