7.しずかなこはんのもりのかげへと
母親は、突然、走り出した。一直線に湖の外れへ。我が子たちを置き去りにして。
「待って!!!」
「待てっ!!!」
ルルとラウスの声が重なる。
次の瞬間、ラウスのぬいぐるみの姿は解けた。光が弾けて、人の姿が現れる。
「ラウス!」ルルが叫ぶ。彼は振り返らず、地を蹴った。
熊の脚力で、林の方へと走る。観光客がざわめき振り返る。
湖畔に残ったルルの前では、男の子が泣き出していた。
「お母さん! どこに行ったの!? あのぬいぐるみが急に……!」
涙で顔をくしゃくしゃにして、ルルの腕にしがみつく。
「ねえ、ここにいて。わたしも行かなくちゃ」
「やだ! 怖いよ!」
男の子の指先がルルの服を掴んで離さない。その後ろで、ベビーカーの中の赤ちゃんまで泣き出した。二人の泣き声が、湖の静けさを破る。
ルルは胸が締めつけられるのを感じた。
(この子たちを……置いては行けない)
足元の水が、かすかに青く光った。
母親は、林を抜けて駆けていく。まるで獣人のような速さだった。
ラウスは後を追いながら叫ぶ。
「止まれっ! 宝珠を返せ!」
だが、母親は振り返らない。帽子が飛んでも気にせず、足を止めずに走る。そのとき、後ろから小さな声が届いた。
「お母さん!」
男の子の叫びだった。母親にもその声が聞こえたらしい。ぴたりと止まり――
突然、方向を変えた。
ラウスの脇をすり抜けて、再び湖の方へと駆け出す。
その動きはあまりにも速く、あまりにも滑らかだった。ラウスが振り返った時には、もう彼女の背中は遠ざかっている。
「お母さん!」
泣きながら、男の子が両手を広げて走り出した。母親はそのまま、彼のもとへ飛び込むようにして膝をつき、強く抱きしめた。
「返せ!!」
ラウスが追いつき、母親の腕を掴んで引き剥がす。
母親は激しく抵抗しようとするが、次の瞬間――ラウスが彼女を地面に押し倒した。
「宝珠を返せっ!」
ラウスの声と、周囲のざわめきが同時に起こる。
「何してるんだ!?」「女性に暴力!?」
釣り人たちやハイカーたちが駆け寄ってきて、ラウスを取り囲む。
ラウスが必死に叫ぶ。
「違う、聞いてくれ、これは――!」
しかし誰も耳を貸さない。ルルが説明しようとするが、混乱の波に飲まれて声が届かない。
そのわずかな隙に――
男の子は、倒れている母親のそばからすっと離れていく。そして、ベビーカーのハンドルを掴む。
人々の視線がラウスに集中している間に、彼は小さな手でベビーカーを押し、ゆっくりと離れていった。
ひとりの女性が気づいて声をかける。
「ねえ坊や、倒れてるのはお母さんじゃないの?」
男の子は立ち止まらず、少しだけ振り返って言った。
「違うよ。知らない人」
そして、そのまま行ってしまった。ベビーカーを押して散歩しているかのように。
男の子の首には、宝珠が下がっていた。
群衆の声が、湖畔にこだました。
「誰か警察を!」「あの男、女性を倒したぞ!」
ラウスは息を荒げ、叫ぶ声にかき消されながら立ち尽くしていた。倒れた母親の手には、もう宝珠の光はなかった。急いであたりを見回す。
「ルル!」
「ここ!」
ルルが駆け寄る。
「宝珠は?」
「……奪われた」ラウスの声は低く震えていた。
「母親じゃない、あの子どもだった。やつが持っていった。見失った。匂いがしないんだ」
「匂いがしないなんて」ルルが目を見開く。「それじゃああの男の子が、EOの……」
ラウスが頷いた。ルルは苦し気な顔のまま、母親の頬をそっと押さえる。肌は冷たく、瞳は焦点を結ばない。
「この人……息はある。気を失っているみたい」
ラウスは拳を握った。
「操られてたんだ。あの子どもに」
ラウスを取り囲んでいた人々は、いまは遠巻きに見ている。
やがて母親は意識を取り戻した。
「あら。ここは……わたしは何をして」
不思議そうに頭を振っている。その様子に集まっていた人たちは徐々に興味を失ったようにその場から離れていった。
まもなく警察がやってきた。ラウスはその母親を警察に保護してもらう。
「自分のことをよく覚えていないみたいなんです。倒れたのを俺が介抱していました」
警察が母親に聞くと「たぶん。どうやらそうみたいで」と腑に落ちない顔をしている。
やがて警察はラウスとルルの説明を受け入れ、母親を連れて去っていった。
湖のほとりにルルがしゃがみこむ。
「私のせい……私が、油断したから。大切なものを簡単に……」
「ちがう!ルルのせいじゃない。ルルの優しさを利用して、あいつら。許せない」
ラウスが低い声でうなるように言う。
「それに俺が、テディってたから。とんだ役立たずだ」
「ラウス……」ルルが顔をあげる。「わたしたち、ふたりとも……。ふたりで」
「うん」
「ふたりで、一緒に強くなっていこうね」
ラウスが一瞬息をのみ、そしてルルの頭をそっと抱えて、自分の肩に抱き寄せた。ルルの頭に顔をのせて言う。
「一緒に、もっともっと強くなる」
ルルが腕の中で涙をこらえて頷いた。
男の子は、まっすぐ前を見て歩いていた。ベビーカーの車輪が、砂利の上をころころと鳴らす。泣き止んだ赤ん坊は、まだ目を閉じている。男の子は抑揚のない声で歌っていた。
「しずかなこはんのもりのかげから」
湖畔の道を通るたび、人々が男の子に気づく。ベビーカーを押す小さな姿を見て、「ひとりで?」と眉を寄せる。けれど――彼らは、すぐに曖昧な表情になっていく。まぶたの奥に薄い膜でも張られたように、目の焦点がゆるんで去っていく。
「もうおきちゃいかがと かっこうがなく」
誰も異常を感じない。誰も止めない。男の子は、歌いながら歩き続ける。
木々の影が濃くなる。森の入り口へ近づくにつれ、空気が重く沈んでいく。足音が一つ、また一つ、土に吸い込まれていく。
鳥の声も消えた。
風さえ止まった。
歌声だけが響く。
「カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ」
歌に合わせて、ベビーカーの車輪が一定のリズムで進む。まるで何かに導かれているように、男の子の足取りは迷いがなかった。胸元の青い宝珠が光を受けて、ちらちらと揺れる。
――森の奥へ、奥へ。
その先に、人影があった。日焼けした腕、軽装のリュック、山歩きの帽子。一見すると、ただのハイカーに見える。
「坊主、赤ん坊連れて一人か?」
明るい声が響いた。
それは、岩尾だった。




