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6.マイハニーの尾びれ

 山の小道を抜けると、視界がぱっと開けた。そこには、鏡のように静かな湖があった。春の光が水面に跳ね、風が渡るたび、きらきらと模様が変わる。新緑を映して、湖は深い緑にも見えた。


「……すげぇな」

 ラウスは思わず足を止めた。さっきまでの獣道が嘘みたいに、ここだけ空気が柔らかい。鼻の奥に冷たい水と若葉の匂いが入ってくる。


「ここが“鏡ヶ淵”ですって」

 ルルが木の案内板を見ながら言った。

「昔は、山の龍がここに映ったって言われていた……ですって」

「龍の?」

「青龍のような雰囲気は感じないけど、きれいで気持ちいい!」

 ルルが嬉しそうに伸びをする。


 湖畔には家族連れやカップル、釣り人の姿がぽつぽつ見える。休日らしい平和な景色。笑い声も、鳥の鳴き声も、どこか遠くで響いている。


 ルルは靴を脱いで、そっと水辺に近づいた。白い足首が光を受けて、まぶしかった。足を浸すと、水が音もなく広がる。


「冷た……でも、気持ちいい」

 ルルがしゃがんで、両手で水をすくう。滴がこぼれて、陽の光の粒になって弾けた。


 ラウスは、その様子をただ見ていた。目の前にあるのは、戦いや血の匂いとはまるで違う世界。ルルの髪が風に揺れて、頬に水が光る。どこか現実離れした光景だった。


「……ルル」

「ん?」

「お前、ちょっと……足、どうなってんだそれ」


 ルルが慌てて足元を見る。膝下が淡い透き通った鱗に覆われ、指先が薄いひれに変わっていた。

「……あ」

「で、出てる! 尾びれ出てる!」

「ご、ごめん! 気持ちよくてつい……」

「ついじゃねぇ! 人前――」


 言い終わる前に、観光客の一団が近くを通りかけた。ラウスは反射的にルルの背に手をまわしてルルの姿を隠すようにする。観光客たちは何も気づかず通り過ぎた。

 「はー、びっくりした。でもルルの尾びれ、綺麗だな。うろこが水にきらきらして」

 じっとルルの尾びれをみつめてうっとりするラウスに

 「あの……」ルルが小さな声で言う。「ラウス……?」

「ん?」とラウスが顔をあげると目の前にルルの真っ赤な顔がある。

 はっと我に返れば、ラウスはルルの肩を抱いたままだった。

 ラウスも見る間に赤くなる。

「わわわ! 」

 慌ててルルから身を離す。

 ルルが真っ赤な顔のまま「ううん、ありがとう」と恥ずかしそうに言う。

 可愛い……その瞬間ラウスは 「やべっ」と声を上げ――

 ぼふんっ、と煙のような音を立てて、ぬいぐるみサイズになった。


 ルルが驚いて両手で抱き上げる。

「わっ……また縮んだ!」

「不可抗力だって!ルルが可愛すぎるから! 」

「もう!」ますます恥ずかしがるルル。

「お、俺は理性的なヒグマだ!」何を言っているかわからないラウス。

「はいはい」

 ルルは赤い顔のままくすっと笑って、ラウスの頭をなでた。

 ふわふわの耳が、くいっと動く。


「……あぁもう、なんでお前そんなに」

「え?」

「なんでもねぇ!」

 ぬいぐるみが、ぷいっと顔を背けた。


 そんなやりとりをしていると、後ろから足音がした。ラウスが動きを止めてじっとする。

 ルルが振り向くと、親子連れが湖のほうに歩いてくるところだった。ベビーカーを押す赤い登山帽の母親と、同じ色の野球帽をかぶった小さな男の子。


「あ、バスで会った人たち」

 ルルが小声で言い、ラウスも思い出した。

(熊に間違われそうになったときの。 あ、いや間違いではなかったけど!)

 

 湖面を渡る風に赤い帽子が揺れ、光を反射する。母子は近くのベンチに腰を下ろし、ベビーカーで眠る赤ん坊の頬を撫でた。男の子もちょこんと座る。ルルはしばらくその親子を見つめていた。赤ん坊の頬に、光が差していた。ふくふくと柔らかそうな頬を母親が愛し気にそっとなでる。ルルもその母親と同じような優しい目をしている。


 ラウスはその横顔を見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。“守りたい”と思った。あの母親が赤ん坊の頬を優しく撫でるように。理由もなく、ただそう思った。


「……マイ、ハニー」

「え?」

「マイ、ベイベー……」

「何それ」


 ルルが吹き出して笑った。風がひとすじ吹いて、湖の水面が揺れた。水の匂いが少し強くなる。

 

 湖は静かだった。風が止むと、音という音が全部、どこかへ吸い込まれてしまう。鳥の声も、釣り糸のたてる水音も。代わりに聞こえるのは、光の粒がはぜるような、かすかな揺らぎだけだった。


 ルルは浅瀬に立って脚を浸したまま、目を閉じた。足もとを包む水のぬくもりが、体の奥まで沁みてくる。体の中の「人魚の血」が、ゆっくりと目を覚ますような感覚。


「……落ち着く」

「そりゃよかった」

 ラウスが、小声でささやく。

 (俺たち、絵に描いたようなカップルだな)

 自分でそんなことを思いながらふと湖面を覗き込むと、ルルと自分の姿が鏡のように映っている。美少女と、その腕に抱かれるくまのぬいぐるみ。

「なんか、理想と違う」


「ん?」

「いや、独り言。湖に映って、世界がひっくり返ってるみてぇだな」

「うん……そうかも。上と下が、同じ顔してる」

「湖の向こうの空にも、俺らいるみたいだ」

「それ、ちょっとロマンチック」

「いや、ホラーかも」

 ルルが笑って、水を指ではじいた。水面が輪を描いて広がり、“鏡”の中の世界が一瞬だけ揺れる。


 そのとき、どこかで子どもの笑い声がした。ラウスが振り向く。少し離れたベンチでは、あの赤い帽子の母子がピクニックのようにシートを広げていた。母親がサンドイッチを取り出し、男の子が歓声を上げている。


「なんか、ほのぼのしてんな」

「うん。……いいなぁ、ああいうの」

 ルルは少し笑って、湖の水を指先で弾いた。


「ルル、そういうの好き?」

「うん。母が人魚だったから……ああいう“あたたかい”感じ、少し憧れる」

「……そっか」

 ラウスは湖に石を投げた。石が水面を二回はねて沈む。水紋が広がるたび、ルルの尾びれがほんの少しだけ透けて見えた。


 ラウスは言葉を探して、結局、

「お前なら、きっといい母ちゃんになると思う」

とだけ言った。

 ルルが目を丸くして、顔を真っ赤にした。

「な、なにそれ……いきなり」

「いや、別に深い意味は……!」

「ラウス、もう!」

 ルルは両手で顔を覆い、指の隙間からちらっとこちらを見た。ラウスはもう何も言えなかった。その沈黙が、春の空気の中でゆっくりと溶けていく。

(くそっ、テディっていなければ、今めちゃナイスなキスシーンになるところなんじゃ!?)

 そう妄想すると余計にぬいぐるみの姿から戻れない。


 やがて、湖に一筋の風が走った。葉の影が水面に落ちて、光が細かく砕ける。ルルが振り返ると、さっきの母子がベビーカーを押してこちらに向かってきている。母親は柔らかく微笑み、男の子が手を振っている。


(いけない!)

 ルルはさっと尾びれを人間の脚に戻した。水に塗れる白いふくらはぎ。それを見てしまったラウスは、まだ人の姿に戻れない。仕方なく、ぬいぐるみのふりをする。


「こんにちはー」男の子が駆けてきてルルに明るく挨拶をする。

「こんにちは」ルルは腕の中のラウスを気にしつつも、笑顔で返す。

 (動かないでね、ラウス)

 母親が追いついてきて同じく笑顔で話しかけてくる。

「もしかして、この前バスでご一緒しませんでした?」

「はい!そうなんです」

「やっぱり!あのときこの子を助けてくださった方のお友だちですよね。今日はご一緒じゃないのですか?」

 ルルは少し目を泳がせて「え、ええ」と答えた。


 そのとき男の子がルルの胸元に下げた宝珠に手を伸ばした。

「綺麗!見せて!」触ろうとしたその瞬間、

「いけません!」と男の子の手を引っ叩いたのはその母親だった。

「人様の物にいきなりダメでしょう」怖い顔で叱る。男の子はう…と涙を堪えて俯く。

「ちょっと見たかった、だけ、で」我慢できずしゃくり上げ始める。

 ルルは慌てて「見たかったのよね。どうぞ」と首から外して男の子の目の前に差し出した。

「わあ、綺麗。ありがとう!」男の子の涙目が明るく輝いた。そしてちょっと手を近づけては引っ込めたのを見て、

「少し触ってもいいよ?」とルルが宝珠を自分のてのひらに乗せた。

「いいの?ありがとう!」


 男の子は笑顔で言って、宝珠をそのまま手に取った。

「あ」ルルが何か言う間もなく、男の子の手から、今度は母親が宝珠を掴んだ。

 母親は突然表情をなくし、宝珠をその手に握り込んだ。そして、走り出す。


「待って!!!」「待て!!!」

 ルルとラウスの声が、とり残された子どもたちのうえに響いた。

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